私の名前は希望です

棕櫚の聖日(聖餐式)
礼拝メッセージ 「私の名前は希望です」
聖書 ヨハネによる福音書18章28-30節
ヨハネによる福音書シリーズ(158)

18:28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18:29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18:30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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鶏鳴



ヨハネは、最高法院による宗教裁判と並行して起きたペトロの否認を、アンナスによる予審をはさむ形で、2ヶ所に分けて記しています。初めに第1の否認だけを記しましたが、続く箇所に第2、第3の否認が記されています。
ちょうど今頃の季節、花冷えのする夜でした。大祭司の屋敷の中庭で、そこに集まっていた人たちに紛れ、火に当たっているペトロに突然、声がかかりました。「お前もあの男の弟子の一人ではないか。」ペトロは前の時よりも語気を強め、その声を打ち消して「違う」と否定しました。それから、少し時間をおいて、「大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者」が来て、「園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか」と言いました。
ゲッセマネの園での騒動を覚えているでしょうか。イエスが捕らえられようとする中、ただ一人、ペトロだけが剣を振るって立ち向かいました。そして、大祭司の下役に怪我をさせてしまったのです。その下役の名はマルコスであったと、名前まで記録されていたのは、ペトロの否認の伏線でした。「お前、あの現場にいただろう。俺は見ていたんだよ。」絶体絶命、もう逃げられません。それでも、ペトロはその声を再び打ち消しました。
ヨハネはその時のペトロの発言をあえて記さず、その後のペトロの立ち直りに関しては、復活の後の出来事として感動的に描いていますが、ルカ福音書のカメラは、この時のワンシーンをまるで一枚の写真に収めるかのように切り抜いています。それは彼が3度目にイエスを知らないと言い、鶏が鳴き出した瞬間でした。ルカ福音書22章61節、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」
このルカの証言に従うなら、鶏の声と最後の晩餐の席で語られたイエスの言葉を結びつけたのは、イエスの愛にあふれる眼差しでした。ペトロは、「今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。深夜に鳴り響いた鶏の声も、イエスの眼差しも、神がペトロを眠りから目覚めさせ、もう一度はじめからやり直させるために備えられた神の恵みだったのです。
今日の写真は鶏鳴教会(ペトロの否認の現場、カイアファの屋敷跡に立つ記念教会)の尖塔に立つ十字架です。私たちの心を呼びさます声が聞こえますように。

次の日曜日は教会暦で棕櫚の聖日。キリストの最期の一週間(受難週)が始まります。

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祈りのチャレンジ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヤコブの手紙から。

1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。
1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。

4:3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。

5:16 …正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。

今週は『あかしびと』の巻頭のことばからのお勧めでした。
「祈れ! 祈れ!」との声が響きます。

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挫折のすすめ



新年度がスタートしました。名古屋教会も実習生を迎えての一年がスタートし、私個人としても今月から新しいチャレンジが始まっています。期待と不安の中で、この季節に毎年のようにお伝えしているメッセージは、渡辺和子シスターの本で有名になった「置かれた場所で咲きなさい」との言葉です。
この言葉は、次のように続きます。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに行き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」境遇を選ぶことはできませんが、生き方を選ぶことはできます。どんな所に置かれても、花を咲かせる心を持ち続けることができれば幸いです。
渡辺和子先生の書物に、「挫折のすすめ」という話しがありますので、少し紹介したいと思います。
「毎年四月に入学してくる学生たちの中には、この大学を第一志望としていなかった人も何人か必ずいて、私は「仕方なく入って来た」とわかる学生たちの顔を見ながら考えます。人生は、いつもいつも第一志望ばかり叶えられるものではありません。そして必ずしも、第一志望の道を歩むことだけが、自分にとって最良と言えないことだってあるのです。
これは、私自身が今まで何回か、第二志望を余儀なくされて思うことです。
まず、小学校。・・・」という話しから始まって、大学受験、修道会入会の話しが続きます。
ほんとうはそこに入りたいと願っていた修道会があったのですが、間際になって断られます。理由は、当時29歳で、年を取り過ぎていると判断されたことと、口紅を付け、ピンクや赤のセータを着て、派手な生活をしていると思われたためだったそうです。修道会入りが遅れたのは、年を取ったお母さまのそばにいてあげたかったこと、また医学部に進んだお兄さまの卒業と結婚をサポートするためだったのですが、残念ながら入会は叶いませんでした。
その後、ある方の勧めで、まったく見も知らぬノートルダム修道女会の門を叩くことになりました。シスターの言葉です。「第一志望ばかりが自分にとって最良とは限らない。挫折したからこそ出会えるものがある。挫折は自分を鍛え、きっと成長させてくれる。」
新年度のスタートに「挫折のすすめ」はふさわしくないでしょうか。でもきっと、これから何度も挫けそうになる私たちにとって、この季節にこそ必要な勧めなのだと思います。聖書にもこう書かれています。「わたしたちは知っています。苦難は(挫折は)忍耐を、忍耐は練達を(磨かれた品性を)、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことが(失望させることが)ありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

