仕事



キング牧師が暗殺される半年ほど前に、フィラデルフィアで中学生に話しました。

もしあなたが道路を掃除する仕事に召されたのなら、
ミケランジェロが名画を描いたときのように、
ベートーベンが名曲を作曲したときのように、
シェークスピアがすばらしい詩を書いたときのように、
道路掃除をしなさい。
その仕事があまりにもすばらしいので、
天と地に住むすべての者たちが立ち止まってこう叫ぶようにしなさい。
「自分の仕事を忠実に成し遂げるすばらしい道路掃除夫がここにいる。」

今日も自分に与えられた仕事を誇りを持って、忠実に果たそう。

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恵老の日



敬老の日、おめでとうございます。

敬老の日は、1947年に兵庫県の小さな村で制定された「としよりの日」に由来しているとか。
お年寄りに対する尊敬の気持ちを大切にし、長寿を祝うことは聖書の教えでもあります。
敬うの代わりに恵みと書くと「恵老の日」になります。
老いを敬うのが敬老の日ですが、
生かされていることを感謝し、神の守りと祝福を覚えながら、
老いの恵みを祝うのが「恵老の日」であるという話しを聞き、うなずかされました。
高齢化社会と言われますが、敬老の日も、恵老の日も大切にしたいものです。

今週も大切なことを大切に。

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我らは四人であった



今回の葬儀で紹介した内村鑑三先生の言葉から。19歳の長女ルツ子さんを天に送った後に書いたという短い詩です。

我らは四人であった。
しかして今なお四人である。
戸籍帳簿に一人の名は消え
四角の食台の一方はむなしく
四部合唱の一部は欠けて
讃美の調子は乱されしといえども
しかも我らは今なお四人である。

我らは今なお四人である。
地の帳簿に一人の名は消えて
天の記録に一人の名はふえた。
三度の食事に空席はできたが
残る三人はより親しくなった。
彼女は今なお我らのうちにいる。
一人は三人を縛る愛の絆となった。

しかし我らはいつまでもかくあるのではない。
我らは後に又前の如く四人になるのである。
神のラッパの鳴り響く時
寝れる者が皆起き上がる時
主が再びこの地にきたり給う時
新しきエルサレムが天より降る時
我らは再び四人になるのである。

四人とは内村先生の家族構成を示しますが、私たちも先に天に召された方々に想いを馳せるとき、かつて一緒に過ごした人数を入れて読むことができます。内村先生は長女の眠る墓地のひと握りの土をつかんで「ルツ子さん、万歳」と叫んだと言います。それはやせ我慢でも強がりでも現実逃避でもなく、彼の信仰でした。
「わが国籍は天にある。」また会う日まで。

次の日曜日は6月のオープン礼拝になります。ぜひお出かけください。

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主の足もとに座り



昨日は、教会の婦人会(マリア会)のミニ修養会が半日のプログラムで持たれ、短いプログラムでしたが、参加されたみなさんが恵まれた顔で帰って行かれ感謝でした。
「マリアは良い方を選んだ」とのテーマで、私たちの継続仲代である日々のクリスチャン生活の底上げについて、聖書が示すマリアの姿から三つのことを教えていただきました。第一に、ルカ福音書の10章から、「マリアは主の足もとに座って」。主の足もとに座るとは、神との一致の生活。神の御顔を毎瞬間仰ぎ続ける霊的生活のことです。第二に、同じくルカ福音書の10章から、「その話に聞き入っていた」。これは御言葉に仕える生活。御言葉をむさぼり食べ、御言葉に生き、生かされる生活。第三に、マルコ福音書の14章から、「香油を・・・注ぎかけた」。これは神の御心、御計画を実現するために、全存在を主にささげ、自分のできるかぎりのことをする献身生活。この三つがマリアの選んだ「良い方」であり、彼女から取り去ってはならないと言われているものでした。
今週も主の足もとにとどまることを第一にできますように。今週も大切なことを大切に。

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プロは道具を大切にする。音楽家には楽器。料理人には鍋や包丁。イチローの活躍の背後にも、彼のバットを20年近く作り続けてきた専門職人がいるそうだ。多くの説教家にとっての道具。それは辞書であり、さまざまな書物であり、パソコンであり・・・・・・。しかし、多くの場合、あまりに身近すぎて気づかれず、ぞんざいな扱いを受けている道具がある。それは「声」である。・・・
「声」についての説教者必読書は、今なお竹内敏晴の『ことばがひら劈かれるとき』である。彼は言う。

