エッケ・ホモ



讃美歌「まぶねのなかに」は、日本の賛美歌の発展に貢献された由木康牧師(「きよしこの夜」や「血汐したたる」を訳された先生)が作詞されたメイドインジャパンの讃美歌で、ヨハネ福音書19章5節の御言葉をモチーフに、「この人を見よ」という歌詞がくり返し歌われます。この言葉は、ラテン語で「エッケ・ホモ」と言い、いばらの冠をかぶるイエスを描いた聖画の題名として用いられています。
イエスを取り調べたローマ総督ピラトは、イエスが無実であり、その訴えも政治的な案件ではないことから、イエスを釈放しようと努力しました。最初の試みは、過越祭に行われていた恩赦を利用することでしたが、イエスに敵対する宗教指導者たちによって扇動された民衆は、イエスではなくバラバを解放するようにピラトに要求しました。
第2の試みは、イエスを鞭打ちにし、民衆の怒りが収まるのを待つということでした。兵士たちは、イエスの頭にいばらで編んだ冠をかぶらせ、紫色の着物を着せました。イエスを裸にし、上着だけのショールを首のところから結んで、王服に見せかけたのです。マタイの福音書では、イエスに葦の棒を持たせたともあり、兵士たちが、鞭打たれ、血だらけになった憐れな裸の王をイエスに演じさせたことがわかります。
この後、ピラトは、早朝から総督官邸に集まっていたユダヤ人たちの前にイエスを立たせて言いました。「見よ、この男だ」と。この時、ピラトが言いたかったことはこうです。「彼はもはや、恐れるに足りない。憐れな裸の王様に過ぎない。解放してやろう。」ピラトの発言はおそらくその程度の内容でした。しかし、この言葉をここに記したヨハネにとっては、もっと深い含蓄を込めた言葉であったのです。ヨハネ福音書には、語った本人の自覚や意識とは裏腹に、語られたセリフが真理を示すというアイロニー(皮肉)という手法が多く用いられています。ヨハネは、ピラトが先に語った「真理とは何か」という言葉に続き、「見よ、この男を」との特に意味を持たない言葉を用いて、私たちをイエス・キリストに向かわせようとするのです。
ヨハネが福音書の冒頭に記した言葉が思い出されます。それは洗礼者ヨハネがイエスを指さして語った言葉です。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ピラトの法廷に立ち、「この人を見よ」と言われているこの方こそ、世の罪を取り除く神の小羊だったのです。

今週も大切なことを大切に。

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この人を見よ

あなたのパンを水に浮かべて流すがよい

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