友と僕



イエスはぶどうの木の譬えによって語られた、弟子たちとの新しい愛の関係を、弟子たちを「友」と呼ぶことによって、さらに発展させました。聖書の中で、神から「友」と呼ばれてたのは信仰の父アブラハムです。イザヤ書41章8節に、「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ」とあるように、アブラハムの子孫である神の民イスラエルへの呼びかけの最後に、「わたしの愛する友アブラハム」とあります。
創世記18章で、ソドムの滅亡を食い止めようと、アブラハムが神の前に立って執り成す場面があるのを覚えていますか。「主は言われた。『わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。』」そう言って、神はアブラハムにご自分の計画、誰にも話せない秘密、痛みを打ち明けました。神は、「罪深いソドムの町を滅ぼすから見ていろ」と言われたのではなく、正義のためにそうせざるを得ない心の痛みをアブラハムだけに打ち明けられたのです。そこで彼は友のように神の痛みを理解し、「この町を滅ぼさないでください」と神の愛を代弁することができました。やがてモリヤの山でイサクをささげる行為によって、彼の時代までに許されている範囲で、彼は神の救いの全貌を理解することになりますが、その意味で、アブラハムは神の友と呼ばれます。
イエスは言われました。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているのか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と。
イエスの十字架と復活を前に、弟子たちはキリストの僕からキリストの友に立場を変えようとしていました。これまでは、イエスの思い、神のご計画を理解しないまま従っていましたが、この後、弟子たちは神の思いと救いのご計画の全貌を理解し、自分たちの使命に目覚め、キリストの友として、雄々しくその使命に挑戦していくのです。
ところで、偉大な使徒パウロは、自分のことをどのように認識していたでしょうか。ローマの信徒への手紙1章1節を見ると、パウロは自分のことを次のように名乗っています。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と。ここで「僕」と訳されているドューロスというギリシア語は、文字どおり奴隷という意味ですが、パウロが言いたかったことは、旧約のモーセやヨシュア、またダビデもそうであったように、それは自らの意思で主人(神)に従っている僕であり、主人の心を理解し行おうとしている僕ということです。
ですから、クリスチャンとは、矛盾することのない二重の自己認識を持っていることになります。神の視点からは、キリスト・イエスの友であり、人間の視点からは、キリスト・イエスの僕です。「罪人の頭、我さえも『友』と呼びたもう愛の深さよ」(聖歌519番)と主を賛美しましょう。
神の僕とはメシアの称号でもあり、イエスの生き方でもありました。イエスは言われました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、・・・自分の命を献げるため来たのである」と。

今週も大切なことを大切に。
玄関の小さな花壇、アンネのバラが咲き誇っています。

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