英雄であったから



ヨハネが伝えるペトロの第1の否認の箇所に、バークレーは「英雄と臆病者」というタイトルを付けて、次のような解説をしています。

こうしてペトロは、大祭司の庭で主を否んだ。ペトロほど説教者や注解者たちによって、不当に取り扱われてきた弟子はいない。この物語で強調されることは、いつでもペトロのしくじり、ペトロの恥である。だが私たちが忘れてはならないことがいくつかある。他の弟子たちは、ヨハネを除いて、イエスを見捨てて逃げて行った。ペトロのしたことを考えて見よ。ゲッセマネの園で、敵を向こうに回し剣を抜いたのは彼だけであった。彼は勇敢な弟子であった。他の者がみな逃げ去ってもイエスの近くにいたその勇気。
ペトロについてもっと注目されて良いのは、彼のしくじりが、この上ない勇気を持った男にしてはじめて起こり得たしくじりであった、という点である。たしかに、ペトロは失敗した。だか彼は、他の弟子たちならあえて直面しようとさえしなかった状況の中で、失敗したのである。彼が失敗したのは、彼が臆病者だったからではなく、彼が英雄であったからである。
…おそらく、否認の物語は程なく知れわったことであろう。伝説に寄れば、ペトロが通ると人々が鶏の鳴き声を真似たというのは、おそらくほんとうであろう。ペトロは自分を償うこと、すなわち失敗から出発して真の偉大さに到達するための(英雄になるための)勇気とねばりを持っていた。
問題の核心は、二階部屋で忠誠を誓ったのが真実のペトロだったということである。ゲッセマネの園の月明かりの中で、ひとり剣を抜いたのが真実のペトロだったということである。自分の主を残して去ることができず、遠くからでもイエスに従ったのが真実のペトロだったということである。緊張に押しひしがれ、主を否認したのは、真実のペトロではなかった。そして、それがまさにイエスの理解するところであった。
イエスについて目を見はらざるを得ないことは、失敗だらけの私たちの奥底に、真実の私を見てくださることである。イエスが私たちを愛してくださるのは、私たちの現状のゆえではなく、可能性として私たちが持っているもののためである。イエスのゆるしと愛はどこまでも大きい。

ルカのカメラは、ペトロが三度主を否んだ後の一瞬を捉えて、こう伝えています。「主は振り向いてペトロを見つめられた」と。イエスの眼差しは、あの日と少しも変わっていませんでした。ヨハネ1章42節、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(ペトロ)と呼ぶことにする。』」
イエスは今日もほんとうのあなたを、あなたのうちにいる英雄を見ておられます。

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