神がハガルの目を開かれたので

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
創世記21章から。

21:8 やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。
21:9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、
21:10 アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」
21:11 このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。
21:12 神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。
21:13 しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
21:14 アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。
21:15 革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、
21:16 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。
21:17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。
21:18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。
21:20 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。
21:21 彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。

今日はハガルの物語からお勧めをいただきました。

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花の使命は



令和になって二度目の礼拝は、母の日の礼拝です。母の日は教会で生まれた美しい習慣です。聖書は神のことを「父なる神」、イエス・キリスを「子なる神」と呼びます。「では母は?」と言うと、聖書に明言されているわけではありませんが、聖霊なる神の優しさは母のようだと言えるかも知れません。また教会こそは、キリストの花嫁と呼ばれるゆえに、母のような役割を果たすのではないかと思います。聖アウガスチヌスも「教会を母としないクリスチャンは、神を父と呼ぶことはできない」と言いました。母の日に、母と呼ばれるすべての存在に、母と呼ぶことのできる存在を与えてくださった神に感謝したいと思います。「母の日」おめでとうございます。
先週は、外務省が「令和」という元号の意味を、「Beautiful Harmony(美しい調和)」と伝えているという話をしましたが、出典は、日本最古の歌集である『万葉集』、梅花の宴で詠まれた歌の序文から二文字をとって、「令和」と付けられたということです。
クリスチャンは西暦を重んじるべきかと思いますし、元号が必要かどうかという議論があることも承知のうえで、私は「令和」という言葉の意味を噛みしめています。万葉の時代、花見と言えば、桜ではく、梅や桃を楽しんだ訳ですが、「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望と共に、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたい」と心から願うものです。
カトリックのシスター渡辺和子先生が『どんな時でも人は笑顔になれる』という本の中に「『一輪の花』として生きる」という素敵な文章がを書いていました。
「人間は一人ひとり花です。小さな花もあれば大きな花もあり、早咲き、遅咲き、色とりどり店頭に飾られ、買われてゆくのもあれば、ひっそりと路傍で『花の一生』を終えるのも多いでしょう。花の使命は咲くことにあります。他の花と比べて優劣を競うことにもなければ、どこに置かれるかにもなく、自分しか咲かせられない花を一番美しく咲かせることにあります。」

今週も大切なことを大切に。

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「一輪の花」として生きる

母の日のオープン礼拝
メッセージ 「『一輪の花』として生きる」
聖書 ヨハネによる福音書18章31-36節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(162)

18:31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18:32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18:34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18:35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18:36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

ヨハネの手紙一
4:9 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。

今日は母の日。母と呼ばれるすべての存在に、母と呼ぶことのできる存在を与えてくださった神に感謝。

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なぜ十字架だったのか



ピラトが「あなたたちが自分たちの律法に従って裁け」と言ったのに対して、ユダヤ人たちが「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えたやり取を受けて、ヨハネは言います。「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」と。
私たちは毎週、使徒信条の中で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」と告白しますが、神が人類の救いのために立てられた計画に基づき、キリストが異邦人の手に引き渡され、裁かれ、十字架につけられたことを忘れないように告白しているのです。
イエスの死が十字架刑でなければならなかった理由を考えてみましょう。なぜ十字架だったのでしょうか。
第一に、それは骨が砕かれないという預言が成就するためです。出エジプト12章46節、「その骨を折ってはならない」とは、過越の子羊についての記述です。詩編32編20節以下、「主に従う人(メシア)には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」とある通りです。
第二に、キリストの死について、ユダヤ人と異邦人がともに責めを負うためです。ユダヤ人だけをキリスト殺しの犯人と言うのは教会の大きな過ちです。使徒言行録2章23節、「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」同じく4章27節、「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」
第三に、キリストは、呪いの死を受けた者として木にかけられなければならなかったからです。私たちには聖書が教える呪いということがよく理解できていません。呪いの死とは、罪に対する神の怒りと裁きを受けた死であって、アダム以来、すべての人に定められた宿命です。この呪いから私たちを救うために、キリストは呪われた者とならなければならなかったのです。ガラテヤ書3章13節、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」
十字架の上で叫ばれたイエスの言葉を思い出します。「エリ、エリ、レマサバクタニ」「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」父なる神との美しい調和を持ち続けていた神の子が、神に見捨てられた者、呪われた者となってくださったその時、アダム以来、失われていた神と人との美しい調和が取り戻される道が開かれたのです。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も(十字架に)上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」アーメン。

次の日曜日は、5月のオープン礼拝「母の日」特集です。

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一粒の麦

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書12章から。

12:24 はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

今週は神学生(実習生)が、初めての集会を導いてくださり感謝でした。
連休中にもたれたロゴス神学院セミナーの報告と恵みから、救霊についてお勧めしてくださいました。

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5月のオープン礼拝



5月のオープン礼拝(キリスト教のススメ)は母の日特集、テーマは「人を美しくするもの」。
「令和」という新しい元号には、明日への希望とともに、それぞれの花を咲かせることができる国になるとの願いが込められています。人間は一人ひとりが花です。小さな花もあれば、大きな花もあり、早咲き、遅咲き、いろいろですが、花の使命は咲くことです。自分にしか咲かせられない花を一番美しく咲かせることです。

