バラバこそ私



大槻筆子先生は、女学校の時代に、キリストの十字架を描いた一枚の聖画に心を奪われ、やがて回心にまで導かれます。
古い『ぶどう樹』にこんな証が載っていました。

私の学んでいた学校へ世界の名画を複写したのを売りに来た行商人がいました。応接室に展示せられたそれらの名画の中で格別私の心を促えたのは十字架上のキリストの聖画でした。世界の四聖人と云われたこの人が、この様な残酷な刑を受けられたと云うことは余程深い理由があるに違いないと思い、非常な感動を覚え、それがほしくてたまらなくなり、手に取って見た途端、「君はそんなものが好きかね?」とある先生に冷かされ、思わずそれを下におき、横にあった悲しみの聖母マリヤの聖画を買ってしまったのです。・・・
その後数年を経て、教会に導かれ、復活のキリストと出会い、明確な回心経験をいたしました。・・・人間の存在の目的とは、神とは、永遠不滅の霊魂の行末は、これらの問題に悩むと共に、自分の内面の姿を眺め、「ああこの死の体より救わんものは誰ぞ」と遂に教会にかけ込んだ私でした。・・・人祖アダムの罪の結果、罪の性質を遺伝的に受けついで生れた人類は全て怒りの子、罪の子であって、神の恵を受ける資格のない者であります。罪の中に閉じ込められている人間の中より救主を見出すことは出来ません。・・・そこで神はここに唯一の救の道を開き、これを無代価で提供して下さいました。・・・神はその独子を世に遣し、十字架を負わせ、限りなく高価な代償を払はしめ給うことによって、神と人間との間に存在した断絶を埋め尽くし、神と人とを和らがしめる所の手段を取り給うたのであります。・・・罪なき神の子なるイエス・キリストが、大罪人とみなされ、極悪人バラバのかけられるべき十字架にかけられて極刑をお受けになった事実を知りました時、十字架につけられるべきバラバこそ私でありますと叫ばずにおられませんでした。・・・「我を信ぜよ、我を信ぜよ」とのキリストの御声に満腔の感謝・感激をもって、我がため十字架にかかり給いし、イエス・キリストを、我が救主、我が神と信じました。その時、「子よ、心安かれ、汝の罪赦されたり」との声と共に、罪と死の恐怖から解放されたのであります。

「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由にしてくださったのです。」
これがバラバと私の物語なのです。

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