御名があがめられていることを

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
イザヤ書12章から。

12:4 その日には、あなたたちは言うであろう。
「主に感謝し、御名を呼べ。
諸国の民に御業を示し
気高い御名を告げ知らせよ。」

新改訳
12:4 「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。
そのみわざを、もろもろの民の中に知らせよ。
御名があがめられていることを語り告げよ。」

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対話



平成最後の年の最後の聖会を終えました。静かな礼拝堂には、昨日の余韻が残っています。
2回の集会とも福音書が開かれ、テキストの簡単な解説の後、御言葉がそのまま語られる聖会でした。
私は、私に語りかけられるイエス・キリストの言葉を聞いていました。
それはイエスとの対話でした。

ある新聞のコラムで、劇作家の平田オリザさんの言葉が紹介されていたのを思い出しました。
「ディベートは、話す前と後で考えが変わったほうが負け。
ダイアローグは、話す前と後で考えが変わっていなければ意味がない。」(平田オリザ)    
ディベート(討論)とダイアローグ(対話)の違いについて訊ねたとき、劇作家から即座に返ってきた答え。
対話は、共通の足場をもたない者のあいだで試みられる。
呼びかけと応えの愉しい交換であり、吐露と聴取の控えめな交換であり、
埋まらない溝を思い知らされたあとの沈黙の交換でもある。
討論よりおそらくはるかに難しい。

イエスは私たちと討論し、私たちを言い負かそうしているのではありません。
私たちと対話されるのです。この対話の前と後で、もし私たちが変わっていなければ、何の意味もありません。

わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。
この水を飲むものはだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。

わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。
その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。

イエスは言われた。「それはあなたと話をしているこのわたしである。」


今週も大切なことを大切に。

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このわたしがそれである

秋の教区聖会
礼拝メッセージ 「このわたしがそれである」近藤彰牧師(ロゴス神学院院長)
聖書 出エジプト記20章24節、29章42節、ヨハネによる福音書4章14,25,26節

出エジプト記
20:24 わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。
29:42 わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。

ヨハネによる福音書
4:14 「この水を飲むものはだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」…
4:25 「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
4:26 イエスは言われた。「それはあなたと話をしているこのわたしである。」

4:26 「あなたと話をしているこのわたしがそれである。」(口語訳)

今日は秋の教区聖会でした。午前に続き、午後からは、「神の子イエス・キリストの福音」と題して、マルコによる福音書からメッセージが取り次がれました。午前、午後とも御言葉がそのまま取り次がれ、福音の力を改めて感じさせられました。今年最後の聖会でしたが、豊かな恵みを主に感謝します。

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独り善がり



パウロがくり返し教会の一致を叫ぶのは、教会に真実の一致がなかったからです。様々な理由があったと思いますが、その一つは独り善がりの信仰、礼拝でした。『ナルニア国ものがたり』の作者C.S.ルイスが、初めて礼拝に参加した時の体験を次のように語っています。「私は、彼らの歌っている賛美歌があまり好きになれませんでした。それは、ぱっとしない歌詞に、冴えない曲をつけたもののように思えました。けれども、時間が経つにつれて、私はその賛美歌の素晴らしい一面に気づき始めたのです。次第に、私のうぬぼれが砕かれていきました。ふと目をやると、向こう側の席にゴム長靴を履いた老人の姿が見えました。彼は、その賛美歌を心を込めて歌っていました。その姿を見たとき、私は自分が彼の長靴の汚れを拭き取る資格さえない者であることに、はっきりと気づかされたのです。共に礼拝を捧げるとき、私たちは独り善がりのプライドから救い出されるのです。」
主の言葉が心に迫ります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」ゼファニア書3章3節にはこう書かれています。「その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える。」ここで使われている「一つとなって」という言葉は、ヘブライ語では「肩と肩をくっつけて」「肩を並べて」という意味があると教えていただいたことがあります。私たちも、独り善がりを捨てて、主の名を唱え、肩と肩をくっつけるように一つとなって主に仕え、主を礼拝しましょう。

11月になりました。いつもは第1日曜日は、新しい方のためのオープン礼拝ですが、今月は、秋の信徒聖会になっています。11月のオープン礼拝は第2日曜日です。ぜひお出かけください。