「話しかけるということは、こえで相手のからだにふれること、相手とじかに向かいあい、一つになることにほかならない。・・・話しことばは、まずこえを発する衝動がからだの中に動かなければ生まれない。・・・話しことばは、まずなによりも他者への働きかけです。相手に届かせ、相手を変えること。・・・たんなる感情や意見の表出ではない。・・・われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだを劈こう、とする努力、それがこえであり、ことばであり、表現である、とこう言いたいのです。」

声は、説教原稿の文字を業務的に読み上げる道具ではない。説教者は肉体をもって、会衆の前に立つ。そして、福音に突き動かされ、肉体から湧き起こる声をもって、しかも福音の光の中で、ある願いを抱きつつ、声で聴き手にふれるのである。説教者は、その声をもって、相手を変えようとする。自分に起こった変化が、聴き手にも起こることを願いながら。
そして、その言葉が相手に届く瞬間、聴き手は動く。礼拝堂の空気が震える。


『説教を知るキーワード』という本を読んで、教えられることが多かった。使徒言行録の2章のペンテコステの朝の説教のように、聴く人のからだに触れるような声で説教ができるように祈る。

「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。・・・ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」アーメン。

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十字架とキリスト像



教会暦では次の日曜日が棕櫚の聖日で、その日からキリストの最後の一週間(受難週)が始まります。こんな話しを読みました。
2003年の8月、ニューヨークにあるホーリークロス教会に泥棒が入りました。泥棒は献金箱と十字架のキリスト像を盗んで行ったそうです。キリスト像は等身大のもので重さが100キロ以上あったのですが、泥棒はキリスト像を十字架から取り外し、十字架を残して、ご像だけを持って行きました。教会のスミス神父は「どうして泥棒が十字架を残し、キリスト像だけを持って行ったのか、私にはわからない。十字架像というものは、キリストと十字架が一つになって、はじめて意味のあるものだから」と語ったそうです。
もしかするとこれは泥棒の話ではないのかもしれません。キリストと十字架が一つであるように、私たちクリスチャンも十字架と一つです。私たちは、キリストを十字架から外して、キリストだけを手に入れようとしてはいないでしょうか。キリストの愛、恵み、祝福、癒しはいただくが、十字架は、試練は、苦難は、犠牲は要らない、そんな態度をとってはいないでしょうか。キリストは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

3月25日(日)棕櫚の聖日の礼拝・聖餐式。
4月1日(日)4月のオープン礼拝はイースター礼拝。進級式。礼拝に続き春の召天者記念礼拝。
教会学校のお楽しみ会も計画されています。

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イエスの御名は薬です



聖イエス会は、勤労感謝の日である11月23日を「健康感謝の日」と定め、一年の働きと健康を神に感謝します。アメリカやカナダでも、この時期に「収穫感謝祭(Thanksgiving)」が祝われます。清教徒たちがアメリカに渡り、最初の大地のみのりを神にささげたことが始まりだそうです。忙しい師走を迎える前に、一年をふり返り、神に感謝することは大切なことではないでしょうか。
12世紀のフランスに、クレルボーのベルナルドという聖人がいました。彼は「雅歌について説教」の中で、「イエスの御名は薬である」と教えています。日本は世界の製薬市場の4割を占めるというデータもあるようですが、ベルナルドが教える良薬とはどのようなものなのでしょうか。クレルボーの修院長の味わい深い文章です。

イエスの御名は薬でもあります。あなたたちのだれが悲しんでいるのですか。心のうちにイエスが入って来て、その口に出ますように。そうすれば、御名の光りが発するやいなや、すべての雲が消え、晴天が戻るのです。だれかが罪のうちに落ち込んでいるのですか。あるいは、それ以上に死の穴に絶望して落ち込もうとしているのですか。もしいのちの御名を呼ぶなら、すぐにいのちへと息を吹き返させられるのではないでしょうか。心のかなくなさ、惰弱の眠り、霊魂の恨み、不熱心の無気力が、救いの御名を前にして消えたのではなかったでしょうか。涙の泉がたとえ乾いていたとしても、イエスを呼び奉ることによって、急により豊かな涙があふれ出、より甘美に流れたのではなかったでしょうか。危険におびえ、震えている者で、力強い御名を呼んでただちに確信を与えられ、恐れを遠ざけられなかった者がいるでしょうか。疑いのうちに苛立ち、動揺していた者で、晴朗な御名を呼んで、たちまち確かさが輝き出なかった者があったかと私は尋ねます。逆境において自信を失い、あるいはすでに落胆していた者で、助けの御名が鳴り響いても、力がなかった者があったでしょうか。疑いもなくこれらは霊魂の病気と衰弱なのですが、イエスの御名は薬です。・・・
何ものもイエスの御名以外に怒りの激しさを抑え、傲慢のはれ物をへこませ、蒼白の傷を治し、邪淫の流れを制御し、欲望の炎を消し、貪欲の渇きをやわらげ、また、すべての焦りを追い払うものはありません。もし、私がイエスの御名を呼ぶならば、私は心の柔和で謙遜なお方、親切で、節度ある、純粋で、あわれみ深い、そして、結局すべての誠実さと聖性とにおいてきわだったお方、すなわち、その模範によって私を癒し、助けによって強めてくださる全能の主ご自身を私の前に置くのです。イエスの御名が響くや否やこれらのすべてが、同時に私に鳴り響くのです。こうして、私は人間イエスから模範を、権能を持ったお方から助けを受け取るのです。
(雅歌についての説教、第15説教、いかにイエスの御名がキリスト信者にとってあらゆる逆境においていやしの薬であるか。)

