聖書は説教されることを待っている



説教について、月曜日の続きです。

現代日本の礼拝説教が力を失い、それゆえ教会が力を失っているとするなら、それは、私たち説教者がいつの間にか、あまりにも「賢く」あろうとしているからなのではないだろうか。学者のような、零細企業の経営者のような、社会事業家のような、あるいは小さな教祖のような賢い立ち居振る舞いを身に付け、説教の「愚かさ」に徹することを忘れてしまっているからではないだろうか。
「説教力」は、説教者の賢さからは訪れない。それは御言葉そのものの力から訪れるのだ。
しかしそのことは、自分の説教の貧しさにあぐらをかいていればよいということではない。また「現代の礼拝の問題は、説教に重きが置かれすぎていることになる」とうそぶいて責任放棄すればよいということでもない。聖書は礼拝において説教されることを待っている。神は今も教会を通して、この時代に向かって話をしたがっておられる。私たち説教者は、その神のわざに仕える栄光な務めに召し出されているのである。
説教。それは、私たちが選んだのではなく、神が選んだ救いの手段である。
主イエスが説教を開始されたのは、洗礼者ヨハネが捕らえられた直後のことであった。闇の力が勝ち誇る中、説教の言葉をもって人間を取り戻す戦いを開始されたのである。「時は満ち、神の国は近づいた」。私たちもまた、人間を喪失させる時代の霊に、言葉をもって立ち向かう戦いを受け継いでいる。
この日本には、9000を越える教会・伝道所があるという。たとえそれぞれの群れは小さくても、日曜日ごとに、9000人の牧師・神父・信徒たちが説教を続けている。その数は、エリヤに約束された「バアルにひざまずかない7千人」(列王上19:18)よりもはるかに多い。そのひとりひとりが、まるで初めて説教するかのように、御言葉の力に打ち負かされて語り始めるとき、必ず教会は新たにされるだろう。
Ministry2010 vol.4「説教力を磨く」より

今日は真夏日です。この季節がやって来ました。

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