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生きるにも死ぬにも

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
フィリピの信徒への手紙の1章から。

1:19 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
1:20 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

今日から11月。11月1日は、私の出身教会である高松教会をはじめ、聖イエス会の四国にある教会を一人で開拓された三木隆先生の召天記念日です。先週『あかしびと』で紹介したM先生の証しにも先生の名前が出て来たので、この機会に三木先生のことを改めて紹介させていただきました。
集会後、「名古屋にも鍵田町時代に来られましたよ」「私が初めて教会に来たのは、三木先生の集会でした」「私が聖霊を受けたのは、三木先生の集会でした」と次々と声をかけてくださり、感謝しました。

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自分の存在意義と役割



十字架の前夜、イエスは、未来信じる者たちのためにも祈られました。それはイエスを信じるすべての者が一つになるための祈りでした。パウロが書いたエフェソの信徒への手紙によれば、一つになるということが次のように表現されています。1章10節、詳訳聖書で「すべてのものを、すなわち、天にあるものも地にあるものも、キリストにおいて一つにする〈キリストにおいて完成する〉ために、時が熟するのを〈世々の頂点を〉〔計画されたのです〕。」
「キリストにおいて一つにする」とは、もちろん教会の一致を願う祈りですが、究極的には「キリストにおいて完成する」との祈りだったのです。聖書全体がここにかかっているとするなら、アダムの罪によって、エデンの園を追放され、神と共にいることのできなくなった人類が、今やキリストの十字架によって、再び一つにされるという壮大な神の救いの計画が、キリストにおいて完成するという意味です。
パウロは、キリストと教会との関係を様々な比喩によって教えました。教会は、キリストの花嫁、神の家族、神の神殿です。そう教えるパウロが、更にこだわりを持って語るのが、教会はキリストを頭とするキリストの体というメッセージです。
パウロはその時代、小アジアやヨーロッパ各地に広がっていた教会に手紙を書き送りましたが、それは時代を越えて、今も私たちに届けられています。パウロから私たちの教会へのメッセージを聞いてください。
ローマの信徒への手紙12章5節、「私たちが話している体とは、選ばれた人々からなるキリストの体のことです。私たちはそれぞれ、自分の存在意義と役割を、キリストの体との関係の中で発見するのです。」
コリントの信徒への手紙一の12章にはキリストの体についての詳細が語られています。21節のメッセージバイブルの訳はユニークです。「目が手に向かって、『どこにでも行ってくれ。もうお前は必要ない』と言っている姿を想像できるでしょうか。あるいは、頭が足に向かって、『業務縮小につき、君を解雇する』と言うでしょうか。」
27節はリビングバイブルで、「私は次のことを言いたいのです。すなわち、あなたがたは共に、キリストという一つの体であり、一人一人がなくてはならない部分であるということです。
同じくコリントの信徒への手紙一の1章10節、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」そして、1章の最後にはこうあります。「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。」キリストにおいて完成する!

今週も大切なことを大切に。

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キリストにおいて完成する

礼拝メッセージ 「キリストにおいて完成する・後編」
聖書 ヨハネによる福音書17章20-23節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(144)

17:20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
17:22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

エフェソの信徒への手紙(詳訳聖書)
1:10 すべてのものを、すなわち、天にあるものも地にあるものも、キリストにおいて一つにする〈キリストにおいて完成する〉ために、時が熟するのを〈世々の頂点を〉〔計画されたのです〕。

ゼファニア書
3:3 その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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未来信じる者たちのための祈り



