キリストにおいて完成する

礼拝メッセージ 「キリストにおいて完成する・前編」
聖書 ヨハネによる福音書17章20-23節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(143)

17:20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
17:22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

エフェソの信徒への手紙(詳訳聖書)
1:10 すべてのものを、すなわち、天にあるものも地にあるものも、キリストにおいて一つにする〈キリストにおいて完成する〉ために、時が熟するのを〈世々の頂点を〉〔計画されたのです〕。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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あこや貝の涙



テベリヤ教会の献堂30周年記念礼拝で語られたメッセージの中で、「志摩と言えば真珠」と言うことから、真珠の歴史や真珠がどのようにして生み出されるかという話を聞きました。その話しを聞きながら、私はイエス・キリストが語られた譬え話を思い出していました。マタイによる福音書13章に出て来る「天国のたとえ」のひとつです。
「また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、それを買うのである。」
すぐ前には、畑に隠された宝というよく似た譬えもありますが、どちらも財産をすっかり売り払って、宝を手に入れるという話しです。そのように、天国とは、どのような犠牲を払っても惜しくはない、最高の宝であると教えられる訳ですが、東京聖書学院の初代院長であった笹尾鉄三郎先生はこう言います。「この譬えを信者の側から見ないで、キリストの側から見なさい」と。
キリストの側からこの譬えを読めば、高価な真珠を見つけ、自分の持ち物をすべて売り払い、それを手に入れた商人こそキリストです。であるとするなら、キリストがどんな犠牲をはらっても、手に入れようとした真珠こそ、ほかではありません。それはあなたであり、私なのです。
ダイヤモンドがなかった当時、真珠は宝石の中で最も高価なものと考えられていました。神は、地上で最も高価な真珠を選び、あなたがどれほど価値ある存在であるかを伝えようとされたのです。
真珠の尊さはどこにあるのでしょう。真珠の成分は黒板に字を書くチョークとほとんど変わらないそうです。真珠をつぶせば、石灰の粉にしか過ぎないのです。それなのに、どうして真珠には価値があるのでしょう。真珠はあこや貝の中に入った砂や異物を、あこや貝がその液体で丁寧に包んで、その傷みをもたらすものと共に生きることによって生み出された、あこや貝の命の中から採られるものであり、その涙の結晶だから尊いのです。現代の養殖ではなく、自然の真珠は、約千個の貝の中からひとつ見つかれば良い方だったと言います。あこや貝はその傷みを7年も続け、何層にも何層にも体液でその傷みの原因を包んで一粒の真珠を生み出しました。高価な真珠とは、そんな傷や痛みによって、長い年月を経て生み出された愛の結晶だったのです。
神は私の人生に一粒の砂や異物が入ることをお許しになることがあります。私たちを傷め、苦しめ悩ませる一粒の砂、こんなものがなければと思えるような経験や出来事、失敗や過ち。しかし、神は長い時間をかけて、ご自身の愛をもって、幾重にもそれを包みながら、やがてあなたを高価な真珠のように美しく輝かせてくださるのです。そればかりか、そんな私たちをご自分のものとするために、すべてを捨てて買い取ってくださったのです。「彼らのために、わたしは自分自身を十字架の上にささげます。」「わたしはあなたをあがなった。あなたはわたしのものだ。・・・わたしの目には、あなたは高価で尊い」と。

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若者よ、起きなさい

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ルカによる福音書7章から。

7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
7:13 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。
7:14 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。
7:15 すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
7:16 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。
7:17 イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

今週も秋期聖会の証しとメッセージから恵みをいただきました。

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イエス・キリストの涙



先週の土曜日、三重県志摩市阿児町にある聖イエス会テベリヤ教会の献堂30周年記念礼拝が持たれました。多くの方の祈りと協力に心から感謝します。ある方は、泊まりがけでチラシ配りに行ってくださいました。ある方は献金をささげてくださいました。ある方はお祝いのお花やメッセージを届けてくださいました。聖歌隊は賛美を歌いに出かけてくれました。Mさんの信友や名古屋教会ゆかりの皆さんも遠くからお祝いに駆け付けてくださいました。司牧をはじめ、中部教区ゆかりの先生方からたくさんの祝電をいただき、ほんとうに祈られ、愛されている教会だなあと思わされました。でも、一番感謝だったことは地元の方が大勢来てくださったことです。今回の記念礼拝のチラシで使った写真には、花かごに35個のバラが入っていました。Mさんはこの数だけ席が満たされるように祈り、教会の子どもたちにも「カゴがいっぱいになるように祈ってね」と声をかけていました。当日、「たくさんの人が来たね」と話していると、すかさず一人の子どもが「カゴの花より多かったよね」と言いました。Mさんの言葉を受け止め、祈ってくれていたのです。
メッセージは豊田教会の伊藤牧師が、この日のために祈り備えてくださった「イエス・キリストの涙」という印象的なテーマで語ってくださり、最後にスペインの美術館で実物を見たというエル・グレコの「十字架を背負うキリスト」という一枚の絵を紹介してくださり、大きな複製画を見せてくださいました。有名な絵なので、私も以前から知っている絵でしたが、その大きな複製画で見ると、確かにイエスの瞳に涙が光っているように見えて、感動を新たにしました。四苦八苦の人生、誰もが涙抜きでそれを語ることはできないのかも知れませんが、イエスの瞳に光る涙は、私たちの目から涙をぬぐうためのものだったと聞き、そこに集まっていたすべての人が胸を熱くしました。
ブログを読んで志摩にある小さな教会のために祈ってくださった皆さんにも感謝します。

