3月のオープン礼拝



今日から3月、次の日曜日は3月のオープン礼拝になります。
今月のテーマは「氷点と十字架」。三浦綾子文学を通じて、人間の罪と神の愛について考えます。

(綾子さん)本当に自分が悪かったと思う時、人間は思いもかけぬ大きな平安が与えられるのだ。
罪がわかった時、神が見えてくるのだ。驚くべき新しい世界がわかってくるのだ。
(光世さん)妻綾子が、13年の闘病中に示された確信。「罪がわかった時に、神が見えてくる。」
このあと、綾子は喜びの一生を生きた。
『綾子・光世 響き合う言葉』より

罪がわかった時、神が見えてきて、救われた人の喜びの一生が始まる。
聖書が私たちに伝える最も大切なメッセージです。

毎月第一日曜日は、教会は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。弥富公園東、丘の上の教会です。
入場無料、駐車場あり、お子さま同伴も歓迎します。

オープン礼拝は、日曜の朝10時30分から。
弥富公園東、丘の上の教会。

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それは愛

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書15章から。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

今月の祈祷会は、35年前に語られた一つのメッセージに取り組んできました。
「それは愛、愛、愛・・・。」

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ゴールを見ているから



競泳の池江璃花子選手のことが話題になっていますが、伝説の女性スイマーの話です。
1952年7月4日、カタリナ島とカリフォルニアの海岸の間、35キロを泳いで渡る世界で最初の女性になるために、34才のフローレンス・チャドウィックは泳ぎ始めました。その日、海水は冷たく、伴走するボートすら見えないほどの濃い霧がかかっていましたが、フローレンスは必死で泳ぎ続けました。その様子はテレビ中継され、何百万人もの人々が見守っていましたが、16時間泳いだところでついに力尽き、彼女は挑戦を断念し、ボートに引き上げられました。
後でわかったことは、彼女が断念した地点は、ゴールまであと数百メートルのところであったということです。記者会見で彼女はこう話しました。「苦しい時、私が見ることができたのは、霧の中にある絶望だけでした。もし海岸を見ることができれば、最後まで泳げたでしょう。」
その日の敗因は、長距離を泳いだことによる疲労でも、その日の凍てつくような海の冷たさでもなく、濃い霧によって対岸というゴールが見えなかったことでした。何を見ているか、それが大切ということです。ちなみに、フローレンス・チャドウィックは2ヶ月後に再挑戦し、見事に泳ぎきったそうです。
先週の月曜日、教区の先生方と小さな祈り会を持ちました。その時にこんな話しを聞きました。一人の牧師が、大槻牧師に尋ねます。「様々な問題に直面しながら、どうして牧師は泰然自若たる態度で、微動だにせず、いつも毅然としていることができるのですか?」大槻牧師はただひと言、「ゴールを見ているからだよ」と答えられたそうです。
みなさんは何を見ていますか。霧の中にある絶望を見ていては、いつか心が折れてしまいます。大切なことは、ゴールを見ていることです。

今週も大切なことを大切に。

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何を見ているか

礼拝メッセージ「何を見ているか」
聖書:ヨハネによる福音書18章10-14節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(152)

18:10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18:11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
18:12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、
18:13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。
18:14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

ヘブライ人への手紙(新改訳聖書)
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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剣と十字架



アシジの聖フランシスコの生涯を描いた「剣と十字架」という映画があります。フランシスコの映画は何本もありますが、若い時代から彼の死まで、その生涯全体を描いたものは、この映画だけかも知れません。この映画をベースに書かれた劇があり、大学生の時、フランシスコの役をさせていただいたことがあります。長い劇ですが、ほとんどフランシスコがしゃべっているという脚本でした。でも、当時の私は、何とかしてフランシスコのようになりたい、そんな真っ直ぐな思いで、夢中になって劇に取り組みました。青春時代の思い出です。
劇の一場面です。フランシスコがダミアノ教会で回心を経験する前、騎士に憧れ、剣をもって戦いに出ていた頃、突然天からの声を聞きます。「フランシスコ、汝は何処に行こうとしているのか。」「騎士になるために戦へ…。」再び天の声、「フランシスコ、神と僕とどちらに仕えるのが最善か?」「それは、神に仕える方が最善です。」さらに天の声、「フランシスコ、剣を捨てよ。」
彼は剣を置いて、アシジに戻りますが、やがてダミアノ教会で、十字架のキリストとの出会い、当時の力を失っていた教会に、再び神の火が灯されたのです。自分の正義、自分の理想、強引なマイウェイを切り拓く剣を捨てて、神がお与えになった杯、十字架を取る人によって、神は今も、この世界を変えようとしているのです。
先週、説教の準備をしながら、今から10年以上前に、エッセイ風にフランシスコのことを書いてる文章を、こちらのブログで見つけ、感動しました。

