種を蒔く人が種蒔きに出て行った



種を蒔く人の譬えから学ぶ、神の国の奥義の中心は、種を蒔かれる土地ですが、蒔かれた種と種を蒔く人についても見逃せません。種は神の言葉、種を蒔く人はイエス・キリストです。「種を蒔く人(イエス・キリスト)が種蒔きに出て行った。」との言葉は、「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます」と祈られたイエスの言葉が重なって聞こえます。涙と共に種を蒔く人、イエス・キリストは、今日も神の種である御言葉を、命を与える御名を蒔き続けておられるのです。
絶望という暗闇の中で、もがき苦しんでいる人がありますか。主の言葉を聞きなさい。「暗闇の中から光が照り出でよ!」過去の失敗と過ちを引きずりながら、震えおののき、苦しんでいる人がありますか。今日も十字架の上から、語り続けられている主の言葉を聞きなさい。十字架の言葉は、神の力です。「子よ、安心しなさい。あなたの罪は赦された。もう泣かなくともよい。わたしはあなたをあがなった。あなたはわたしのものだ。」そして、長い病との闘いに疲れ果て、倒れ伏しているあなたに、語り続けられる主の言葉があります。「わたしは主であって、あなたを癒すものである。もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか。ラザロ、出て来なさい。」
先日の姫路での聖会でのことです。司会に立たれたM先生が、「一人のうつ病を患い、死んだような状態の人が、5年前の新年聖会で復活しました。その時に来て下さったのが宮本牧師でした」という話しをされ、聞いたことのなかった話しだったので、「そんなことがあったのかあ」と感動しました。集会が終わると、「あれは私のことです」と本人がやって来られ、御名をあがめました。栄光は主に。

種を蒔く人について、もう一つのことをお伝えしなければなりません。ここで種を蒔く人とは、イエス・キリストのことですが、それはその後、イエスの弟子たちが続けていく宣教の働きのことでもありました。主は種を蒔く人を求めておられるのです。
むかし、ある集会で大槻牧師が、この種蒔きの譬えを引用し、「私たちは、少なくとも生涯に三十人、できれば六十人、理想を言えば百人の人に聖霊を与えるキリスト者にならなければなりません」と話してくださったことがあります。この譬え話しは、マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書に記されていますが、マタイとマルコは、「良い地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」と書きました。ところが、ルカだけは、三十倍も六十倍もとばして、百倍の祝福についてのみ記しています。きっと、パウロとともに宣教の旅をしていたルカには大きな信仰があったのだと思います。
百倍の祝福と言えば、創世記のイサクの物語を覚えていますか。アブラハムの息子、イサクの時代に飢饉がありました。彼はその不作の年に種を蒔きました。不況の真ん中で種を蒔いたのです。するとどうでしょう。「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった」とあります。この不信の時代、宣教の地は荒れ果てているでしょうか。困難に満ちているでしょうか。しかし、今日私たちもイエスとともに、この命の言を握りしめて出て行きたいのです。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」巡り歩こう主イエスと共に、命の御名はここにある。

今日から2月。次の日曜日は2月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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2月のオープン礼拝



次の日曜日は2月のオープン礼拝です。
「この世で一番の奇跡」と題して、聖書の言葉から学びます。

あなたはわたしの最大の奇跡。
それがあなたの最初に聞いた言葉だったのです。
そのあとであなたは泣きだしました。・・・
涙をぬぐいなさい。
手を伸ばしてわたしをつかみ、背筋をピンと立てなさい。
あなたを縛ってきた紐をわたしに切らせてください。
今日、あなたは知らされました。
自分こそ、『この世で一番の奇跡』であることを。
---オグ・マンディーノ 

毎月第一日曜日は、教会は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。弥富公園東、丘の上の教会です。
入場無料、駐車場あり、お子さま同伴も歓迎します。

オープン礼拝は、日曜の朝10時30分から。
弥富公園東、丘の上の教会。

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涙と共に種を蒔く人、キリスト

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書11章から。

11:4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

11:23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
11:24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
11:27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。