今週も大切なことを大切に。

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高価な真珠

礼拝メッセージ 「高価な真珠」
聖書 ヨハネによる福音書17章15-19節
ヨハネによる福音書シリーズ(142)

17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
17:16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
17:17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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井戸を隠しているからだよ。



渡辺和子先生の文章を紹介します。
サンテグジュペリの『星の王子さま』の中で、王子が砂漠に水を求めに行くところがあります。あてどもなく歩いてゆくと、月の光を受けて砂漠は美しい。王子が言います。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ。」人間もそうです。表面に現れない「井戸」を心の奥深くに持っている時、人は美しくなります。・・・
一人ひとりが自分の存在の奥深いところに一つの「聖所」とでも呼ぶべきものを持ち、年とともにたいせつに育ててゆくということなのです。そこは他の誰にも、親にも、配偶者にも、親友にも、恋人にも踏み込ませない自分の心の部分であるとともに、どんなに愛し、信頼した人から裏切られた時にも、逃れて自分を取り戻し、自分を立て直すことのできる場所です。騒がしい人混みの中でも孤独になれる場所であり、一人でいても淋しくない所以です。体のどの部分にあるかと尋ねられて指し示すことはできないけれども、一人で生まれ、一人で死んで行かなければならない人間が、その一生の間、自分らしく生きるためにどうしても必要な「場所」なのです。

素敵な文章です。ところで、砂漠はほんとうに美しいのでしょうか。砂漠の持つ美しさもあると思いますが、砂漠は本来厳しい世界です。渇ききった不毛の世界です。でも、ほんとうに大切なことは目に見えないということを教えられます。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」と。では、その井戸は、どこにあるのでしょう。イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む者は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」今日、心を静め、息を整え、御名を呼びつつ主を尋ねれば、私の内に神はおられる、神はおられる。聖なる御名が泉のように、心にあふれ流れ出るまで、心の井戸を掘り下げましょう。掘り下げましょう。ここに泉は湧く。
さあ、神の約束です。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。」

明日は志摩市阿児町にある聖イエス会テベリヤ教会の献堂30周年記念集会が持たれます。
祝福を祈りつつ。

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悲しみの歌は喜びの歌へ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。3つの詩編から。

詩編96編
96:1 新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
96:2 主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。

詩編137編
137:1 バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
137:2 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
137:3 わたしたちを捕囚にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
137:4 どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。
137:5 エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
137:6 わたしの舌は上顎にはり付くがよい
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムを
わたしの最大の喜びとしないなら。

詩編126編(口語訳)
126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、
われらは夢みる者のようであった。
126:2 その時われらの口は笑いで満たされ、
われらの舌は喜びの声で満たされた。
その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と
言った者が、もろもろの国民の中にあった。
126:3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、
われらは喜んだ。
126:4 主よ、どうか、われらの繁栄を、
ネゲブの川のように回復してください。
126:5 涙をもって種まく者は、
喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、
束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

今週も秋期聖会のメッセージを学ばせていただきました。

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テベリヤ教会献堂30周年記念礼拝



今週10月13日(土)、三重県は志摩市阿児町にあるテベリヤ教会の献堂30周年記念礼拝が開かれます。
平屋の赤い屋根に十字架の立つ小さな小さな教会が30年前に建ちました。1988年2月のことでした。さかのぼること更に12年、Mさんが「ここが私の神学校です」と縁あってその地に嫁いで行かれました。それから幾星霜にもわたる涙と文字どおりの献身の結晶として、神の教会が建てられたのです。30年前の春、私は神学院に入学し献身の道を歩み始めましたが、京都の聖会で、テベリヤ教会献堂の証しを伺い、いつかその教会に行ってみたいと思いました。卒業後、これも縁あって岐阜教会に遣わされ、その夏、初めてテベリヤ教会を訪れました。当時、私が中学生礼拝でお世話になった村上先生がそこにおられました。そして、15年前、名古屋教会に遣わされ、テベリヤ教会を兼牧することになります。ふり返ると一つ一つが不思議な主の導きでした。15年間、毎月往復6時間ほどの道のりを通い続けました。今も相変わらず小さな教会です。でも、いつ行っても恵みにあふれる集会がそこにあります。明日の集会を期待しつつ。

