我は主なり

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
イザヤ書43章、申命記32章から。

43:12 主は言われる。わたしは神
43:13 今より後も、わたしこそ主。

32:39 しかし見よ、わたしこそ、わたしこそそれである。
わたしのほかに神はない。
わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、またいやす。
わが手を逃れうる者は、一人もない。

今週は『あかしびと』から、12の御名の連載を学ばせていただきました。

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ぼくは ぼくらしく

Just Me

絵本作家マリー・ホール・エッツの「あるあさ、ぼくは・・・」を知っていますか?
ある朝、一人の少年が納屋の向こうの杭の上に小鳥がとまっているのを見つけます。猫に襲われそうになった小鳥は飛び去りました。この後、少年は「ぼく、小鳥みたいには飛べないけれど」というお決まりのフレーズをくり返しながら、出会う動物たちの真似っこをして遊ぶというお話しです。ネコ、ニワトリ、ブタ、ウサギ、ヘビ、ウシ、ガチョウ、ウマ、リス、ヤギ、カエル、カメ・・・。とても楽しい絵本です。お話しの最後はこうです。とうもろこし畑の向こうでは、少年のお父さんがボートで出掛ける準備をしています。少年はあわてて走り出し、お父さんと一緒に出掛けていきました。「そこで、ぼくは かけだしました。こんどは ほかの だれみたいでもなく はしりました。ぼくは ぼくらしく はしりました。」
作者が伝えたかったことは、何でも興味を持って真似っこしていた時代の無邪気さを思い出させることでしょうか。それも大切なことです。でも私が感動したのは、お父さんを見たときに、少年がほんとうの自分らしく走ることができたということです。英語のタイトルは「JUST ME]となっていますが、ある方を知ったときに、私は私らしく、ほんとうの自分になれるということではないでしょうか。

今週も大切なことを大切に。

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イエス・キリストを知る

礼拝メッセージ 「イエス・キリストを知る」
聖書 ヨハネによる福音書17章1-5節
ヨハネによる福音書シリーズ(136)

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

今週も礼拝の恵み感謝。

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時が来ました



十字架の前夜、最後の晩餐が終わった後、イエスは弟子たちへの最後の教えとして、これから起こるべきことを、まるで遺言を語るように語られました。遺言と言えば、旧約聖書を見ると、アブラハムの子イサク、その子ヤコブが、創世記の最後で12人の息子に遺言を語る場面があります。それはヤコブの祈りでもありました。また申命記33章には、モーセがイスラエルの民に遺言を語る場面があります。それはモーセの祈りでもありました。同じように、今ここでイエスも弟子たちに遺言を語り、最後に祈りをささげておられるのです。
ヨハネ福音書の17章全体がイエスの祈りですが、この祈りは3つの部分に分けられます。第1が、1節から8節までで、イエスはまず自分自身のために祈っています。第2が、9節から19節までで、弟子たちのための祈りです。そして第3が、20節から26節までで、「彼ら(弟子たち)の言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」と言って、この後、世の終わりに至るまで、イエスを信じるすべての人のために、すなわち、私たちのためにも祈られたのです。何と壮大な祈りでしょう。
四福音書には、イエスの祈る姿がしばしば描かれていますが、イエスが何を祈られたのかについて、言及している箇所は多くありません。さあ、イエスの祈りを聞きましょう。「父よ、時が来ました。あなたの子の栄光を現してください。それは子があなたの栄光を現すためです。」ヨハネは12章以降、イエスの受難の物語が始まる前は、イエスの時が来ていなかったと伝えてきました。2章の、カナの婚礼の奇跡の場面で、「ぶどう酒がなくなりました」と母に告げられた時、イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と答えました。7章、8章は仮庵祭の出来事ですが、そこでもイエスは「わたしの時が来ていないから」と語っておられます。しかし、キリストの最後の1週間、受難の物語が始まると、12章、あの一粒の麦の譬えが語られる場面で、イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られます。続く13章では、あの洗足の場面で、「イエスは、この世から父のもとへ移る自分の時が来たことを悟り」と書かれています。そして、ここに至って「時が来ました」と言われたのです。
イエスの生涯において、最も重大な時、神の御子が受肉した究極の目的、人類救済のあがないを実現成就するその時、御子が御父の栄光を最大限に輝かすべき時、それによって御子もまた御自身の栄光を燦然と輝かすべき時が、今まさに来ていたのです。ベツレヘムの馬ぶねから、カルバリーの十字架に至るまで、イエスの全生涯は、この時に向かって集中されていたのです。