今日は地域の先生方との集まりが持たれました。若い先生方を迎え、こちらも新しいスタートです。
初心に帰って、今週も大切なことを大切に。

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もう一度はじめから

礼拝メッセージ 「もう一度はじめから(挫折のすすめ)」
聖書 ヨハネによる福音書18章25-27節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(157)

18:25 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。
18:26 大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」
18:27 ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

ルカによる福音書
22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
22:62 そして外に出て、激しく泣いた。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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4月のオープン礼拝



次の日曜日は4月のオープン礼拝です。
テーマは「もう一度はじめから」。
希望と不安が入り混じる新しいシーズンに、
聖書から大切なメッセージをお届けします。

毎月第一日曜日は、教会は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。弥富公園東、丘の上の教会です。
入場無料、駐車場あり、お子さま同伴も歓迎します。

オープン礼拝は、日曜の朝10時30分から。
弥富公園東、丘の上の教会。

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お前は神の子、メシアなのか。



イエスを十字架に付けるための裁判が始まりました。ヨハネ福音書だけが伝える、時の権力者アンナスによる予備審問において、彼はイエスに、弟子のことと教えのことについて尋ねましたが、イエスは弟子のことについては一切語らりませんでした。弟子たちを守るためです。教えに関する質問については、どうだったでしょう。イエスは、こう答えています。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている」と。
すると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言い、平手でイエスを打ちました。ここにこの裁判の不当性が露わにされています。当時のユダヤの司法制度は非常にレベルが高く、冤罪を招かないように被告人を保護するシステムが確立されていました。被告人を告発する際に、証言者を立てるのは告発する側の責任であり、イエスの側にはなかったのです。また、その尋問が、その人の教えに関することであれば、告発者は自らの責任において証人を立てる必要がありました。ですから、何を教えたかを、教えた本人である被告人に問うべきではなかったのです。実際、アンナスはイエスの言葉に何も言い返せないでいましたが、その困惑した表情を見て、一人の下役がイエスを平手で打ちました。イエスはその暴力にも、「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と抗議しています。それは下役に対してだけではなく、それを容認しているアンナスへの抗議でもありました。
結局、アンナスは沈黙のまま、イエスをカイアファのもとに送ります。ヨハネは、カイアファの尋問に関しては何も触れず、裁きはピラトの法廷に移されますので、カメラを切り替えて、カイアファの法廷も確認しておきましょう。マタイのカメラです。
イエスはアンナスのもとから大祭司カイアファの屋敷に連行され、深夜の非合法な裁判を受けられます。過越祭の特別な夜、深夜にも関わらず、手回しよく集められた最高法院のメンバーの前に、やつれ果てたイエスが立たせられました。それは異例中の異例であって、ただ冒瀆の罪を立証し、イエスに死刑を言い渡すための集まりに過ぎませんでした。
この席で、嘘で塗り固められた証言が次々となされますが、イエスは再び沈黙を貫き何も答えませんでしたが、どの証言も食い違いを見せ、イエスを追い詰めるには至りませんでした。そこで、しびれを切らせたカイアファが、一芝居を演じ、時の大祭司として、神の名によって証言することを命じます。この命令が出されれば、黙秘権を行使することができなくなるのです。マタイ26章63節、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
イエスは口を開き、こう証言しました。「それは、あなたが言ったことです。」マルコの福音書を見ると「そうです」となっていますが、口語訳聖書がギリシャ語をそのまま訳しています。「わたしがそれである。」これはギリシャ語の「エゴ・エイミ」で、ヘブライ語の「アニーフー」に相当する神が自己啓示されるときの特別な表現なのです。また言われました。「わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子(わたし)が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と。これが「お前は神の子、メシアなのか」との大祭司の尋問に対するイエスの答えでした。
イエスはこの答えによって、自分に死罪が宣告されることは百も承知でしたが、イエスはその証言にその命をかけられたのです。それは、イエスを神の子、メシアと信じる者に永遠のいのちが与えられるためでした。
イエスからこの証言を引き出した大祭司は、内心、ほくそ笑んだことでしょう。彼はそれを表情には出さず、着物を引き裂きながら言いました。「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた」と。人々は一斉に「死刑にすべきだ」と答えました。
今、私たちはこの歴史を変える裁きの座に立っています。「イエスは神の子、メシアなのか。」これには真偽二通りの答えしかありません。イエスが「アニーフー」と言われるとき、それが事実か嘘か。もし嘘であれば、イエスは冒瀆罪で死に価します。しかし、もし事実であれば、イエスを拒否した者が重大な冒瀆罪を犯すことになるのです。
イエスは私たちをその罪から贖うために、裁きの座に立ち、「アニーフー」と神性の証言にいのちをかけてくださいました。「アニーフー」と言われる方が、私たちの罪の身代わりとなり、その命を投げ出してくださったのです。

