説教という愚かな手段



今日は教区の若い先生方との祈り会がもたれ、説教について考えました。
これはある雑誌で読んだ説教についての記事にです。

今から15年前、東京から石川県の教会に赴任してから随分たったある日、かつての教会で共に過ごした信徒から手紙が届いた。母というには歳を重ね、祖母というにはまだ若い女性。差出人の名前に、いつも伏し目がちに過ごしていたその女性のたたずまいをすぐに思い出したが、会話をしたことは思い出せない。
それは、このような手紙だった。「あの日曜日、私は死ぬ準備を整えて、教会の礼拝に行きました。帰りに飛び降りることに決めていた歩道橋を渡り、神様に別れを告げるためでした。けれどもその日の礼拝で、先生の説教にキリストの声を聞きました。『わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる』(ヨハネ14:19)。その声が、今日も私を生かしています。そのお礼を伝えるまでに、5年の月日が必要でした。」
当時はまだ神学校を出たばかりの20代。日曜の朝になっても説教準備が終わらず、説教を終えた夜は心さいなみ、幾度も寝返りを打つ伝道者の説教を、彼女は正面から受け止めた。そして、聖書の言葉を通して神ご自身が語りかけてくださったのだ。私たち説教者は、水をワインに変えた方、主イエス・キリストの奇跡にくり返し出会わせていただきながら歩んでいる。
「そこで神は、宣教(説教)という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(汽灰螢鵐1:21-23)。
説教は愚かな手段である。スピードがもてはやされるこの時代に、十年一日のような教会でくり返されるたどたどしいスピーチから、いったい何が生まれるというのだろう。しかも、私のための希望は十字架で殺された方にあると語り続けることは、ユダヤ人やギリシア人のみならず、日本人にも愚かさの極みであろう。しかし、そのもどかしさに喘ぎ、聖書の言葉を何とか届けたいたいともがく伝道者の愚かさを、神は用いてくださるのだ。

あなたにも、あの日あの時の、忘れられない説教が、今のあなたを生かしてる説教があるでしょうか。神は今も教会を通して、この時代に向かって語っておられるのです。高校1年の夏、徳島の教会で聞いたキリストの声が私の転機となりました。
今週も大切なことを大切に。

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