裁判の席



ピラトは、ユダヤ人の指導者たちが「あなたは皇帝の友ではない」と言う言葉を聞くと、イエスを官邸から外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち、『敷石』という場所で、裁判の席に着かせました。マタイの福音書を見ると、この事態を収拾できないと見るや、ピラトは自らの手を水で洗い、「この人の血について、わたしには責任がない」と言い、イエスを十字架につけために引き渡したことが記されています。ピラトは最後まで責任逃れをしましたが、彼にも責任があったことは明白です。その証拠に、彼の名は今日に至るまで、イエスは「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と使徒信条の中で覚えられ、イエスを十字架に渡した責任者として、歴史にその名を刻んでいます。
ヨハネ福音書に「イエスを・・・裁判の席に着かせた」と記されていますが、当時のローマの法廷では、通常、席に着くのは裁判官であって、被告人はそこに立ったままです。文法上は、「ピラトが裁判の席に着いた」とも訳せる言葉なので、それが自然なのですが、現実の世界を越えて、見えない世界を示そうとするヨハネの論法から考えるなら、イエスが裁かれる裁判の席にあって、誰が裁かれているのか、最後の審判者は誰なのか、私たちに考えさせようと「イエスを裁判の席に着かせた」と記されたのかも知れません。
ヘブライ人への手紙9章にはこう記されています。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定められている」と。不確かな人生にあって、100パーセント確実なことは、誰もが死を経験することです。その時、すべての人は神の裁きを受けることになります。その時には、私たちが今日をどのように生きたのかが明らかにされるのです。ということは、今日も私たちは神の裁きの座に立たされているということではないでしょうか。
ヨハネ福音書の3章17節にこう記されています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」これこそキリストが世に遣わされた目的です。この17節の前が16節です。今、御子による救いを受け取ってください。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

明日は志摩での土曜礼拝です。

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燃えるたいまつ

ガバタ(敷石)にて

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