かつて宴会好きで、騎士になることを夢見ていた若者がいた。
あの日、彼は廃墟と化したダミアノという教会で独り祈っていた。
屋根もない青天井の教会だ。心地よい風が頬をなでる。
ただ古びた十字架が雨ざらしのまま置かれていた。
何か話したいことがあるような表情に見えた。
遠くで雲雀が鳴いている。まるで歌っているようだ。
若者は目を閉じた。・・・静かだ。もう雲雀の声も聞こえなくなった。
彼は行くあてもなくこの教会にたどり着いた。
彼は行くべき道を求めていたのだ。彼は祈り始めた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
若者はただならぬ気配を感じ、目を静かに開けた。
誰もいない・・・。彼はあの古びた十字架をじっと見つめている。
その時だ! キリストの口が動いた。
若者はその声を聞いた。
「倒れかかっている私の教会を建て直せ。」
彼は「そうします」と答えた。そして、立ち上がった。
その時だ! 歴史は動いた。
キリストはずっと待っていたのだ。彼が来るのを。
キリストはずっと待っている。あなたが来るのを。
今日も、そして明日も。

さあ、私たちも剣を捨てて、十字架に帰りましょう。

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原点に帰る

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
雅歌8章から。

8:6 愛は死のように強く・・・最もはげしい炎です。口語訳

今日は原点に帰るというお勧めをいただきました。
愛の御霊の豊かな注ぎを求めつつ。

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盗まれた十字架像



2003年の8月、ニューヨークにあるホーリークロス教会に泥棒が入りました。泥棒は献金箱と十字架のキリスト像を盗んだそうです。キリスト像は等身大のもので重さが100キロ以上あったのですが、泥棒はキリスト像を十字架から取り外し、十字架を残して、ご像だけを持って行きました。教会のスミス神父がインタビューに答えています。「どうして泥棒が十字架を残し、キリスト像だけを持って行ったのか、私にはわからない。十字架像というものは、キリストと十字架が一つになって、はじめて意味のあるものだから。」
もしかするとこれは泥棒の話ではないのかもしれません。キリストと十字架が一つであるように、私たちクリスチャンも十字架と一つです。私たちは、キリストを十字架から外して、キリストだけを手に入れようとしてはいないでしょうか。キリストの愛、恵み、祝福、癒しはいただくが、十字架は、試練は、苦難は、犠牲は要らない、そんな態度をとってはいないでしょうか。イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

今週も大切なことを大切に。

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剣と十字架

礼拝メッセージ 「剣と十字架」
聖書 ヨハネによる福音書18章7-11節
ヨハネによる福音書シリーズ(151)

18:7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
18:8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
18:9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
18:10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
18:11 イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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ゲッセマネの「我」



イエスと弟子たちは、冴えわたる満月の下、キドロン、黒い流れと呼ばれる小川を越えて、オリーブ山の中腹にあるゲッセマネの園に入ります。この道は、旧約時代、あのダビデ王が、息子であるアブシャロムのクーデターによって、都を追われ、夜逃げしたときに、泣きながら裸足で歩いた悲しみの道でした。ダビデの子であるキリストも、その夜、この道を歩まれたのです。
ヨハネが彼の視点で伝えるゲッセマネの出来事を見てみましょう。彼は、ゲッセマネにおけるイエスのあの有名な祈りを飛ばして、ただイエスの逮捕のシーンだけを伝えますが、ユダに口づけで裏切られたシーンさえも飛ばして、イエスがご自分の身に起こることを何もかもご存知で、自分を捕らえに来た者たちの前に進み出た姿を描きます。その時、イエスは言われました。「だれを捜しているのか。」イエスを捕らえに来た者たちが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と答えられました。イエスはここで、「ナザレのイエスとは私のことです」と答えている訳ではありません。「わたしである」とは、ギリシア語の「エゴー・エイミ」で、これは出エジプト記の3章で、モーセの前に現れた神が名乗った神の名から来ています。この神の名のゆえに、イエスを捕らえるために集まって来た人々は、みな息をのんであとずさりし、ばたばたと倒れてしまいました。ローマの六百人部隊が、イエスの口から発せられた僅か二語で、将棋倒しになる光景が想像できるでしょうか。
ある人は言います。「キリストが神の子なら、どうしてあの夜、逃げることができなかったのか。彼は自分を師と仰ぎ、救い主と信じていた人たちに裏切られ、見捨てられ捕らえられたのだ。」もしイエスが意に反して、無理矢理捕まったというのなら、そうだったかも知れません。しかし、イエスは「わたしである」と言って、捕らえに来た人たちをなぎ倒し、自ら十字架に向かって進んで行かれたのです。私たちを罪から救い、永遠の命を与えるために。
ヨハネ福音書10章11節以下、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」18節、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」15章13節、「友のために、自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」そうです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」

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死ねば、多くの実を結ぶ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書12章から。

12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

今週も35年前のように、愛の御霊の豊かな注ぎを求めて祈りました。

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