足跡



ヨハネはイエスのなさった奇跡を「しるし」と呼びました。中国語訳の聖書では「神迹」と訳されています。それはその奇跡が、人をあっと驚かせるための奇跡ではなく、それが正真正銘、神の業であり、そこを神がお通りになったことを証明する足跡(sign)であるという意味です。ヨハネが見た7つのしるし(神の足跡)を追いかけてみましょう。

第一のしるしは、カナの婚礼において、水がぶどう酒に変えられた奇跡です。婚礼の席で、ぶどう酒がなくなった時、イエスはその家の召し使いに命じました。「瓶に水をいっぱい入れなさい。」彼らがイエスの言われるとおりにすると、水がぶどう酒に変わりました。イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現されたのです。
第二のしるしは、遠く離れた場所にいた王の役人の息子の癒しです。イエスは王の役人に言われました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」彼はイエスの言われた言葉を信じて帰って行きましたが、息子は、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻に癒やされていました。
第三のしるしはベトザタの池で起こりました。イエスはそこに38年も寝たきりの人がいるのを見て、「良くなりたいか」と言われました。そして、「床を担いで歩きなさい」と命じると、病人は踊り上がって立ち、歩き出しました。イエスは言われます。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」と。
第四のしるしは、パンの奇跡です。夕暮れ時、ガリラヤ湖畔で、ひとりの少年がささげた5つの大麦のパンが、イエスの手に渡されました。イエスは感謝の祈りをささげ、そのパンをそこにいた群衆に分け与えていきました。人々はそれを食べて満腹しました。その数は男だけでおおよそ5千人でした。人々はイエスのなさったしるしを見て「まさにこの人こそ、世に来られた預言者である」と言いました。
第五のしるしは、海上歩行の奇跡です。暗闇の中、荒れ狂うガリラヤ湖の波を踏みしめて、イエスは舟に近づき、こう言われました。「わたしだ。恐れることはない」と。
第六のしるしは、シロアムの池における盲人開眼の奇跡です。一人の弟子がイエスに尋ねました。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。神の業がこの人に現れるためである」と。イエスは土をこねて、盲人の目に塗り、「シロアム(遣わされた者)の池に行って洗いなさい」と命じました。盲人が、イエスの言葉に従って、シロアムの池で目を洗うと、見えなかった目が見えるようになりました。
そして、第七のしるしは、ラザロの復活です。泣き叫ぶベタニアの人々、葬られたラザロの墓の前でイエスは涙を流された。イエスの声が聞こえてきます。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。・・・もし信じるなら神の栄光が見られると言っておいたではないか。・・・ラザロ、出て来なさい。」すると墓の中からラザロが出て来ました。
ヨハネは、まるでカメラのシャッターを押すように、イエスの足跡を、その栄光を記録していきました。その一瞬一瞬がまさに「栄光の瞬間」です。それはいつもイエスが神の子メシアとして崇められる瞬間でした。
あなたは見ましたか。神の足跡を。あなたは聞きましたか。神の子の声を。



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石庭



イエスを愛し、イエスに愛された弟子のヨハネは、まだ青年の頃にイエスと出会いました。その日から、彼はずっとイエスのそばにいました。そこが彼の指定席となりました。だから彼は「キリストに留まれ」と語り続けます。それが彼のライフメッセージでした。そんな彼が伝えたものとは何であったのでしょうか。ヨハネは言います。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について」と。
ここで「命の言」と呼ばれているのは、キリストのことです。ヨハネは「よく見て」と書いていますが、それは、すぐ前の「目で見た」とは別の言葉です。「よく見て」とは、誰かを、あるいは何かを、その存在の意味と重要性がわかるまで、じっくり時間をかけて見つめることを意味します。それは単に一瞥すると言うことではなく、じっと見つめ続けることです。彼は我を忘れるほど、イエスに見とれてしまったのです。
京都に石庭で有名な龍安寺という寺があります。世界文化遺産にも指定されています。この石庭は、諸説がありますが、室町後期の僧侶であり、絵描きでもあった相阿弥という人物の作品と考えられています。彼は自らが到達した心の世界をわずか大小15個の石と白い砂のみを用いて表現しました。一樹一草も使わぬシンプルな庭ですが、龍安寺の石庭は、そこに座り、静かに庭を眺める人の心に、声なき声をもって語りかける力を持っています。ヨハネの手法もそれと同じです。ヨハネは選りすぐった7つの奇跡(しるし)を福音書という彼の庭に絶妙に配置し、その庭を眺める人の心に力強く語りかけるのです。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と。これこそ、我を忘れるほど、イエスに見とれた彼の福音なのです。

