何の罪も見いだせない



ローマ総督ピラトは、イエスの尋問を終え、官邸の中庭で待つユダヤ人の指導者たちの前に立ちました。ピラトはすでにユダヤ人たちが妬みのためにイエスを訴え出ていることを理解していましたが、それ以上に、イエスとの対話を通して、イエスには罪がないことを悟りました。ピラトはユダヤ人に言います。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と。この後、ピラトはこのフレーズもくり返し、イエスを解放する道を探りましす。
ルカによる福音書の情報によれば、「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」とピラトが発言したことにより、ユダヤ人の指導者たちが騒ぎ立ち、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言うのを聞いて、ピラトがイエスの身柄をガリラヤの領主であるヘロデのもとに移し、彼にイエスを裁かせようとしたことが記されています。彼も過越祭の期間、エルサレムに来ていたからです。
ヘロデの尋問については、今回は割愛しますが、ヘロデもイエスに罪を認めることができないまま、派手な衣を着せてピラトに送り返してきました。ここからイエスの死が確定する、政治裁判の最後の段階に入ります。まだ早朝でしたが、おそらくこの頃には、エルサレムの町中にイエスが捕らえられたというニュースが流れ、多くのユダヤ人が神殿の隣にある総督官邸に集まり始めていたと思われます。ピラトは、イエスが無実であり、その訴えも政治的な案件には当たらないと判断し、民衆に一つの提案をしました。「ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」と。
当時、過越祭の期間に、民衆が願い出る囚人に恩赦を与えるという習慣がありました。ピラトはそれを利用してイエスを解放しようと考えたのです。ところが、ピラトの思惑に反し、祭司長たちに扇動された民衆は、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返したのです。バラバのことは来週、詳しくお話ししますが、鎖が解かれ、釈放されるバラバと、十字架につけるために引き渡されるイエス。この場面ほど、イエスの身代わりの死を象徴する場面はないのかも知れません。
聖書は教えます。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」これこそ聖書が教える最も大切な真理なのです。

2019年もあっという間に6ヶ月が過ぎようとしています。さあ、後半戦です。

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