この命の言葉を語れ(4)

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
使徒言行録2章から、『この命の言葉を語れ』シリーズ(4)。

2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、
2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、
2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、
2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
2:12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
2:13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

今は聖霊時代です。

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初めと真ん中と終わり



どのような本でも、その本の始めと真ん中と終わりを読めば、その内容や傾向をおおよそつかむことができるものですが、ヨハネによる福音書の始めと真ん中と終わりには何が書かれていたでしょうか。まず第1章を見ると、ヨハネ福音書の書き出しは、他の福音書の始まりとは異なります。他の福音書がキリストの誕生、出生の物語や、キリストの公生涯から書き始めているのに対して、ヨハネは時空を超越し、永遠の初めに遡って、キリストの神的な起源から書き起こしています。「初めに〔天地の初めに、すでに〕ことば〔キリスト〕おられた。ことばは神とともにおられた。ことばは神ご自身であられた。……だれもまだ神を見たことはない。ただひとりの比類のないみ子、ひとり子の神、み父のふところにおられるかた、そのかたが神をあらわされた<啓示された、目に見えるように現された>。」ヨハネは福音書の冒頭に「ことばは神であった」と、自分自身が体験した神を証ししています。
ヨハネ福音書の真ん中、10章には、どんなことが書かれているでしょうか。シロアムの奇跡の後、ユダヤ人との論争、対立が激しくなっていました。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。」イエスが神殿の回廊を歩んでいると、ユダヤ人がイエスを取り巻き、「いつまで、私たちに気をもませるのか。もしあなたがメシアなら、はっきりそう言いなさい」と詰め寄りました。するとイエスは答えて言われました。「わたしは言ったが、あなたがたは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証をしている。」そして言われました。「わたしと父とは一つである」と。これはイエス・キリスト御自身による証しです。
それではヨハネによる福音書の最後には何が書かれているのでしょう。ヨハネは福音書を統べくくるにあたって、イエスの復活を信じられなかったトマスという一人の弟子を通して、彼の口を借りて、これを読む読者にキリストが神であることを告白させようとします。1章はヨハネの証言でした。10章はイエスご自身の言葉でした。20章はトマスとわたしが信仰告白することによって、この本はわたしの福音書となるのです。

今週も大切なことを大切に。

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トマスとわたし

メッセージ 「トマスとわたし」
聖書 ヨハネによる福音書19章24-29節
ヨハネによる福音書シリーズ(188)

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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息を吹きかけ



イエスは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。ヨハネ福音書には、他の福音書に見られるような復活のキリストによる大宣教命令は記されていませんが、この言葉こそは、ヨハネ福音書における大宣教命令です。私たちはここで語られている「ように」という言葉の意味と重みを正しく理解できているでしょうか。イエスは、弟子たちを、ご自分が御父から派遣されたのと同じ目的のために、同じ使命を与えて、同じ方法で遣わすと言っているのです。だれがこのような大役を果たすことができるのでしょう。そこで、イエスは息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」と。イエスの行為はひとつのことを私たちに思い出させます。創世記2章7節、「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」神は人間をご自分にかたどって創造されたとき、命の息を吹き入れました。そして、人は神の命に生きる者となったのです。同じように、神の子キリストは、人類の罪を十字架の血によって贖い、罪のために失われた神の似姿を再創造するために、息を吹きかけられたのです。
カトリックはのトラピスト会の修道院長ドン・ショータルが書いた『使徒職の秘訣』は素晴らしい本です。そのはじめの方に、聖霊の働きについて、このように記されています。「かくて、聖霊は、ちりにひとしい人間を、神の境地まで高め、これを神化しようとのご計画を・・・お立てになりました。このご計画によりますと、御手によって、人間のかたちにつくられましたこのひとかたまりの土は、神のようになり、あなたの永遠の幸福にあずかることができるのです。ああ、前にも後にも絶えてあるまじき、愛の奇跡でありますことよ。」これこそ、キリストが十字架の上で成し遂げてくださった偉大な救いの結果です。
京都の新年聖会では、ドン・ショータルの言葉が少しアレンジして語られました。「「一塊の土くれが、神の息である聖霊を吹き込まれて、神の似姿に変わっていく。ああ、何という愛の奇跡でしょうか。」
あなたはこの愛の奇跡を信じますか。一塊の土くれに過ぎない私が、神の息吹を受けて、神の似姿となる。もう一人のキリストとなる。イエスはあなたに息を吹きかけて言われる。「聖霊を受けよ。聖霊に満たされよ。」