次の日曜日は、8月最後の礼拝です。夏の恵みに感謝しつつ。

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おさなごの命のために

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
哀歌2章から。

2:11 わが目は涙のためにつぶれ、
わがはらわたはわきかえり、
わが肝はわが民の娘の滅びのために、
地に注ぎ出される。
幼な子や乳のみ子が町のちまたに
息も絶えようとしているからである。
2:12 彼らが、傷ついた者のように町のちまたで
息も絶えようとするとき、
その母のふところにその命を注ぎ出そうとするとき、
母にむかって、「パンとぶどう酒とは
どこにありますか」と叫ぶ。・・・
2:18 シオンの娘よ、声高らかに主に呼ばわれ、
夜も昼も川のように涙を流せ。
みずから安んじることをせず、
あなたのひとみを休ませるな。
2:19 夜、初更に起きて叫べ。
主の前にあなたの心を水のように注ぎ出せ。
町のかどで、飢えて
息も絶えようとする幼な子の命のために、
主にむかって両手をあげよ。

礼拝でサマーキャンプ、全国中高生大会の恵みを分かち合いましたが、子どもたちや若者たちのための祈りに導かれます。今日は『アシジから来た十字架』から、「おさなごの命のために」を学ばせていただき、祈りを新たにしました。私たちの教会が、子どもたち若者たちが群がり集う教会として復活しますように。

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蛙の祈り



ある夜、兄弟ブルーノが祈っていると、食用ガエルの鳴き声がうるさくて気が散り、祈ることが出来ず、「静かにしろ、祈っているのだから」と一喝しました。すると、あたりはしんと静まり返ります。彼は祈りを続けました。すると、「生けるものはすべて固有の声を持っている。もしかして神は自分の祈りと同じくらい、カエルの鳴き声を喜んでおられるのではないか。いやそんなことはない。でも神はなぜ音なるものを作り出したのか」と考えました。
すると、カエルの鳴き声は神経に障るものではなくなってきました。鳴き声に抗うことをやめると、この鳴き声こそが夜の沈黙をいっそう豊かにしていると気づき、彼の心は、生まれて初めて宇宙と調和し、彼は祈ることの内実をとらえたのでした(アントニー・デ・メロ著『蛙の祈り』より)
ブルーノの祈りは、まさに私たちの日常の思いではないでしょうか。自分の音のみを大切に気遣い、周りの音はすべて雑音、騒音でしかないと感じているのです。これからヨハネ福音書の17章、イエスの祈りを学びます。十字架の前夜、歴史が動く激動の夜、イエスも気を散らされるような雑音と騒音の中にいたかも知れませんが、弟子たちに語るべきことを語った後、天を仰いで、天と地を抱きしめるような壮大にして、荘厳の祈りを始められました。
宗教改革者のルターは、この祈りについて、「言葉に表せないほど、温かい、心のこもった祈りだ。キリストは、父なる神の前で、また、私たちの前で、その心を断ち割って見せてくださった。真実で単純、深淵で豊か、その広さはだれ一人測り知ることができない」と言っています。古来、「大祭司の祈り」と呼ばれてきた、このイエスの祈りをていねいに学んでみたいと思います。「主よ、わたしたちにも祈ることを教えてください。」

今週も大切なことを大切に。

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時が来ました

礼拝メッセージ 「時が来ました」
聖書 ヨハネによる福音書17章1-5節
ヨハネによる福音書シリーズ(135)

17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。
17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。
17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
17:4 わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。
17:5 父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。

今週も礼拝の恵み感謝。

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Youngman Arise!



