子供は大人の父



イエスは子供たちを集めて言われました。「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。
イギリスの詩人ワーズワースの「虹」という素敵な詩があります。「空に虹を見るとき、私の心は躍る。私の生涯がはじまった時に、そうであった。大人になった今もそうだ。老いてもそうであってほしい。でなければ死んでしまいたい。子供は大人の父だ。だから、わたしの生活の一日一日が自然への愛で結ばれてほしいものだ。」
有名な「子供は大人の父」というフレーズはここで使われます。子供の頃に抱いた自然への畏敬の念を忘れないようにしたいものです。幼子のようになるとは、幼子のような驚きの心を失わないということです。
今回、徳島の聖会に同行してくださった名古屋教会のメンバーがいます。徳島出身の方で、その方のお母さまがパウロ教会の礎となりました。古い『ぶどう樹』に「無限の大愛」という題でその方の救いの証しが載っています(96号)。キリストを心に迎えた驚きが単純に記されている感動の証しです。
昭和34年2月、「我戸の外に立ちてたたく。我が声を聞いて戸を開かば我その内に入らん」との御言が強く胸を打ちました。「主よ、我が心の扉を開きます。わが内にお入りください」と祈り求めて御名を呼びました。このとき主御自身はひそかに我が内に入って下さったのでありました。次の集会に出ました時、たまらなく御名が慕わしく、また御名を唱えました時、何とも云えない命の躍動を内に感じたのであります。しかしこれが内住経験であるかまだ、鮮明には自覚できませんでした。「主よ、来るべき者は汝なるか他に待つべきか」と祈りました時、主はわが内より『我は主なり』とお答えくださいました。永遠の生命を御名により体験する。御名こそキリスト御自身、神御自身でありました。わが心は喜びにあふれトマスのごとく、「わが主よわが神よ」と心から内に宿り給うた生けるキリストを拝したのでありました。

明日から6月です。

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6月のオープン礼拝



6月のオープン礼拝(キリスト教のススメ)、テーマは「真理とは何か」。
毎月第1日曜日(今月は第2日曜)は、教会は初めてと言われる方にも入りやすいオープン礼拝です。
ぜひお出かけください。弥富公園東、丘の上の教会です。
入場無料、駐車場あり、お子さま同伴も歓迎します。

オープン礼拝は、日曜の朝10時30分から。
弥富公園東、丘の上の教会。

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愛に動くイスラエル

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
コリントの信徒への手紙一13章から。

13:13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。

今週は『あかしびと』の巻頭のことばからお勧めがありました。
合唱団の証しも入り感謝でした。

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わたしの国



イエスとピラトの対話です。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」ここでイエスが三度もくり返し語られた「わたしの国」という言葉について考えてみましょう。イエスが、この世には属さないと言われた「わたしの国」こそ、神と人が、そして神を中心に、人と人が美しい調和を実現した神の国です。ここで使われている「国(バシレイア)」という言葉を、ヨハネは第3章でも使っています。あのニコデモとの対話です。
ユダヤ人の指導者の一人であるニコデモが夜、密かにイエスのもとを尋ねます。彼は最高の敬意を払って、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしは、だれも行うことができません」と挨拶しましたが、イエスは単刀直入、彼の問題の核心を突き、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と語られました。
この新たに生まれなければ入ることのできない神の国を実現するために、イエスは十字架に上げられなければならなかったのです。イエスが宣教の始めに語られた言葉を覚えているでしょうか。救い主としての働きを開始されたイエスは、開口一番、こう宣言されました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
「主の祈り」もそうです。「父よ、御名があがめられますように」と祈った後、最初の祈りは、「御国が来ますように」です。「御国に入れますように」ではありません。御国が来ますように、どこに。ここに。「ここも神の御国なれば」です。イエスは言われました。「神の国は、見られるかたちで来るものではない。『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と。

今週も大切なことを大切に。

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ここも神の御国なれば

礼拝メッセージ 「ここも神の御国なれば」
聖書 ヨハネによる福音書18章36-38節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(163)

18:36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18:38 ピラトは言った。「真理とは何か。」

3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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聖書は説教されることを待っている



説教について、月曜日の続きです。

現代日本の礼拝説教が力を失い、それゆえ教会が力を失っているとするなら、それは、私たち説教者がいつの間にか、あまりにも「賢く」あろうとしているからなのではないだろうか。学者のような、零細企業の経営者のような、社会事業家のような、あるいは小さな教祖のような賢い立ち居振る舞いを身に付け、説教の「愚かさ」に徹することを忘れてしまっているからではないだろうか。
「説教力」は、説教者の賢さからは訪れない。それは御言葉そのものの力から訪れるのだ。
しかしそのことは、自分の説教の貧しさにあぐらをかいていればよいということではない。また「現代の礼拝の問題は、説教に重きが置かれすぎていることになる」とうそぶいて責任放棄すればよいということでもない。聖書は礼拝において説教されることを待っている。神は今も教会を通して、この時代に向かって話をしたがっておられる。私たち説教者は、その神のわざに仕える栄光な務めに召し出されているのである。
説教。それは、私たちが選んだのではなく、神が選んだ救いの手段である。
主イエスが説教を開始されたのは、洗礼者ヨハネが捕らえられた直後のことであった。闇の力が勝ち誇る中、説教の言葉をもって人間を取り戻す戦いを開始されたのである。「時は満ち、神の国は近づいた」。私たちもまた、人間を喪失させる時代の霊に、言葉をもって立ち向かう戦いを受け継いでいる。
この日本には、9000を越える教会・伝道所があるという。たとえそれぞれの群れは小さくても、日曜日ごとに、9000人の牧師・神父・信徒たちが説教を続けている。その数は、エリヤに約束された「バアルにひざまずかない7千人」(列王上19:18)よりもはるかに多い。そのひとりひとりが、まるで初めて説教するかのように、御言葉の力に打ち負かされて語り始めるとき、必ず教会は新たにされるだろう。
Ministry2010 vol.4「説教力を磨く」より