毎月第1日曜日(今月は第2日曜)は、教会は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。弥富公園東、丘の上の教会です。
入場無料、駐車場あり、お子さま同伴も歓迎します。

オープン礼拝は、日曜の朝10時30分から。
弥富公園東、丘の上の教会。

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わたしの国



5月1日に新天皇の即位と共に改元が行われ、日本は「令和」という新しい時代を迎えました。外務省は、諸外国に向けて「令和」という元号の意味を、Beautiful Harmony(美しい調和)と伝えているようです。令という字が、命令の令という字なので、当初、orderとかcommand(命令とか秩序)と報じられたようですが、令とは美しい、和とは調和という意味です。この国にとって令和が、美しい調和の時代となることを心から願います。
さて、毎週の礼拝で『ヨハネによる福音書』をシリーズで学んでいますが、ローマ総督ピラトによる裁判が始まっています。ピラトは総督官邸の外にいるユダヤ人の訴えを聞くとは足早に官邸に戻り、イエスに対する尋問を始めます。個人的な対話はヨハネ福音書の特徴ですが、イエスとピラトとの対話です。「お前がユダヤ人の王なのか。」するとイエスは、「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と鋭くつっこみました。
ピラトは軽蔑と皮肉を込めて、「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか」と問い返します。イエスの答えです。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
ここでイエスが語られた「わたしの国」こそ、この世には属さない、まさに神と人が、そして神を中心に、人と人が美しい調和を実現した神の国なのです。イエスは十字架の前夜、天を仰いで祈っておられました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。・・・わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」ここに神の国のBeautiful Harmonyがあります。しかし、この神の国の到来を実現するためには、ただ一つの方法しかありませんでした。それが十字架だったのです。

GWも最終日ですね。今週も大切なことを大切に。

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美しい調和

礼拝メッセージ 「美しい調和(Beautiful Harmony)」
聖書 ヨハネによる福音書18章28-32節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(161)

18:28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18:29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18:30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18:31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18:32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。

17:21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。
17:23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。

令和最初の礼拝。今週も礼拝の恵みに感謝。

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カジモド



イースター後の最初の日曜日が「白衣の主日(神の慈しみの主日)」とか「カジモド・サンデー(Quasimodo Sunday)」と呼ばれるのをご存知ですか?
この日曜日、復活節の第2週(平成最後の礼拝)のメッセージを「ノートルダムの鐘」と題して語りました。このタイトルはディズニーの映画や、最近では劇団四季の演目としても知られていますが、原作はフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの長編小説「ノートル=ダム・ド・パリ」です。
15世紀末の混乱するパリのノートルダム大聖堂を舞台に、美しいジプシーの娘エスメラルダをめぐる大聖堂の副司教フロロー、青年警備隊長フィーバス、そして聖堂の鐘つきをしているせむし男のカジモド、彼らの愛と哀しみを描く物語ですが、原作は映画や舞台とは少し異なります。映画や舞台では、カジモドを中心に物語が展開していきますが、原作では、彼が主人公というわけではありません。原作によると、カジモドという名は、「彼が拾い上げた日にちなんだものだったが、また、この名が、可哀そうな赤ん坊のほとんどと人間の形をなしていない姿をよく表していると思ったからだ。事実、独眼で、背中にこぶがあり、X脚のカジモドは『ほぼ』人間の形をした生き物であるとしか言いようのない子供だった」ところから名付けられています。映画ではそれを「できそこない」と表現していましたが、ほぼ人間のような者、それがカジモドという意味です。しかし、その名は彼が拾い上げられた日にちなんで付けられた名前でもありました。この乳飲み子が拾われて来たのは、「よく晴れた白衣の主日の朝のことだった」とユーゴーは書いています。彼がカジモドという名を付けられたのは、ただ絶望のためではなく、イースターの次の日曜日、キリストの十字架と復活を通して、私たちがまるで生まれたばかりの赤ちゃんのように、新しい人に生まれ変わることができるという希望でもあったのです。
カジモド・サンデーには、ペトロの手紙一の2章2節からはじまる祈りがささげられました。「生まれたばかりの乳飲み子のように」、それがカジモド・サンデーの名前の由来です。
ノートルダムの鐘のように、キリストの十字架と復活のメッセージが地の果てにまで鳴り響きますように。だれでもキリストにあって、生まれたばかりの乳飲み子のように、新しい人生を生きることができるという希望のメッセージと共に。

令和最初の礼拝は「美しい調和(Beautiful Harmony)」と題してメッセージを語らせていただきます。

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エバと道とマリアの道

令和になって最初の祈祷会。今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。箴言とルカによる福音書から。

箴言
5:7 それゆえ、子らよ、わたしに聞き従え。わたしの口の言葉からそれてはならない。

ルカによる福音書
1:37 神にできないことは何一つない。」
1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

今日は、今月のぶどう樹と『リベカ抄』からお勧めがありました。
新しい時代、私たちの聞く言葉によって、私たちは災いの源にも祝福の源にもなり得るのです。
どちらの道を選びますか?

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