4月まで、あと40日を切りました。

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この命の言葉を語れ(3)

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
使徒言行録1章から、『この命の言葉を語れ』シリーズ(3)。

1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。
1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、
1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
1:12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。
1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。
1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

心を合わせて熱心に祈っていた初代教会のように、祈れ!祈れ!祈れ!

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歓喜、狂喜、陶酔、有頂天



イエスがよみがえられた日の昼下がり、エルサレムを離れ、エマオへの道を急いでいた二人の弟子がいました。その後を追いかけるかのように、もう一人の旅人が二人と一緒に歩き始めます。夕暮れとなり、三人は宿を共にしますが、食卓に着き、旅人がパンを裂いている時に、二人の目が開け、それがイエスであることがわかったのです。二人は、燃える心をもって、今来た道を引き返し、エルサレムに留まっている弟子たちのところに帰って行きました。
弟子たちは、おそらく最後の晩餐を行ったエルサレムの高殿(マルコの家)に集まっていたと思われますが、そこに二人の弟子が飛び込み、主の復活を証ししました。ヨハネが、マグダラのマリアの記事に続き、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」と書き出したのはこのタイミングであったと思われます。彼らはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていましたが、そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。イエスは十字架の上で受けた手と脇の傷を弟子たちにお見せリなりました。すると「弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれています。
詳訳聖書はこう訳しています。「弟子たちは主を見て喜び<歓喜、狂喜、陶酔、有頂天>に満たされた。」欣喜雀躍する弟子たちの姿が生き生きと描かれているところです。復活であり命であるキリストこそ、私たちの喜びの源泉です。
キリスト教の中心、エッセンスは、キリストの十字架と復活です。別の言葉で言えば、十字架によって罪を赦された平安と、死の力が打ち破ぶられた驚きです。平安と驚き、キリスト教の原点です。
あなたは今日、絶望の真ん中に座り込み、戸を閉じて引きこもっているのですか。それであるなら、あの日の弟子たちと同じです。しかし、そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「安かれ」と言われた。私たちも今日、この平安と驚きの神に出会うことができるのです。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。<歓喜、狂喜、陶酔、有頂天>に満たされた。今週も平安と驚きの日々でありますように。

今週も大切なことを大切に。

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神の息吹

礼拝メッセージ「神の息吹」
聖書 ヨハネによる福音書20章19-23節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(187)

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

創世記
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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わたしにすがりつくのはよしなさい



マグダラのマリアが「ラボニ(先生)!」と言いながら、イエスにすがりつこうとしましたが、イエスは言いました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と。
この後、他の婦人たちに現れた時にも、トマスの前に現れた時にも、イエスはご自分の体に触れることを許しておられます。どうして、マリアには許されなかったのでしょうか。様々な解釈がなされるところですが、御言葉を見る限り理由は2つです。まず、「まだ父のもとへ上っていないのだから」ということでした。つまり、復活されたとは言え、この地上にあるイエスの体に、目に見えるものにすがり続けようとする態度への戒めです。彼女の場合、イエスを愛するあまり、目に見えるものへの強いこだわりや執着があったのかも知れません。しかし、大切なのはイエスの御名です。御名こそ神のありのままの姿だからです。エマオ途上の弟子たちのように、あなたの心の目が開かれ、御名が実体であることがわかった時に、あなたはありのままの主を、ありのままに体験し、手触っているのです。だからヨハネは言いました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの・・・すなわち、命の言について・・・あなたがたに証しし、伝えるのです」と。
イエスが「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われた、もう1つの理由は、彼女に与えられた特権と使命のためです。イエスは言われました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」イエスはここで弟子たちのことを兄弟と呼び、私の父はあなたの父、私の神はあなたの神という新しい関係が、十字架と復活を通してすでに始まっていることを彼女に伝えてほしかったのです。
イエスのこの意味深長な言葉を2つの動詞で要約することができます。「Go and Tell(行って伝えなさい)」です。そこで、「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『私は主を見ました』と告げ、また、主が言われたことを伝えた。」彼女を、別名「使徒たちへの使徒」と呼ぶのはこのためです。さあ、私たちも行って伝えましょう。私たちの主イエス・キリストは今も生きておられます。

