6月のオープン礼拝



次の日曜日は6月のオープン礼拝です。
今月は他の教会行事のため、第2週の開催となりました。
毎月、教会は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝を開催しています。
今月のテーマは「永遠なるもの」です。
ぜひお出かけください。

オープン礼拝は、日曜の朝10時30分から。
弥富公園東、丘の上の教会。

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我らは四人であった



今回の葬儀で紹介した内村鑑三先生の言葉から。19歳の長女ルツ子さんを天に送った後に書いたという短い詩です。

我らは四人であった。
しかして今なお四人である。
戸籍帳簿に一人の名は消え
四角の食台の一方はむなしく
四部合唱の一部は欠けて
讃美の調子は乱されしといえども
しかも我らは今なお四人である。

我らは今なお四人である。
地の帳簿に一人の名は消えて
天の記録に一人の名はふえた。
三度の食事に空席はできたが
残る三人はより親しくなった。
彼女は今なお我らのうちにいる。
一人は三人を縛る愛の絆となった。

しかし我らはいつまでもかくあるのではない。
我らは後に又前の如く四人になるのである。
神のラッパの鳴り響く時
寝れる者が皆起き上がる時
主が再びこの地にきたり給う時
新しきエルサレムが天より降る時
我らは再び四人になるのである。

四人とは内村先生の家族構成を示しますが、私たちも先に天に召された方々に想いを馳せるとき、かつて一緒に過ごした人数を入れて読むことができます。内村先生は長女の眠る墓地のひと握りの土をつかんで「ルツ子さん、万歳」と叫んだと言います。それはやせ我慢でも強がりでも現実逃避でもなく、彼の信仰でした。
「わが国籍は天にある。」また会う日まで。

次の日曜日は6月のオープン礼拝になります。ぜひお出かけください。

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聖書と私

今週も祈祷会を大切に。
今週の祈祷会は、教会員の葬儀に合流しました。長年、KBS京都のアナウンサーとして活躍された方で、すてきな声の持ち主でした。10年前に奥様に先立たれ、8年間、京都で独り暮らしをされた後、2年前に娘さんのいる名古屋に来られ、最後は準備万端、奥様の待つ天国に旅立って行かれました。昨日の前夜式では、少し長い原稿でしたが、「聖書と私」と題して書かれた手記を代読させていただきました。その中に、聖書との出会いが書かれていましたが、それは有名な「善いサマリア人」の譬え話との出会いでした。ルカによる福音書10章から、リビングバイブルで。

10:25 ある日、律法の専門家がやって来て、イエスを試そうとしました。「先生。お聞きしたいのですが、永遠のいのちを受けるには、何をしたらよろしいでしょうか。」
10:26 「モーセの律法には、何と書いてありますか。」
10:27 「『心を尽くし、たましいを尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』(申命6:5)、それに、『自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』(レビ19:18)とありますが。」
10:28 「そう、そのとおりにすればいいのです。そうすれば、永遠のいのちを得られます。」
10:29 しかし律法の専門家は、自分がある人々を愛していないことを正当化しようと、「隣人とはだれのことですか?」と聞き返しました。
10:30 イエスは直接答える代わりに、たとえを話されました。「エルサレムからエリコへ旅をしていたユダヤ人が、強盗に襲われました。強盗どもは、身ぐるみはぎ取り、あり金全部を奪うと、その人を殴ったり、蹴ったりして半殺しにし、道ばたに放り出して逃げて行きました。
10:31 ちょうどそこへ、ユダヤの祭司が通りかかりました。ふと見ると、旅人が倒れています。でも、めんどうに巻き込まれたくなかったので、道の反対側へ回り、何くわぬ顔で通り過ぎてしまいました。
10:32 しばらくすると、今度はレビ人(神殿で奉仕する人)が通りかかりましたが、彼も、倒れている旅人を横目でちらりとながめただけで行ってしまいました。
10:33 ところが、常日頃ユダヤ人に軽蔑されていたサマリヤ人がたまたま通りかかり、旅人を見つけました。その人をかわいそうに思ったサマリヤ人は、
10:34 急いでそばに近づいて、傷口に薬をぬり、包帯を巻いて応急手当をしました。それから自分のろばに乗せ、宿屋まで運んで、一晩中、看病してあげました。
10:35 翌日、宿屋の主人にデナリ銀貨二枚を渡し、『あの人を介抱してあげてください。足りない分は、私が帰りに寄って払いますから』と頼みました。
10:36 この三人のうちだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 律法の専門家は答えました。「もちろん、親切にしてやった人です。」この答えを聞くと、イエスは言われました。「そのとおりです。あなたも同じようにしなさい。」