4月になりました。教会近くの公園の桜も満開です。
次の日曜日は、4月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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彼らの嗣業は主御自身である

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
民数記8章、ヨシュア記13章から。

民数記
8:6 イスラエルの人々の中からレビ人を取って、彼らを清めなさい。
8:14 レビ人をイスラエルの人々から区別すると、レビ人はわたしのものとなる。
ヨシュア記
13:33 モーセはレビ族に対しては嗣業の土地を与えなかった。
主の約束されたとおり、彼らの嗣業はイスラエルの神、主御自身である。

今週も春の京都聖会のメッセージを学ばせていただきましたが、レビ人の姿から、私たちのあるべき姿を教えられました。

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毎瞬間



京都の聖会で、Z教授が語られた「祈りと歌」とのメッセージは示唆に富んだものでした。
冒頭、詩編96編を読まれた教授は、詩編には96編以外にも、5つ「新しい歌を歌え」との呼びかけで始まる詩編があるが、果たして私たちに「新しい歌」が必要なのか。今までに知られている歌では十分ではないのか、との問題提起をされ、私たちのうちにある新しいものへの渇望について語られました。「私たちが日々、くり返し唱える定められた祈りが、その祈りの意義を深く考えることの妨げとなることがある。つまり、私たちの唇は動いていても、私たちの頭と心はそこになく、祈りが祈りになっていないことがある」と。そして、詩編87編のミドラッシュ(ユダヤの聖書注解)が引用されました。「井戸が毎瞬間新しい水を湧き上がらせるように、イスラエルは毎瞬間新しい歌を唱える。」
ミドラッシュとは、「捜し求める」という意味ですが、ユダヤ教の聖書注解法の一つで、行間を読むように、神の秘められた思いを捜し求めるものです。ここでは、新しい歌が、湧き上がり、流れている水にたとえられていることがわかります。
教授は「新しい歌」について、古いものを否定することではなく、祈りと賛美において、一旦立ち止まり、今までわからなかった言葉の意味を、新たな状況において自分と結びつけ、それを新しい歌、祈りにすることが大切なのだと教えてくださいました。
私たちの祈りと歌が習慣惰性に陥らないように、井戸が毎瞬間新しい水を湧き上がらせるように、神との新しい出会い日々を求めたいと思います。先ほどミドラッシュで紹介した詩編87編7節を聖書で確認しましょう。「 歌う者も躍る者も共に言う。『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」
エレミヤ哀歌3章22節、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」
「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」「さあ、我々は主のもとに帰ろう。」毎瞬間、毎瞬間・・・。

今週も大切なことを大切に。

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わたしの源はすべて

礼拝メッセージ 「わたしの源のすべては」
聖書 ヨハネによる福音書18章19-24節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(156)

18:19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18:20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18:21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18:22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18:23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

詩編
87:7 歌う者も躍る者も共に言う。「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。
(ミドラッシュによる解説「井戸が毎瞬間新しい水を湧き上がらせるように、イスラエルは毎瞬間新しい歌を唱える。」)

今週も礼拝の恵みに感謝。

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