この世上の知者、権力者、英雄も、誰ひとり、この世に打ち勝つことはできませんでした。罪に勝ち、死に勝ち、サタンに打ち勝った者はありませんでした。ただひとり神の子イエス・キリストだけが、世に勝たれたのです。人生最大の敵である死にさえも、キリストは勝利されました。「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死は勝利にのみ込まれた」と。この夏のリバイバル・メッセージでこう学びます。
「イエス・キリストこそ、真実の神、永遠の命です。」イエス・キリストの出現までは、人間にとって死は、人生に終止符を打つもの、人間存在の崩壊を意味していました。しかし、キリストの出現は、人類に永遠の命と復活をもたらしたのです。その事実を最も雄弁に証明したのが、(ルカ福音書7章)ナインのやもめの一人息子の死人の中からの復活です。
ナインという町に、一人の未亡人がありました。このやもめには一人息子があり、この一人息子に未来の希望をかけ、いつくしみ育ててきました。ところが、この一人息子が突然、病におかされ、死んでしまったのです。未亡人の悲しみは、どれほど大きく深くあったことでしょう。このような暗黒の世界に、あたかも暗闇をつき破って、太陽が出現したかのように、まことの光であり、いのちのいのちであるキリストが、ナインの町においでになったのです。・・・
「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」ルカ福音記者は、ここで「イエス」とは言わないで、「主は・・・言われた」と記しています。この「主」という称号は、聖書の中で、神ご自身にのみ使用されている称号です。イエス・キリストは人間の姿をとられましたので、人の目には人間と思われましたが、その実、イエスが来られたことは、主ご自身が、神ご自身がおいでになられたことなのです。・・・
「そして、近づいて棺に手を触れられた」、命を失って、すでに死んでいる若者に、今、天地万物の創造者、全能の神の御手がさしのべられ、触れられました。電線が断ち切られ、電流がとだえ停電していたものが、今、電源に接続されるのです。命の根源から、今、何万ボルトもの強力な命、永遠の命、聖霊が、御名によって流れ込みます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい。」
全能の神キリストが、この言葉によって、命のスイッチをお入れになりました。その瞬間、暗闇にパッと光がてり輝くように、若者は命の輝きを取り戻したのです。・・・

ナインの町の門で出会った二人のひとり息子。一人は、今は死んでいるが、これから復活するやもめのひとり息子、もう一人は、今は生きているが、やがて死をもって死に打ち勝とうとしている神のひとり息子。このひとり息子によって、死は勝利にのみ込まれる。だから、「若者よ、起きなさい!(Youngman Arise!)」

全国中高生大会から帰って来た子どもたちが、嬉しそうに大会の話しをしてくれます。主に感謝。大会を導いてくださった先生方に感謝。

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徹頭徹尾、イエスとの出会い

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書7章から。

7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。

今週は『あかしびと』の7月号から、2つの記事を紹介し恵みをわかちあいました。
全国中高生大会で恵みをいただいた中高生たちも夕方には帰って来ます。
8月も後半、残された夏の集会と秋に向かって計画されている集会のために祈りを積みました。

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継ぎ目のない重なり



自らを「イエスの愛しておられた弟子」と呼ぶヨハネは、1世紀の終わりに福音書を記しました。すでに90歳になっていたでしょうか。白髪の老人です。彼は、もう半世紀以上前のことを思い出しながらと言うよりも、これまでの長い信仰体験を通して深められたイエスの言葉と業に新しい息吹を吹き込みながら福音書を記しました。イエスから直接聞いたあの日にはわからなかったイエスの言葉を、彼は一つ一つ体験しながら理解し深めていきました。
ヨハネ福音書の3章を学んだ時にこんな話しをしたのを覚えているでしょうか。あの16節はだれの言葉かという話です。すぐ前の3章10節に「イエスは答えて言われた」とありますが、その言葉はどこまで続くのでしょう。新共同訳では、カギ括弧が21節まで続きますので、16節を含め、そこまでイエスの言葉ということになりますが、もともとの写本には章も節もなければ、句読点も引用符もないので、イエスの言葉がどこまで続くかは、解釈と翻訳の問題になります。ちなみに、私の持っているほとんどの聖書は15節でカギ括弧を閉じ、16節からは、ヨハネ自身による福音の告知であるかのように編集しています。このイエスの言葉とヨハネによる福音の告知との「継ぎ目のない重なり」もこの福音書の特徴でした。イエスとニコデモとの対話を伝えるヨハネの筆は、いつの間にかすべての人に語りかける福音の告知へと移っていくのです。考えてみれば、3年半、イエスのすぐそばで、イエスの言葉を聞き続けたヨハネが、半世紀以上の間、多くの苦しみと試練の中で、それを語り続けているうちに、語っているのがイエスの言葉なのか、自分の言葉なのかわからない、継ぎ目がないほど重なりあったとしても不思議ではありません。
そういう意味において、ヨハネ福音書の14章から始まり16章まで続いた、十字架の前夜、最後の晩餐が終わった後、弟子たちに語られたイエスの最後の教えも、ただ単に暗記して記録したイエスの言葉というよりも、ヨハネのうちで体験を通して深められたイエスの言葉、その福音の告知なのです。イエスの十字架と復活、そして昇天の後、ついに約束された真理の御霊が遣わされ、イエス・キリストが弟子たちの内に住まわれるという、イエスと弟子たちとの新しい愛の関係が始まりました。それから半世紀、キリストの教会が建て上げられていく、激しい迫害と試練の時代、信仰が揺さぶられる時代を通過しながら、ヨハネはイエスの言葉を初代教会の信徒たちに語り続けたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。

今週も大切なことを大切に。

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