今週も京都で語られたもう一つの新年メッセージをDVDで学ばせていただきました。

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大賀ハス



十字架の前夜、最後の晩餐が終わり、イエスはゲッセマネの園に向かう道すがら、弟子たちに最後の教えを語り終えた後、天を仰いで祈られました。ヨハネによる福音書の17章全体が、その祈りになっています。イエスは、御自分のために、弟子たちのために、そして、弟子たちを通して、御自分を信じるようになるすべての者のためにここで祈られました。その最後の言葉はこうです。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」この一句に、イエスがその生涯を通してなされたことと、この後もなそうとしておられたこととが要約されています。
イエスは「御名を知らせました。これからも知らせます」と、まるで種を蒔くかのように、御名を知らせたと言っておられるのです。「涙と共に種を蒔く」と言われている種とは、神の言葉、イエスの御名のことです。実際、ヨハネは、彼が書いた手紙の中で、人を新たに生まれ変わらせる「神の種」という言葉を使っています。
種について、こんなエピソードがあります。1952年(昭和27年)のこと、関東学院大学の教授であった大賀一郎博士は、千葉県検見川遺跡を発掘調査中、地下6メートルの泥炭層で二千年前のものと思われるハスの種を発見し、その種から花を咲かせることに成功しました。キリストの時代に咲いていたその花は、大賀ハスと呼ばれるようになりました。
種というものは小さく、まるで死んだように見えるかも知れませんが、種の中には命が宿っているということです。しかし、その種も大賀博士と出会わなければ、いつまでも深い泥の中に埋もれたままだったかも知れません。私たちの内に与えられている御名も同じです。今年、復活であり、命であるキリストとの出会いによって、神の種が復活し、花を咲かせますように。

余談ですが、大賀博士は、あの内村鑑三の弟子で、札幌農学校で植物学者であったクラーク博士から学んだ内村鑑三に植物学の道に進むように勧められたということです。大賀博士の墓には「ハスの花に神の栄光をたたえて。大賀一郎、ここに眠る。復活のラッパの鳴らん時まで」と刻まれているそうです。

今週も大切なことを大切に。

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これからも知らせます

礼拝メッセージ 「これからも知らせます」
聖書 ヨハネによる福音書17章24-26節、マタイによる福音書13章1-8節
ヨハネによる福音書シリーズ(148)

17:24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
17:25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
17:26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。

13:3 種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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一対一の祈り



新年聖会で、ユダの王ヒゼキヤの祈りを学びました。彼は25歳で王となり、ユダに宗教改革をもたらし、民を主に立ち帰えらせた偉大な王でした。彼はその治世の第1年の第1の月に、神殿の扉を開いて修理を行っています。さて、彼が病床で預言者イザヤから死を宣告された時のことです。列王記によれば、「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。『ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。』こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた」と記されています。
ヒゼキヤは死の宣告を受けた時、ただうろたえて絶望したのではなく、神に祈りました。ヒゼキヤが「顔を壁に向けて」祈ったのは、彼の置かれていた状況が壁に囲まれた八方塞がりのようだったということもありますが、他のものが自分の視野に入ってくるのを拒絶するかのように、ただ神に集中して祈ったという意味です。これこそ、困難に直面するときに私たちが取らなければならない態度です。私たちの人生にもヒゼキヤが経験したような壁を感じることあるでしょう。しかし、そのような時にしなければならないことは、ただ神のみに集中して祈るということです。ほんとうの祈りとは神に向かうこと、神に集中することです。
すると、イザヤが中庭を出ないうちに、ヒゼキヤへの神の言葉が臨みました。「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た」と。神は、ヒゼキヤの祈りを聞き、その彼の涙を見て、死の病から復活させてくださったのです。
私たちも、どうにもならない現実に八方塞がりになることがありますが、その現実を一瞥したなら、次の瞬間、ヒゼキヤのように、神にフォーカスし、神以外のすべてをシャットアウトするべきです。今年、私と神、一対一の祈りが始まりますように。

