お前は神の子、メシアなのか。



イエスを十字架に付けるための裁判が始まりました。ヨハネ福音書だけが伝える、時の権力者アンナスによる予備審問において、彼はイエスに、弟子のことと教えのことについて尋ねましたが、イエスは弟子のことについては一切語らりませんでした。弟子たちを守るためです。教えに関する質問については、どうだったでしょう。イエスは、こう答えています。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている」と。
すると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言い、平手でイエスを打ちました。ここにこの裁判の不当性が露わにされています。当時のユダヤの司法制度は非常にレベルが高く、冤罪を招かないように被告人を保護するシステムが確立されていました。被告人を告発する際に、証言者を立てるのは告発する側の責任であり、イエスの側にはなかったのです。また、その尋問が、その人の教えに関することであれば、告発者は自らの責任において証人を立てる必要がありました。ですから、何を教えたかを、教えた本人である被告人に問うべきではなかったのです。実際、アンナスはイエスの言葉に何も言い返せないでいましたが、その困惑した表情を見て、一人の下役がイエスを平手で打ちました。イエスはその暴力にも、「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と抗議しています。それは下役に対してだけではなく、それを容認しているアンナスへの抗議でもありました。
結局、アンナスは沈黙のまま、イエスをカイアファのもとに送ります。ヨハネは、カイアファの尋問に関しては何も触れず、裁きはピラトの法廷に移されますので、カメラを切り替えて、カイアファの法廷も確認しておきましょう。マタイのカメラです。
イエスはアンナスのもとから大祭司カイアファの屋敷に連行され、深夜の非合法な裁判を受けられます。過越祭の特別な夜、深夜にも関わらず、手回しよく集められた最高法院のメンバーの前に、やつれ果てたイエスが立たせられました。それは異例中の異例であって、ただ冒瀆の罪を立証し、イエスに死刑を言い渡すための集まりに過ぎませんでした。
この席で、嘘で塗り固められた証言が次々となされますが、イエスは再び沈黙を貫き何も答えませんでしたが、どの証言も食い違いを見せ、イエスを追い詰めるには至りませんでした。そこで、しびれを切らせたカイアファが、一芝居を演じ、時の大祭司として、神の名によって証言することを命じます。この命令が出されれば、黙秘権を行使することができなくなるのです。マタイ26章63節、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
イエスは口を開き、こう証言しました。「それは、あなたが言ったことです。」マルコの福音書を見ると「そうです」となっていますが、口語訳聖書がギリシャ語をそのまま訳しています。「わたしがそれである。」これはギリシャ語の「エゴ・エイミ」で、ヘブライ語の「アニーフー」に相当する神が自己啓示されるときの特別な表現なのです。また言われました。「わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子(わたし)が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と。これが「お前は神の子、メシアなのか」との大祭司の尋問に対するイエスの答えでした。
イエスはこの答えによって、自分に死罪が宣告されることは百も承知でしたが、イエスはその証言にその命をかけられたのです。それは、イエスを神の子、メシアと信じる者に永遠のいのちが与えられるためでした。
イエスからこの証言を引き出した大祭司は、内心、ほくそ笑んだことでしょう。彼はそれを表情には出さず、着物を引き裂きながら言いました。「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた」と。人々は一斉に「死刑にすべきだ」と答えました。
今、私たちはこの歴史を変える裁きの座に立っています。「イエスは神の子、メシアなのか。」これには真偽二通りの答えしかありません。イエスが「アニーフー」と言われるとき、それが事実か嘘か。もし嘘であれば、イエスは冒瀆罪で死に価します。しかし、もし事実であれば、イエスを拒否した者が重大な冒瀆罪を犯すことになるのです。
イエスは私たちをその罪から贖うために、裁きの座に立ち、「アニーフー」と神性の証言にいのちをかけてくださいました。「アニーフー」と言われる方が、私たちの罪の身代わりとなり、その命を投げ出してくださったのです。

4月になりました。教会近くの公園の桜も満開です。
次の日曜日は、4月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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彼らの嗣業は主御自身である

