私たちに潜む凡庸な悪



以前、中日春秋に「ハンナ・アーレント」という映画の話題が載っていました。
誰が言ったのか定かならぬ警句がある。「一人の死は悲劇だが、百万人の死は統計である」。独裁者スターリンが言ったという説もあれば、ナチスのユダヤ人大虐殺に関わったアイヒマンの言葉ともされる。アイヒマンは、1960年に逃亡先の南米でイスラエルの秘密機関に捕らえられ、エルサレムで裁かれた。600万人を死に追いやったと糾弾された彼が、現実に法廷で口にしたのはこういう言葉だった。「私は命令に従ったまでです」「殺害するか否かは命令次第です。」
『ハンナ・アーレント』は、大量殺戮時代の悪の本質に迫ろうとした哲学者を描く映画だ。収容所の恐怖を体験したアーレントは裁判を聴くうち、アイヒマンを怪物扱いする法廷と世論に違和感を抱くようになる。「彼はどこにでもいる人。怖いほど凡人なの」「彼に罪の意識はまったくない。法に従ったからよ」。
まじめで組織に忠実な人が、自ら考えることをやめた時に結果として為す「悪」。彼女が見たのは、ごくありふれた悪の姿だった。アーレントは名著『イェルサレムのアイヒマン』で記している。「政治においては服従と支持は同じもの」。百万の悲劇を単なる数字に変えてしまうのは、怪物のような政治家ではなく、私たちに潜む凡庸な悪なのだろう。
8月に入り、平和について考えるシーズンですが、考えさせられる内容です。ヨハネ福音書のシリーズもずっと受難の記事を学んでいますが、イエスの死に関わる人間模様が続きました。主を三度も否み、激しく泣いたペトロ。主に最後まで「友よ」と呼ばれながら、銀貨30枚で主を売り、自らその命を絶ったイスカリオテのユダ。そして、イエスを十字架に付けるように宣告したローマ総督ピラト。
キリストの死に関わった彼らは、私たちよりも罪深かったのでしょうか。いいえ、彼らも平凡な人々で、私たちにも彼らと同じ罪や弱さがあります。ですから、私たちは、なぜかペトロの失敗を笑えません。イスカリオテのユダの裏切りを責められません。そして、ピラトの保身的な生き方、優柔不断さ、誤った選択についても、それを非難し、責任を追及できないのです。彼らも私たちと同じ普通も、平凡は人だったからです。もし私たちが二千年前に、あの場所にいたならどうしたのでしょうか。そんなことを考えながら、キリストの受難に遭遇した人々の視線や息遣い、その場の風景や空気を感じられたらと思います。

今週も大切なことを大切に。

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