世にあって、世のものではない



大祭司であるイエスは「聖なる父よ、・・・御名によって彼らを守ってください。・・・わたしがお願いするのは、弟子たちを悪い者から守ってくださることです」と、くり返し弟子たちの保護を求めて祈りました。この日まで、イエスは彼らと共におられ、彼らを保護してきましたが、十字架と復活を経て、イエスが父のもとに帰る日が近づいていたからです。
ヨハネによる福音書17章には、「世」という言葉が16回も出て来ます。それは神を認めず、神に抵抗する勢力を指す言葉ですが、世はイエスを憎んだように、弟子たちを憎みます。そこでイエスは世に残して行く弟子たちの保護を求めたのです。ここで、素朴な疑問ですが、それならいっそのこと私たちも信じた瞬間、イエスと共に父のもとに行くことはできないでしょうか。多くの場合、それはできないようです。イエスはこう祈っておられます。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく(彼らには私に代わって、この世で果たさなければならない使命があるので)、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していいないのです。」ここに、世にあって、世のものではない(キリストにあって神のものである)クリスチャンの存在意義を見いだすことができるのです。
クリスチャンが陥りやすい2つの傾向があります。それは「純粋の孤立」と「妥協の埋没」です。前者は、信仰の純粋性を守ろうとする余り、いつのまにか周りから煙たがられて孤立してしまうことであり、後者は、この世と上手く付き合おうと妥協する余り、いつの間にかこの世に埋没してしまうことです。しかし、神の願いは、私たちがこの世から孤立するのでも、埋没するのでもなく、「地の塩」として「世の光」として、ある時は目立たず、ある時は大胆に生きることなのです。

今日は地域の先生方との集まりがありました。
今日から10月、今月も大切なことを大切に。

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