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
民数記8章、ヨシュア記13章から。

民数記
8:6 イスラエルの人々の中からレビ人を取って、彼らを清めなさい。
8:14 レビ人をイスラエルの人々から区別すると、レビ人はわたしのものとなる。
ヨシュア記
13:33 モーセはレビ族に対しては嗣業の土地を与えなかった。
主の約束されたとおり、彼らの嗣業はイスラエルの神、主御自身である。

今週も春の京都聖会のメッセージを学ばせていただきましたが、レビ人の姿から、私たちのあるべき姿を教えられました。

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毎瞬間



京都の聖会で、Z教授が語られた「祈りと歌」とのメッセージは示唆に富んだものでした。
冒頭、詩編96編を読まれた教授は、詩編には96編以外にも、5つ「新しい歌を歌え」との呼びかけで始まる詩編があるが、果たして私たちに「新しい歌」が必要なのか。今までに知られている歌では十分ではないのか、との問題提起をされ、私たちのうちにある新しいものへの渇望について語られました。「私たちが日々、くり返し唱える定められた祈りが、その祈りの意義を深く考えることの妨げとなることがある。つまり、私たちの唇は動いていても、私たちの頭と心はそこになく、祈りが祈りになっていないことがある」と。そして、詩編87編のミドラッシュ(ユダヤの聖書注解)が引用されました。「井戸が毎瞬間新しい水を湧き上がらせるように、イスラエルは毎瞬間新しい歌を唱える。」
ミドラッシュとは、「捜し求める」という意味ですが、ユダヤ教の聖書注解法の一つで、行間を読むように、神の秘められた思いを捜し求めるものです。ここでは、新しい歌が、湧き上がり、流れている水にたとえられていることがわかります。
教授は「新しい歌」について、古いものを否定することではなく、祈りと賛美において、一旦立ち止まり、今までわからなかった言葉の意味を、新たな状況において自分と結びつけ、それを新しい歌、祈りにすることが大切なのだと教えてくださいました。
私たちの祈りと歌が習慣惰性に陥らないように、井戸が毎瞬間新しい水を湧き上がらせるように、神との新しい出会い日々を求めたいと思います。先ほどミドラッシュで紹介した詩編87編7節を聖書で確認しましょう。「 歌う者も躍る者も共に言う。『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」
エレミヤ哀歌3章22節、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」
「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」「さあ、我々は主のもとに帰ろう。」毎瞬間、毎瞬間・・・。

今週も大切なことを大切に。

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わたしの源はすべて

礼拝メッセージ 「わたしの源のすべては」
聖書 ヨハネによる福音書18章19-24節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(156)

18:19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18:20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18:21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18:22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18:23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

詩編
87:7 歌う者も躍る者も共に言う。「わたしの源はすべてあなたの中にある」と。
(ミドラッシュによる解説「井戸が毎瞬間新しい水を湧き上がらせるように、イスラエルは毎瞬間新しい歌を唱える。」)

