対話

台湾の集会で学んだいくつかのことがある。そのひとつは「対話」ということだ。滞在中、やはり難しく感じたのは言葉の壁。お互いの言葉が通じないというもどかしさだ。幸い漢字の文化ということで、文字にしてもらえると理解できる範囲が広がった。あとはたどたどしい英語や身振り手振りが、コミュニケーションの手段となる。その中で、卓老老牧師をはじめお年寄りの方々は、日本統治下で日本語教育を受けている方が多く、美しい日本語を使われる。言葉が通じることのありがたさを感じた。
帰国後、ある牧師からEメールをいただいた。「初めての海外宣教、お疲れさま。初めてと言うことは、二回目、三回目がるということです。これからの海外宣教に備えて、外国語で聖書を学ぶようにすればよいでしょう」と書かれていた。納得だ。やはり、これも言葉の問題。メッセージを準備する上でも、現地で使われている聖書にどう書かれているかを理解しておかなければ、どんなに説明しても通じないことがある。今回の反省点だ。
会話も、メッセージも通じなければ、お互いを理解したり、大切な真理を伝えることはできない。しかし、ある集会の中でこんな経験をした。私にとっては新しい悟りであった。神の御名が現される場面で「あなたと話をしている」(ヨハネ4:26)と語った時だ。時間や言語、感情や状況にかかわりなく、いやそれらすべての違いや背景をご存じの上で、「あなたと話をしている」と語り始められる対話する神の存在に触れたのだ。そして、その対話の究極は神がその名を名乗られるということであった。それは聖書が私たちに物語る、神との対話の極地である。
聖書によれば、人間の言葉はバベルの塔の事件によって乱されてしまった。しかし、神は時代を越え、国境を越え、身分を越え、いつも人間に語りかけられた。今も聖書を通して、神は私たちと対話される。だから、御言葉の前に心を静めなければならないのだ。神の声が聞こえてくる。「あなたと話をしているこのわたしである」と。
今日の写真は、台湾の熱き青年クリスチャンたちと共に。
2010年11月17日 (水) 16:32 | Posted by nagoyachurch