Happy Valentine’s day!

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この命の言葉を語れ(2)

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
使徒言行録1章から、『この命の言葉を語れ』シリーズ(2)。

1:1 -2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

今日は2月13日。愛の御霊の豊かな注ぎを求めます。

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贖いの座



少し旧約聖書から話しをさせてください。「契約の箱」の話しです。イスラエルの民にとって、それは神の臨在をあらわすものでした。エジプトを脱出し、荒れ野を旅したイスラエルの中心にあった幕屋の至聖所に置かれていたのがこの箱です。箱の中には十戒の石板、芽を出した祭司アロンの杖、マナの入った壺が納められていました。十戒は神の言葉、戒めです。芽を出したアロンの杖は、復活と神に選ばれたもののシンボルであり、マナの入った壺は、主の備えといのちのシンボルです。どれも神の恵みにほかなりませんが、角度を変えて見ると、イスラエルの民にとっては、どれも神のテストに失敗した、不従順の象徴でもありました。
十戒が与えられたその日、イスラエルの民はモーセの帰りが遅いと言って、金の子牛を造って拝み始めました。偶像礼拝です。彼ら、再三、モーセとアロンのリーダーシップに逆らい、神の怒りを招きました。不従順です。さらに、40年に渡る荒野の旅路において、彼らは日々の備えを信じることができず、次の日の分までマナを蓄え、神に打たれました。不信仰です。
ところで、この契約の箱の「箱」という言葉が、最初に聖書に出て来るのは、創世記の最後の節、50章26節です。エジプトの宰相となったヨセフは、自分が死んだら、その骨を約束の地に携え上ってほしいと子どもたちに命じますが、その言葉どおり、ヨセフの子どもたちは彼のなきがらを「ひつぎに納めた」と書かれています。この「ひつぎ」という言葉が「箱」と同じ言葉です。ですから、契約の箱というのは、そもそも「ひつぎ」というコンセプトであったということになります。契約の箱の中には納められていた神の恵みのシンボルは、イスラエルの民にとっては不信仰と不従順の象徴であり、それはやがて死につながり、ひつぎの中に葬られる運命となったのです。
そこで「贖いの座」が必要になります。契約の箱の上には、「贖いの座(the mercy seat)」と呼ばれる蓋があり、ケルビムと呼ばれる翼を広げた天使が両側に置かれていました。一年に一度、大いなる贖いの日に、大祭司が至聖所に入り、罪を償う供え物として動物の血を、この「贖いの座」に注ぎかけたのです。そのことによって、イスラエルの民の不義は赦され、その罪は贖われたのです。
ヨハネによる福音書の復活の記事に目を向けましょう。「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、一人は足の方に座っていた。」イエスの体が置かれていた場所、つまり棺の両側に座る天使と言えば、何かを思い出しませんか。契約の箱です。ここではイエスが葬られていた場所が棺であり、主の契約の箱を表していたのです。ケルビムが贖いの座の両側にいたように、天使は、イエスが血を流し、死んで葬られた場所の両側に座っていました。マリアはそれを見ました。そして振り向くと、そこにイエスがおられたのです。

今週も大切なことを大切に。

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