なぜ十字架だったのか



ピラトが「あなたたちが自分たちの律法に従って裁け」と言ったのに対して、ユダヤ人たちが「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えたやり取を受けて、ヨハネは言います。「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」と。
私たちは毎週、使徒信条の中で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」と告白しますが、神が人類の救いのために立てられた計画に基づき、キリストが異邦人の手に引き渡され、裁かれ、十字架につけられたことを忘れないように告白しているのです。
イエスの死が十字架刑でなければならなかった理由を考えてみましょう。なぜ十字架だったのでしょうか。
第一に、それは骨が砕かれないという預言が成就するためです。出エジプト12章46節、「その骨を折ってはならない」とは、過越の子羊についての記述です。詩編32編20節以下、「主に従う人(メシア)には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」とある通りです。
第二に、キリストの死について、ユダヤ人と異邦人がともに責めを負うためです。ユダヤ人だけをキリスト殺しの犯人と言うのは教会の大きな過ちです。使徒言行録2章23節、「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」同じく4章27節、「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」
第三に、キリストは、呪いの死を受けた者として木にかけられなければならなかったからです。私たちには聖書が教える呪いということがよく理解できていません。呪いの死とは、罪に対する神の怒りと裁きを受けた死であって、アダム以来、すべての人に定められた宿命です。この呪いから私たちを救うために、キリストは呪われた者とならなければならなかったのです。ガラテヤ書3章13節、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」
十字架の上で叫ばれたイエスの言葉を思い出します。「エリ、エリ、レマサバクタニ」「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」父なる神との美しい調和を持ち続けていた神の子が、神に見捨てられた者、呪われた者となってくださったその時、アダム以来、失われていた神と人との美しい調和が取り戻される道が開かれたのです。
「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も(十字架に)上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」アーメン。

次の日曜日は、5月のオープン礼拝「母の日」特集です。

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