今日は真夏日です。この季節がやって来ました。

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なすべきこと

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
使徒言行録9章から。

9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

9:15 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」

教会ではペンテコステに向かって祈りが始まっています。今年、私たちもダマスコの回心を、使徒言行録9章を体験できますように。なすべきことがはっきりすれば、方向性が変わるでしょう。

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説教という愚かな手段



今日は教区の若い先生方との祈り会がもたれ、説教について考えました。
これはある雑誌で読んだ説教についての記事にです。

今から15年前、東京から石川県の教会に赴任してから随分たったある日、かつての教会で共に過ごした信徒から手紙が届いた。母というには歳を重ね、祖母というにはまだ若い女性。差出人の名前に、いつも伏し目がちに過ごしていたその女性のたたずまいをすぐに思い出したが、会話をしたことは思い出せない。
それは、このような手紙だった。「あの日曜日、私は死ぬ準備を整えて、教会の礼拝に行きました。帰りに飛び降りることに決めていた歩道橋を渡り、神様に別れを告げるためでした。けれどもその日の礼拝で、先生の説教にキリストの声を聞きました。『わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる』(ヨハネ14:19)。その声が、今日も私を生かしています。そのお礼を伝えるまでに、5年の月日が必要でした。」
当時はまだ神学校を出たばかりの20代。日曜の朝になっても説教準備が終わらず、説教を終えた夜は心さいなみ、幾度も寝返りを打つ伝道者の説教を、彼女は正面から受け止めた。そして、聖書の言葉を通して神ご自身が語りかけてくださったのだ。私たち説教者は、水をワインに変えた方、主イエス・キリストの奇跡にくり返し出会わせていただきながら歩んでいる。
「そこで神は、宣教(説教)という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(汽灰螢鵐1:21-23)。
説教は愚かな手段である。スピードがもてはやされるこの時代に、十年一日のような教会でくり返されるたどたどしいスピーチから、いったい何が生まれるというのだろう。しかも、私のための希望は十字架で殺された方にあると語り続けることは、ユダヤ人やギリシア人のみならず、日本人にも愚かさの極みであろう。しかし、そのもどかしさに喘ぎ、聖書の言葉を何とか届けたいたいともがく伝道者の愚かさを、神は用いてくださるのだ。

あなたにも、あの日あの時の、忘れられない説教が、今のあなたを生かしてる説教があるでしょうか。神は今も教会を通して、この時代に向かって語っておられるのです。高校1年の夏、徳島の教会で聞いたキリストの声が私の転機となりました。
今週も大切なことを大切に。

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新しい道

礼拝メッセージ 「新しい道」長谷川神学生
聖書 フィリピの信徒への手紙2章6-11節

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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なぜ十字架だったのか その2



神の救いの道はキリストの受肉、十字架、復活によってもたらされました。キリストの十字架は、キリストが私たちの罪の身代わりに死んでくださったことを意味します。十字架刑は、当時イスラエルを統治していたローマ帝国において最も残忍な死刑の方法でしたが、なぜ、キリストの死は十字架でなければならなかったのでしょう。ほかの方法ではなく、十字架であったことに意味があります。それは神が定められた律法の要求に応えるためです。ガラテヤ書3章13節にこう書かれています。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」十字架刑はローマ帝国の死刑法でしたが、ユダヤの律法でも「木に架けられる」という刑罰がありました。申命記21章などに出て来ますが、それによると、木に架けられた者は「神に呪われた者」と言われています。私たちには聖書が教える呪いということが理解しにくいのですが、呪いの死とは、罪に対する神の怒りと裁きを受けた死であって、アダム以来、すべての人に定められた宿命です。この呪いから私たちを解放し救うために、キリストは呪われた者とならなければならなかったのです。
十字架の上で叫ばれたイエスの言葉を思い出します。「エリ、エリ、レマサバクタニ」「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」父なる神との美しい調和を一瞬も失うことなく持ち続けていた神の御子が、それを失い、神に見捨てられた者、呪われた者となってくださったその時、アダム以来、失われていた神と人との美しい調和が取り戻される道が開かれたのです。ですから、キリストが呪われた者として十字架の上で死んでくださったことによって、罪の代価は支払われ、私たちは神の怒りと裁きという、恐るべき呪いから解放されたのです。それは私たち一人一人が、「一輪の花」として美しい生きるためだったのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが(神の命に、神の愛に)生きるようになるためです。(「一輪の花」として美しく生きるためです。)ここに、神の愛が私たちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子とをお遣わしになりました。ここに愛があります。」

土曜日、日曜日と徳島にあるパウロ教会でメッセージを語らせていただきます。創立60周年、献堂40周年の記念聖会です。

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