十字架の前夜、最後の晩餐が終わり、ゲッセマネの園に向かう道すがら、弟子たちに最後の教えを語り終えた後、イエスは天を仰いで祈られました。ヨハネ福音書の17章全体がイエスの祈りになっていますが、イエスはまず自分のために祈り、その後、弟子たちのために、そして、弟子たちを通して、イエスを信じるすべての者たちのために祈られました。
20節、「また、彼ら(弟子たち)のためだけでなく、彼らの言葉(弟子たちの祈りと宣教)によってわたしを信じる人々(未来信じるすべてのクリスチャン)のためにも、お願いします。」十字架の前夜、イエスが何と私のためにも祈ってくださっていたとは、それだけでも感動します。
弟子たちのための祈りでは、イエスは「御名によって彼らを守ってください」「彼らを聖なる者にしてください」「彼らを世に遣わしました」と祈られましたが、未来信じる者のために、イエスは何を祈られたのでしょう。それが21節以下です。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、(わたしを信じるようになる)すべての人を一つにしてください。」これが未来信じる者たちのためにイエスが祈られたことでした。この後、22節でも、23節でもくり返し「一つになる」ということが祈られています。十字架を前にして、大祭司として祈られたイエスの祈りの中心は、あの夜、イエスにとって最大の関心事は、私たちが一つになることだったのです。
エフェソの信徒への手紙には「一つになる」ということが次のように表現されています。この手紙のテーマは「教会論」です。1章の10節を詳訳聖書で見てみましょう。「すべてのものを、すなわち、天にあるものも地にあるものも、キリストにおいて一つにする〈キリストにおいて完成する〉ために、時が熟するのを〈世々の頂点を〉〔計画されたのです〕。」
「キリストにおいて一つにする」とは、もちろん教会の一致を願う祈りですが、究極的には「キリストにおいて完成する」との祈りでもあるのです。聖書全体がここにかかっているとするなら、アダムの罪によって、エデンの園を追放され、神と共にいることのできなくなった人類が、今やキリストの十字架によって、再び一つになるという、壮大な神の救いのドラマが、キリストにおいて完成するということなのです。これが大祭司であるイエスの祈りです。祭司とは、「橋を架ける」という意味があると言われますが、イエス・キリストは神と人との断絶に橋が架けられたのです。

「キリスト教はまず『形』なのよ。先に『形』を作っておいて、後から『心』が入るものなの。」
「あなたは、すぐそうやって頭で考える。頭で考えないの。御言葉に聞いてごらんなさい。」
「日々是好日」、毎日が神との出会いの好き日となりますように。

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御言葉を宣べ伝えなさい

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
テモテへの手紙二4章から。

4:1 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。
4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。

今週は『あかしびと』の記事から、証しを二つ紹介しました。一人の人が救われる喜び、そこに至るまでの主の導きと祈りを思い、新しいステージの祈りと宣教のために祈りを積みました。

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私は、何も知らないのだ・・・



「世の中には、すぐにわかるものとすぐにわからないものの二種類がある。・・・すぐにわからないものは、・・・何度か行ったり来たりするうちに、後になってすこしずつじわじわとわかりだし、『別もの』に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。『お茶』って、そういうものなのだ。」これはエッセイストの森下典子の『日々是好日』(お茶が教えてくれた15の幸せ)のワンフレーズです。
女優の樹木希林さんの遺作の一つということでも話題の「日々是好日」は、この本を映画化したものですが、25年お稽古を続けながら、その間に感じたこと、経験したことが綴られています。
「お茶はまず『形』なのよ。先に『形』を作っておいて、その入れ物に、後から『心』が入るものなの。」
「あなたは、すぐそうやって頭で考える。頭で考えないの。手が知っているから、手に聞いてごらんなさい。」
初めはチョロいと思っていたお茶の稽古ですが、先生の流れるようなお点前とその言葉に、目からウロコが落ちます。
「ものを習うということは、相手の前に、何も知らない『ゼロ』の自分を開くことなのだ。それなのに、私はなんて邪魔なものを持ってここにいるのだろう。心のどこかで『そんなこと簡単よ』『私はデキるわ』と斜に構えていた。私はなんて慢心していたんだろう。つまらないプライドなど、邪魔なお荷物でしかないのだ。荷物を捨て、からっぽになることだ。からっぽにならなければ、何も入ってこない。・・・心から思った。『私は、何も知らないのだ・・・』」
茶の道には、キリスト教信仰に通じるものがあると言われますが、聖イエス会の教会には、創立者のお考えもあって、お茶室が備えられている教会が多いです。名古屋教会の客間も、水屋はありませんが、畳みに炉が切ってあってお茶が点てられるようになっています。
「世の中には、すぐにわかるものとすぐにわからないものの二種類がある。」私たちは今、ヨハネ福音書を、行ったり来たりしながら、時間をかけて学んでいますが、ヨハネの語る福音が少しずつじわりじわりとわかってきたでしょうか。それも感謝ですが、もっと大切なことは、今日も「私は何も知らないのだ」と、ゼロになって、御言葉から信仰を習うことです。

今週も大切なことを大切に。

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