私たちの善きサマリア人となり、永遠の命と希望を与えてくださる主に感謝。
「また会う日まで、神の恵み、たえせず共にあれ。」

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主の足もとに座り



昨日は、教会の婦人会(マリア会)のミニ修養会が半日のプログラムで持たれ、短いプログラムでしたが、参加されたみなさんが恵まれた顔で帰って行かれ感謝でした。
「マリアは良い方を選んだ」とのテーマで、私たちの継続仲代である日々のクリスチャン生活の底上げについて、聖書が示すマリアの姿から三つのことを教えていただきました。第一に、ルカ福音書の10章から、「マリアは主の足もとに座って」。主の足もとに座るとは、神との一致の生活。神の御顔を毎瞬間仰ぎ続ける霊的生活のことです。第二に、同じくルカ福音書の10章から、「その話に聞き入っていた」。これは御言葉に仕える生活。御言葉をむさぼり食べ、御言葉に生き、生かされる生活。第三に、マルコ福音書の14章から、「香油を・・・注ぎかけた」。これは神の御心、御計画を実現するために、全存在を主にささげ、自分のできるかぎりのことをする献身生活。この三つがマリアの選んだ「良い方」であり、彼女から取り去ってはならないと言われているものでした。
今週も主の足もとにとどまることを第一にできますように。今週も大切なことを大切に。

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マリアは良い方を選んだ

マリア会大会
礼拝メッセージ 「マリアは良い方を選んだ」松田成美先生
聖書 ルカによる福音書10章38-42節、マルコによる福音書14章3-9節

10:38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

一番大切なことがなんであるかを改めて教えていただきました。
そこに腰をおろして再スタートです。今週も礼拝の恵みに感謝。

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孤立と埋没



神の願いは、私たちがこの世にあって、キリストの証人として生きることです。イエスの約束です。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者(パラクレートス)、すなわち、父のもとから出てくる真理の霊(聖霊)が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも・・・証しをするのである。」「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
クリスチャンが陥りやすい2つの傾向があると言われています。それが「純粋の孤立」と「妥協の埋没」です。前者は、信仰の純粋性を守ろうとする余り、いつのまにか周りから煙たがられて孤立してしまうことであり、後者は、この世と上手く付き合おうと妥協する余り、いつの間にかこの世に埋没してしまうことです。しかし、神の願いは、私たちがこの世から孤立するのでも、埋没するのでもなく、「地の塩」として「世の光」として、ある時は目立たず、ある時は大胆に生きることなのです。
使徒言行録1章8節の「わたしの証人(マルテュス)」という言葉には、殉教者という意味があると教えられていますが、いま、教会の最初の殉教者となったステファノのことを考えてみましょう。彼は使徒ではなく、エルサレム教会の一信徒でした。彼から学ぶ、キリストの証人の特色の第一は、聖霊に満たされていることです。ステファノに関する記事は、使徒言行録の6章と7章に集中していますが、聖霊に満たされた人という表現が4回も出てきます。「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」とあるとおりです。
彼らから学ぶ、キリストの証人の特色の第二は、彼が輝いた顔をしていたことです。言葉だけではなく、彼は顔でキリストを証ししたのです。ステファノがエルサレムの議会に証人として立った時、「席についていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた」とあるとおりです。ちょうどモーセが神と顔と顔とを合わせて語ったので、その顔が光り輝いていたように、ステファノも内におられるキリストをいつも見ていたので、その顔が輝いていたのです。それだけではありません。彼は、神の右に立つ栄光のキリストを見ていたのです。この世にはたくさんの戦いがあるかも知れません。しかし、ステファノが見たもう一つの現実があることを忘れてはいけません。「ステファノが聖霊に満たされ、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は言った、『ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』」と。
「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」イエスから目を離さないでいなさい。

今日から6月です。次の日曜日は、教会の婦人会(マリア会)のミニ修養会が行われますので、礼拝はそちらに合流します。6月のオープン礼拝は第2週の10日です。


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聖霊の充満

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。

エフェソの信徒への手紙
3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

今週も『あかしびと』5月号から、あかしびとのページに掲載されたY.N先生の証しを映像で見ていただいたき、巻頭のことば「聖霊の充満」を学びました。ひとりの人が聖霊に満たされるとき、リバイバルは神の定められた時に起こるべくして起こる。次の日曜日はマリア会大会、なによりも聖霊に満たされることを祈り求めます。