今週も大切なことを大切に。
今週もウィークデーの教会での集会、活動は中止延期となります。ご了承ください。

名古屋教会のホームページが移転しました。
https://seiiesukai.org/nagoyachurch/
ブックマークの変更をお願いします。

また当ブログサイトは担当牧師の転任に伴い、3月中にクローズする予定です。
長い間、ご愛読いただいたみなさまに心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。

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神迹(sign)

礼拝メッセージ 「神迹(sign)」
聖書 ヨハネによる福音書20章30-31節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(190)

20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

ヨハネの手紙一
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。

今週も礼拝の恵みに感謝。
今週も礼拝以外の教会の集会と活動は中止・延期となります。

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お知らせ

教会からのお知らせです。

明日3月8日の礼拝も通常どおり行う予定です。午前10時半から、約1時間。
愛知県でも新型コロナウイルスの感染者が増えていますので、体調不良の方、高齢の方、持病のある方、不安のある方は無理をせず、自宅でライブ放送を見たり、聖書を開いて御言葉を味わい、礼拝を守ってください。明日の聖書箇所はヨハネ福音書20章30-31節です。
来週も平日の教会活動は自粛します。12日の祈祷会も休みです。15日以降の集会については、改めて連絡します。
「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方」と」(詩編91編・防御の詩編)。

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耐えられる苦しみ



あの日から1週間、トマスはどんな気持ちで弟子たちのところにとどまり続けたのでしょうか。
復活されたイエスは、弟子たちに「ガリラヤで会おう」と語っておられましたので、弟子たちはガリラヤに行くべきでしたが、少なくとも1週間は、エルサレムに留まっていたことになります。これは想像ですが、弟子たちはトマスのために、ガリラヤ行きを延期していたのかも知れません。トマスが信じられるようになるまで、トマスと一緒にいたかったのです。
片柳弘史神父が『こころの深呼吸』という本の中で、こんなことを書いていました。「耐えられないほどひどい苦しみも、誰かがそばにいて手を握ってくれるなら耐えられる苦しみに変わります。愛する人の苦しみをなくすことはできなくても、耐えられる苦しみに変えることならできるのです。」
この詩は先生の体験から来ているようです。まだ若い頃、マザー・テレサに会うためにインドに行きましたが、カルカッタ(コルカタ)で結核を発病し、死ぬ寸前の苦しみに遭ったそうです。苦しみのあまりパニックに陥った時、一人の神父が寝付くまで、ずっとそばにいてくれたそうです。医師も薬もありがたかったが、一番うれしかったのは、その神父がそばにいてくれたことであったというのです。
トマスはいたずらに「信じない」と言ったのではなかったのでしょう。信じないのなら、弟子たちの集まりから離れて行ったはずです。でも彼はそこに留まり続けました。弟子たちも、彼を責めることなく、彼の耐えられない苦しみを、そばにいて、耐えられる苦しみに変えていったのです。復活の主と出会った弟子たちには、それができたのです。そして、8日の後がやって来ました。トマスに注がれたイエスの眼差し。彼は畏敬の念に打たれ、イエスを礼拝します。「わたしの主、わたしの神よ」と。

新型コロナウイルス拡散予防の対策として、名古屋教会でも礼拝以外の集まりを中止または延期しています。
この事態が一日も早く収束しますように。

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最も大切なこと



三浦綾子は『新約聖書入門』の中に、こんなことを書いています。「この世で何が信じられないといって、イエスの復活ほど信じられない事件はないかもしれない。実の話、私も復活が信じられない何年かがあった。洗礼を受けた時も、私は復活を信じたのではなく、十字架による自分の罪の赦しを信じたのであった。いや、聖書を読むと、使徒たちでさえそう簡単にはイエスの復活を信じたのではないことが分かる」と。
では、復活を信じることの出来なかった三浦さんは、どうして信じることができるようになったのでしょう。三浦さんは、その後の弟子たちの変化を理由に上げています。使徒言行録に描かれた弟子たちの生き生きとした目覚しい活躍。殉教すら恐れずにキリストの十字架と復活を伝える姿。この変化は、イエス・キリストの死後に何かが起こったとしか考えられません。何かが起こったのです。
アメリカの37代大統領リチャード・ニクソンの側近であったチャック・コルソンが、イエスの復活について興味深いことを語っています。チャック・コルソンは、ウォーターゲート事件への関与で有罪となった人物で、後に獄中で回心し、クリスチャンとなりました。彼の言葉です。「イエスの復活が事実かと質問されると、私は『弟子たちと五百人の人たちは、自分が目撃した事実を書いているのだ』と答える。すると、『どうしてそれが事実だとわかるのか』との質問が返ってくる。そこ私は、ウォーターゲート事件を例にとって説明する。この事件は、大統領に忠誠を誓った側近が共謀して起こした事件であった。(ニクソンを再選させるために、敵陣営(民主党)の選挙対策本部に盗聴器を仕掛けようとして捕まる事件。ビルの名前がワシントンDCのウォーターゲートビルでした。)しかし、側近の一人ジョン・ディーンは、当局の調査が始まってたった2週間で、自分の身を守るためにニクソンに不利な証言をした。たった2週間でこの事件の隠蔽工作は失敗に終わった。すると、だれも彼もが罪を軽くしてもらうために証言を始めたのだ。大統領の側近たちが直面していたのは、死の危険性ではなく投獄の可能性であった。しかし、イエスの弟子たちは死の危機に直面していた。にもかかわらず、彼らは、最後まで、イエスは復活したという証言を曲げることはなかったのだ。もしそれが陰謀だとするなら、殺される前にその中の一人くらいは白状していただろう。人は真実のためには命を捨てられても、嘘のために死ぬことはできない。ウォーターゲート事件の隠蔽工作の失敗は、そんな人間の本性を明らかにしたのだ。」
イエスの弟子たちは、イエスの復活を否定することができませんでした。復活のイエスに出会ったからです。パウロは自らが伝えた福音についてこう語っています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたこと、・・・そして最後に、わたしにも現れたこと」です。これが、聖書が伝える最も大切なことなのです。