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涙と共に種を蒔く

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ルカによる福音書11章から。

11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

今週は京都における新年聖会のメッセージをDVDで学ばせていただきました。
今年の基調メッセージを心に留め、今なすべきことに力を尽くすことができますように。

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あつかましいほどのしつこさ



以前、こんな夢をよく見ました。日曜の朝、会衆を前に講壇に立つまではよいのですが、メッセージが準備できていないことを思い出し、青くなるというものです。自分には答えがない。与えることができない。しかし、人々はパンを求めている、そのことに気づいたとき、祈りが生まれます。
新年聖会で教わった「真夜中の訪問者」と呼ばれる譬え話があります。真夜中が、霊的な暗闇を暗示しているとするなら、私たちの回りにも、何と多くの真夜中の訪問者がいることでしょうか。このような人々の必要に応じようとするなら、祈りを持って始める以外に方法はありません。
パンを借りに行った主人は、すぐにパンを手に入れたわけではありません。彼は一度は断られます。しかし、しつように頼み続け、ついに求めていたものを手に入れました。ここに継続した祈りの大切さを見ます。詳訳聖書の「あつかましいほどのしつこさ」という訳は大胆な訳だと思います。あきらめないで、熱心に、がむしゃらに、熱く求める、ただそれだけです。もちろん、熱心さによってではなく、信仰が見られているのですが、信仰があればあきらめないはずです。
今はとても便利な時代で、インスタントなものが満ちあふれています。しかし、祈りだけは即席で終わらせることができません。祈りとは、もっとコンスタントなものであるべきです。時には、集中した爆発的な祈りも必要でしょうが、地味に見えても粘り強く、切なる思いで、求め続けるということが祈りなのです。すぐにあきて投げ出したくなる短気な私たちですが、今年はもっと時間をかけて、根気強く求めてみましょう。
私たちの良き友である主は、「求めの切なるによりて、起きてその要する程の物を与えん」(ルカ11:8文語)です。

今週も大切なことを大切に。

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涙と共に種を蒔く

中部教区合同新年聖会
メッセージ「涙と共に種を蒔く」下谷正道牧師(小山教会)
聖書 詩編126編1-6節、ルカによる福音書11章5-13節ほか

126:1 都に上る歌。
主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、
わたしたちは夢を見ている人のようになった。
126:2 そのときには、わたしたちの口に笑いが、
舌に喜びの歌が満ちるであろう。
そのときには、国々も言うであろう。
「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
126:3 主よ、わたしたちのために、大きな業を成し遂げてください。
わたしたちは喜び祝うでしょう。
126:4 主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように、
わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
126:5 涙と共に種を蒔く人は、
喜びの歌と共に刈り入れる。
126:6 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、
束ねた穂を背負い、
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

午後はサムエル記上30章から「ダビデと四百人」と題してメッセージが取り次がれました。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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ラザロ、出て来なさい



「ラザロ、出て来なさい。」英語の聖書では、「Lazarus, Come Forth!」と訳されていますが、Forth というのは「の前へ(先へ)」という意味です。原文のギリシア語では、「エクソゥ(外へ)」という言葉が用いられています。
ラザロにとって、墓場は彼の終着駅だったのでしょうか。死んだらそれで終わりだったのでしょうか。いいえ、まだその先がありました。あの日、ラザロの名を呼び、「外に出て来なさい」と彼を呼ばれたイエスは、今日も私たちを呼んでおられるのです。「ラザロ、罪と不信仰の暗闇から出て来なさい。悲しみと絶望の淵から出て来なさい。古い自分自身から出て来なさい」と。
私たちは日頃から、さまざまな音や人の言葉に囲まれて生きています。人の言葉に傷つけられ、暴言や陰口に苦しんでいる人はいないでしょうか。でも一番よく聞く声は、意外に自分の声です。「ちぇっ」と舌打ちする時、誰かに言っているつもりで、実は自分に向かって、「やっぱりだめだ、どうせできやしない、もうおしまいだ」と言っているのです。そんな声に、やる気も自信も失い、一歩も前に、先に進めなくなっている人がいれば、その人こそラザロです。今年、どんな声よりもイエスの声を大きく聞きましょう。その声を何度も聞きましょう。イエスは「『彼らを信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。」
「もう見ないでください。臭いますから」と言っているあなたが本当のあなたではありません。私たちは一人一人が、神にとって「この世で一番の奇跡」なのです。「わが目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」「わが愛する者、美しいひと。」それが本当のあなたなのです。その本当のあなたに向かって、イエスは叫んでおられます。「ラザロ、出て来なさい。」「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。・・・マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」
今年、ラザロの物語が、あなたと私の物語となりますように。

次の日曜日は、教区合同の新年聖会です。御言葉を待ち望みます。

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