なぜ十字架だったのか その2



神の救いの道はキリストの受肉、十字架、復活によってもたらされました。キリストの十字架は、キリストが私たちの罪の身代わりに死んでくださったことを意味します。十字架刑は、当時イスラエルを統治していたローマ帝国において最も残忍な死刑の方法でしたが、なぜ、キリストの死は十字架でなければならなかったのでしょう。ほかの方法ではなく、十字架であったことに意味があります。それは神が定められた律法の要求に応えるためです。ガラテヤ書3章13節にこう書かれています。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」十字架刑はローマ帝国の死刑法でしたが、ユダヤの律法でも「木に架けられる」という刑罰がありました。申命記21章などに出て来ますが、それによると、木に架けられた者は「神に呪われた者」と言われています。私たちには聖書が教える呪いということが理解しにくいのですが、呪いの死とは、罪に対する神の怒りと裁きを受けた死であって、アダム以来、すべての人に定められた宿命です。この呪いから私たちを解放し救うために、キリストは呪われた者とならなければならなかったのです。
十字架の上で叫ばれたイエスの言葉を思い出します。「エリ、エリ、レマサバクタニ」「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」父なる神との美しい調和を一瞬も失うことなく持ち続けていた神の御子が、それを失い、神に見捨てられた者、呪われた者となってくださったその時、アダム以来、失われていた神と人との美しい調和が取り戻される道が開かれたのです。ですから、キリストが呪われた者として十字架の上で死んでくださったことによって、罪の代価は支払われ、私たちは神の怒りと裁きという、恐るべき呪いから解放されたのです。それは私たち一人一人が、「一輪の花」として美しい生きるためだったのです。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが(神の命に、神の愛に)生きるようになるためです。(「一輪の花」として美しく生きるためです。)ここに、神の愛が私たちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子とをお遣わしになりました。ここに愛があります。」

土曜日、日曜日と徳島にあるパウロ教会でメッセージを語らせていただきます。創立60周年、献堂40周年の記念聖会です。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

神がハガルの目を開かれたので

新しい道

comments





 

trackbacks

(C) 2019 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me