松明やともし火



今年も礼拝ではヨハネによる福音書をシリーズで学びます。今年は18章からになりますが、いよいよキリストの受難物語が始まります。新約聖書の初めに置かれた四つの福音書は、どれもキリストの受難物語に多くのページを割いています。彼らがほんとうに書きたかったのは、キリストの十字架と復活の真実だったからです。ヨハネ以外の福音書は、共観福音書と呼ばれるように、似通った資料を用いているので、受難物語もよく似ています。ところが、ヨハネはここでも、彼独特のアングルでキリストの受難を描いていきます。
テレビ番組や映画を制作する現場では、カメラが何台もあって、ディレクターや監督さんが、1カメ、2カメ、3カメと言って、カメラ割りをしているのをご存知かと思いますが、キリストのご受難の物語を描くのに、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書が、まるで四台のカメラのように配置され、キリストや弟子たち、そこに登場してくる人々の表情、声や息遣い、その場の空気を描いていくのです。
ヨハネ福音書を読んで、すぐに気づくのは、所謂、ゲッセマネの祈りと呼ばれる場面ないことです。マタイも、マルコも、ルカも、カメラのフォーカスを丁寧に合わせて、細心の注意を払って映し出したイエスの苦悶する表情を、ヨハネだけは捉えませんでした。すでに17章で別の祈りを記したヨハネは、ゲッセマネの園を、ただイエスの逮捕劇を中心に、しかも、テンポの良いカメラワークで、それも大切なメッセージを伝えながら描いているのです。
ヨハネのカメラを確認しましょう。ヨハネは、イエスの逮捕に「一隊の兵士」がやって来たと記していますが、これはローマの軍隊のことで、原文では「六百人部隊」という言葉が使われています。しかも、そのローマ兵が「松明やともし火や武器を手にしていた」と伝えているのです。かなり物々しい状況です。ところで、その夜は、それほど暗かったのでしょうか。時は、ユダヤの過越祭の時期でしたが、ちょうど満月の頃です。月明かりが煌々とエルサレムの町を、そしてゲッセマネの園を照らし出していたはずです。にも関わらず、彼らは手にて手に松明やともし火を持っていたというのです。ここにヨハネの視点があります。光と闇は、ヨハネが好んで用いてきたモチーフでした。
たとえ太陽が昇っていても、月明かりに照らされていても、それだけでは明るく出来ない世界があります。人の心です。それでも人は、自分の家柄、経験、理想を手に取り、それを松明やともし火にして、明るくしようと努力するのです。そんな誇りがなければ暗闇に呑み込まれそうになるからです。
ヨハネのメッセージです。1章4節以下、「言(キリスト)のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」3章19節以下、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。・・・悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れ、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。」8章12節、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」まだまだありますが、最後に、12章35節以下、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

今週も大切なことを大切に。

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