テベリヤ教会献堂30周年記念礼拝
2018年10月13日(土)午前11時から
メッセージ 「イエス・キリストの涙」伊藤嘉男牧師(豊田教会)
司会 宮本博文牧師(名古屋教会)
賛美 シエキナ聖歌隊(名古屋教会)

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海嶺



愛知県知多郡の美浜町に小野浦と呼ばれる地区があります。日本で最初の和訳聖書の翻訳に協力した音吉、久吉のふるさとです。この二人に現在の名古屋市熱田区出身の岩吉が加わって、三人の「吉」ということで、「三吉」と呼ばれる若者たちによって、最初の日本語訳聖書が作られました。
経緯はこうです。天保三年(1832年)の秋、遠州沖で暴風に遭い、遭難した彼らは、難破船に乗ったまま1年2ヶ月をかけて太平洋を横断、命辛々カナダの沖合の小島に辿り着きます。やがてイギリス商船に拾われロンドンに、そしてついに日本をめざすことになりました。マカオまで戻って来た彼らは、そこでギュツラフという宣教師と出会い、聖書の和訳を手伝うことになります。そこで最初に和訳されたのが、いま私たちがシリーズで学んでいる『ヨハネによる福音書』でした。シンガポールで出版されたギュツラフ訳の聖書。「ハジマリニ、カシコイモノゴザル」で始まる1章1節は有名です。
先週の金曜日、日本聖書協会主催の聖書和訳頌徳記念式典というのが美浜町で持たれ、それに参加しました。今年は新しく建立された音吉像の除幕式があり、音吉の凛々しい姿に感動しました。音吉、久吉、岩吉の三人は、マカオで加わった四人の日本人漂流民と共に日本に向かいます。彼らが乗っていた船が歴史の授業で習うモリソン号事件のモリソン号でした。外国船の入国を認めない幕府はモリソン号を砲撃します。彼らは祖国を目の前にして、祖国に見捨てられてしまうのです。この出来事を題材にして書かれたのが、三浦綾子さんの「海嶺」で、彼らの数奇な運命をとおして、私たちをカシコイモノに導く長編です。
興味深いのは、最初に和訳された聖書箇所が、どうしてヨハネによる福音書だったのかということです。小説の中で、ある人がギュツラフに尋ねる場面があります。「なぜ、日本のためにヨハネ福音書を選ばれたのですか。マタイ伝やルカ伝の方が、訳すのが容易ではないですか。」彼は答えます。「確かにその通りかもしれません。しかし、3人と、マカオの寺院を巡った時、私は彼らがどこに行っても頭を下げることに気付いたのです。彼らは、何にでも手を合わせるのです。私はあの『知られざる神』に手を合わせる記事を思い出しました。(使徒言行録17章に記されている出来事です。)それで私は、キリストが神であることを確実に伝えるヨハネ伝を選んだのです。」
まさにこのギュツラフの気持ちはアテネのアレオパゴスの丘で説教したパウロの心でした。パウロは言いました。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」と。確かにヨハネ福音書は、教会が誕生して半世紀が経ち、キリストの教えと、偽りの教えとの狭間で、どこが違うのかを明らかにするという目的を込めて書かれました。そこで何よりも先ずキリストが神であることを彼は証ししたかったのです。真っ直ぐに、「ハジマリニ、カシコイモノゴザル。・・・カシコイモノ(キリスト)は神であった」と。
悩み多き人生という旅路、漂流生活もあります。思うように願うように行かない現実があります。信頼していたものから見捨てられるようなこともあるかも知れません。しかし、その旅の果てに、知られざる神ではなく、カシコイモノとの出会いがあるのです。

今週も大切なことを大切に。

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砂漠が美しいのは

礼拝メッセージ 「砂漠が美しいのは」
聖書 ヨハネによる福音書17章15-19節
ヨハネによる福音書シリーズ(141)

17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
17:16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
17:17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

今週も礼拝の恵みに感謝。
嬉しい出会いに感謝。

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