今週も大切なことを大切に。
今週のウィークデーの集会はすべて中止、延期となります。ご了承ください。

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続・トマスとわたし

礼拝メッセージ「続・トマスとわたし」
聖書 ヨハネによる福音書20章24-31節
ヨハネによる福音書シリーズ(189)

20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
20:29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
20:30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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お知らせ

教会からのお知らせです。

新型コロナウイルスの影響が各所で広がっています。教会でも手洗い消毒、咳エチケットの励行を呼びかけながら、礼拝を行っていますが、体調の優れない方、高齢の方、持病のある方、不安のある方は無理をせず、明日はご自宅で礼拝をささげてください。教会員の方はライブ放送(YouTube)で、礼拝に参加することもできますので、ご利用ください。

明日の礼拝のメッセージはヨハネによる福音書20章24-31節から、「トマスとわたし(続編)」です。

なお、来週予定していたウィークデーの集会はすべて中止または延期になります。8日以降の集会については改めてお知らせします。
「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人よ、主に申し上げよ。『わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方』と」(詩編91編・防御の詩編)。

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お知らせ

教会からのお知らせです。

名古屋教会のホームページが移転しました。
https://seiiesukai.org/nagoyachurch/
ブックマークの変更をお願いします。

また当ブログサイトは担当牧師の転任に伴い、3月中にクローズする予定です。
長い間、ご愛読いただいたみなさまに心から感謝申し上げます。
ありがとうございました。

                    名古屋教会 牧師・宮本博文

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わたしの主、わたしの神よ



ヨハネは、主が復活された日の夕べ、復活の主が弟子たちに現れた時のことを記していますが、その日、その場に居合わせなかった弟子がいました。ディディモと呼ばれていたトマスです。彼が仲間の弟子たちのもとに帰って来た時、その場の空気は一変していました。弟子たちの顔に刻まれていた憂い、悲しみ、失望の色は全く消え去り、希望を失っていた目はダイヤモンドのようにキラキラと輝いています。何かが起こったのは明らかでした。トマスにもその理由が告げられます。「わたしたちは主を見た」と。
仲間の変貌ぶりは事実です。彼らが嘘をついているとは思えません。しかし、復活を簡単に信じられないトマスは心を頑なにし、「私はこの手でキリストのみ傷に触れるまでは信じない」と言い放ってしまいます。信じたい、しかし信じられない。彼の苦悩と葛藤が続きました。良き牧者なる主は、8日の後(次の日曜日に)、再び弟子たちのところに御自身を現されました。イエスのまなざしはトマスに注がれていました。
イエスの復活が信じられず、石のように硬く冷たくなっていたトマスの心でしたが、イエスを拝した瞬間、心の奥底から、彼の口をついて出た言葉は、「わたしの主、わたしの神よ」でした。八百万の神を拝んでいる私たちが「私の神よ」と言っているのではありません。唯一の神を信じるように教え続けられてきた生粋のユダヤ人であるトマスが、イエスに向かって「わたしの主、わたしの神よ」と言っているのです。ヨハネは、トマスが復活の主に礼拝をささげる光景を、素朴に、感動的に描くことによって、それを読む私たちが、トマスと共にイエスを礼拝するよう導くのです。そして、私たちが、トマスと共に、「わたしの主、わたしの神よ」とイエスを礼拝する時に、ヨハネによる福音書は私の福音書となるのです。

明日は2月29日、明後日から3月です。

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