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葛藤



十字架の前夜、最後の晩餐が終わった後、弟子たちに語られたイエスの最後の教えが続きます。ゲッセマネの園に向かう道すがら、「ぶどうの木の譬え」が語られましたが、枝として選ばれた目的が述べられた後、キリストと弟子たちとの関係から、この世と弟子たちとの関係に話題を移します。キリストと弟子たち(私たち)の関係は、ぶどうの木と枝のつながりであり、友という言葉でも表現されました。では、この世と弟子たちの関係はどうでしょう。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」この後の部分も含めて言えば、この世にあって、キリストのように生きたいと願うクリスチャンの感じる葛藤や違和感の理由がここに語られています。
「世」という言葉がくり返し使われていました。ギリシア語の「コスモス」という言葉ですが、ヨハネ福音書に77回、特に13章から17章まで、イエスの最後の教えの中に44回もくり返し出てくる言葉です。おおよそ3つの意味がありますが、文脈によってその意味を見分ける必要があります。第一に、宇宙という意味です。それは神が秩序と調和をもって創造され美しい世界のことです。コスメ(化粧)という言葉はここから来ています。第二に、宇宙の中で最も大切なこの地球に住む人類のことです。ヨハネ福音書3章16節で「世を愛された」と言われている使い方です。そして、第三に、神に敵対する世界、勢力のことで、ヨハネ福音書の多くは、この意味で使われていることになります。
神の選びが、聖書の教える人生観とするなら、神が支配する神の王国と「世の支配者」であるサタンが治める闇の王国との対立は、聖書の教える世界観です。クリスチャンになれば、すべてがハッピーになるかと言えば、そうではありません。世の支配者が治め、多くの人が神を信じていない世界の中で、クリスチャンとして生きるのには、多くの戦いがあります。聖書を学び、クリスチャンとして成長すればするほど、葛藤(争いやもつれ)を感じ、違和感(不自然さ)を感じるのです。
イエスの言葉の通り、クリスチャンは、闇の王国から神の王国に移されたという点で必然的に憎しみの対象となりました。しかし、これは、あなたが神に愛されているから、あなたが輝いているから、あなたが憎らしいと言われているのであって、私たちとしては本来責められるべきことではありません。
ペンテコステの後、使徒に対する迫害が始まりました。ユダヤの指導者たちは、イエスに対してしたように、ねたみに燃えて、使徒たちを捕らえました。そして、彼らを鞭で打ち、イエスの名によって話してはいけないと命じました。しかし、使徒言行録はそのときの弟子たちの心境をこう伝えています。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた」と。

今週も大切なことを大切に。

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キリストの証人

礼拝メッセージ 「キリストの証人・前編」
聖書 ヨハネによる福音書15章18-27ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(124)

15:18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
15:19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
15:20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
15:21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
15:22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
15:24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
15:25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
15:27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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プロは道具を大切にする。音楽家には楽器。料理人には鍋や包丁。イチローの活躍の背後にも、彼のバットを20年近く作り続けてきた専門職人がいるそうだ。多くの説教家にとっての道具。それは辞書であり、さまざまな書物であり、パソコンであり・・・・・・。しかし、多くの場合、あまりに身近すぎて気づかれず、ぞんざいな扱いを受けている道具がある。それは「声」である。・・・
「声」についての説教者必読書は、今なお竹内敏晴の『ことばがひら劈かれるとき』である。彼は言う。

「話しかけるということは、こえで相手のからだにふれること、相手とじかに向かいあい、一つになることにほかならない。・・・話しことばは、まずこえを発する衝動がからだの中に動かなければ生まれない。・・・話しことばは、まずなによりも他者への働きかけです。相手に届かせ、相手を変えること。・・・たんなる感情や意見の表出ではない。・・・われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだを劈こう、とする努力、それがこえであり、ことばであり、表現である、とこう言いたいのです。」

声は、説教原稿の文字を業務的に読み上げる道具ではない。説教者は肉体をもって、会衆の前に立つ。そして、福音に突き動かされ、肉体から湧き起こる声をもって、しかも福音の光の中で、ある願いを抱きつつ、声で聴き手にふれるのである。説教者は、その声をもって、相手を変えようとする。自分に起こった変化が、聴き手にも起こることを願いながら。
そして、その言葉が相手に届く瞬間、聴き手は動く。礼拝堂の空気が震える。


『説教を知るキーワード』という本を読んで、教えられることが多かった。使徒言行録の2章のペンテコステの朝の説教のように、聴く人のからだに触れるような声で説教ができるように祈る。

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。・・・ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」アーメン。

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