今週も礼拝の恵みに感謝。

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沈黙のキリスト



アンナスによる予備審問が始まります。イエスの時代、最高法院の法規においては、正式に弁論を重ね、尋問と判決との間に一日を置くことになっていましたが、その夜、一切の法規は無視され、一気にイエスの死が決定されていきます。彼らは被告であるイエスのために、正当な証人を立てず、弁護人さえ出廷させずに、一方的に罪を告発し、一刻も早くイエスを処刑しようと計りました。
アンナスは予審において、「弟子たちのことやイエスの教えのこと」について尋問しました。彼はこの二点からイエスを罪人として決定する材料を得ようとしましたが、イエスは第一の問いには何も答えず、自分を売った弟子や、逃げ去った弟子たちを思い、沈黙を守られました。『十字架の黙想』にはこう記されています。
「わたしたちも、人のことについて語るとき、慎重でなければならない。ことに、その人の名誉にならないことについては、沈黙を守るべきことを、主は教えられた。愛は罪を覆うのである。
人は他人の欠点や秘密については、針小棒大に言いふらしやすい。これは、人間の自然性の弱さである。聖書にも、『もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である』と記されている。
霊的生活において、沈黙のしめる位置は高く、完徳を達成するためにきわめて重要である。真に、主との一致を望むなら、沈黙、黙想の人とならねばならない。多弁で、冗談を好む人は、例外なく心が散漫で、非霊的な人である。自分の心の動きに注意せず、沈黙を守らない人は聖寵を失う。霊的生活は、まず沈黙より始まり、黙想うちに完成されねばならない」と。
2月の祈祷会で、家内が自分の原点ということで、この『十字架の黙想』の箇所を引用し、沈黙のキリストとの出会いについて、イザヤ書42章を開きました。イザヤ書42章19節以下、「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど、耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど、目の見えない者があろうか。多くことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない。」
沈黙のキリストは、何も知らないのではなく、何も見えず、何も聞こえなかったのではなく、すべてをご存知でありながら、私たちの無知蒙昧をあがなうために、沈黙を貫かれたのです。「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」のです。ペトロも言います。「『その方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」と。
あなたは沈黙のキリストにもう出会いましたか?

次の日曜日は3月最後の礼拝。来週には新元号も発表されます。
新シーズン到来です。

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祈りと歌

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
詩篇96編から。

96:1 新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。
96:2 主に向かって歌い、御名をたたえよ。
日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。
96:3 国々に主の栄光を語り伝えよ。
諸国の民にその驚くべき御業を。

詩編87編7節のミドラッシュ
井戸が毎瞬間新しい水を湧き上がらせるように、イスラエルは毎瞬間新しい歌を唱える。

今週も京都でもたれた聖会のメッセージを学ばせていただきました。

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特別なことをするために



愛工大名電を卒業し、オリックスに入団。3年目に日本記録を塗り替える210安打を記録し、その年から前人未踏の7年連続の首位打者となり、ついにメジャーへ。メジャーでもデビューの年から、9年連続で200本安打を記録。積み重ねたヒットは日米通算4367安打。イチロー選手の引退が発表されました。輝かしい数々の記録もさることながら、印象的で含蓄のあるコメントも魅力的でした。そんなイチロー語録から。

特別なことをするために、特別なことをするのではない。
特別なことをするために、普段どおりの当たり前のことをする。

天才とは言われますが、努力すること、基本に帰ることの天才であったイチローならではの言葉です。最近、原点に帰ると教えられていますが、それは後戻りすることではなく、特別なことのために必要なことなのです。

今週も大切なことを大切に。

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主のもとに帰ろう

礼拝メッセージ 「主のもとに帰ろう」
聖書 ヨハネによる福音書18章19-24節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(155)

18:19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18:20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18:21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18:22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18:23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

ホセア書
6:1 さあ、我々は主のもとに帰ろう。

今週は年会聖会の恵みをおわかちし、ヨハネ福音書からも短く学びました。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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植えられた場所



「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 」
神の選びはほんとうに不思議です。パウロは、その晩年「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」と書簡に記しています。
私たちは、この神の永遠の愛による選びがよくわかっていません。キリストが語られた「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉を、詳訳聖書では「私があなたたちを選んだ<植えた>のである」と訳していました。Bloom where God has planted you.(神が植えられたところで咲きなさい)です。カトリックのシスター渡辺和子先生は、「咲く(実を結ぶ)ということは、仕方がないと諦めるのでなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と言っています。新しいシーズンが始まります。神の選びに感謝し、置かれた場所、植えられた場所で、豊かな実を結ばせていただければ感謝です。

この春、教会でもプライベートでも、小さな変化が生じていますが、植えられた場所で、神の選びに応えさせていただきたいです。

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あなたはわたしを愛するか

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書21章ほか。

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。・・・
21:19 このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

ヨハネの手紙一
4:16 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

京都でもたれた聖会のメッセージをDVDで学ばせていただきました。
原点、初めの愛、主のもとに帰ることができますように。

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