今週も大切なことを大切に。

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神の悲愛の息吹き



ある祈りの本から。

祈りと聖霊には深い関係があります。
聖霊。ギリシア語ではプニューマ。「風」とも「息」とも訳すことのできる味わい深い言葉です。
井上洋治神父は、「聖霊」を「神の悲愛の息吹き」と訳しました。
神が、悲しむまでも愛をもって、わたしたちに息吹を注いでくださっている、それが聖霊だというのです。
何というイメージ豊かな言葉でしょう。祈りの声を出すために息を吸い込むそのとき、わたしたちは神の息を吸い込んでいるのです。そして、祈りの声を出すそのとき、神の息と自分の息をひとつにしながら吐き出しているのです。
カトリック教会の伝統のなかには、一日のあいだ、幾度も同じ祈りの言葉を繰り返しながら生活する知恵があるそうです。「キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン」という短い祈りです(主よ、あわれみを、キリストよ、あわれみを、という意味です。)吸う息で「キリエ」と唱え、吐く息で「エレイソン」と唱える。そして再び吸う息で「クリステ」と唱え、吐く息で「エレイソン」と唱える。この伝統的な祈りは「キリエ」と呼ばれています。・・・
祈りは、手を組み、目を閉じ、頭を垂れて、という決まった姿勢で祈らなければならないものではありません。目を開いたまま、道を歩きながら、仕事をしながら、あるいは、満員電車のなかでも台所でも、祈ることはできます。そこにも「神の悲愛の息吹き」「神から来る風」が吹いているからです。

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むなしい器



秋の教区聖会の感動が礼拝堂に残っています。神の子の声が響き、いのちにあふれました聖会でした。
聖会の備えに用いられた「三無一体」の勧めと「むなしい器」というルターの祈りがあります。
いずれも自分が神の前にどのような存在であるかを問いかけ、その向こうにある神の恵みを求めています。

ごらんください、主よ、満たされる必要のあるむなしい器を。
わたしの主よ、どうかこの器を満たしてください。
わたしの信仰は弱いのです。どうか、強くしてください。
わたしの愛は冷え切っています。
わたしをあたため、わたしを熱し、
わたしの愛が隣人に届くようにしてください。
わたしには強く堅固な信仰が欠けています。
ときとして、わたしは疑い、
あなたをひたむきに信頼することができません。
ああ、主よ、どうか助けてください。
わたしの信仰を強め、あなたを信頼させてください。
わたしはあなたのうちに、わたしがもつ宝のすべてを置いています。
わたしは貧しく、あなたは富んでおられ、
貧しい者に対して恵み深くあられる方。
わたしは罪人であり、あなたは正しく、
わたしは罪にまみれ、あなたのうちには義が満ちあふれています。
ですからわたしはあなたとともにいたいのです。
わたしはあなたからいただくばかり、
あなたに差し上げるものはなにひとつありません。アーメン

宗教改革500年、改革者の祈りに心を合わせます。
今週も大切なことを大切に。

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私を変えた聖書



作家の三浦綾子さんが、『わが青春に出会った本』の中で、最後に『聖書』を取り上げ、「ここでひとこと断っておかねばならない重要なことがある」と、この本をまとめておられます。以下、三浦さんの言葉です。
「それは、私にとって聖書は、他の本と同列に置くことのできない書物だということである。私は(ヘッセの)『デミアン』だの、(ジイドの)『田園交響楽』だの、(漱石の)『三四郎』だのを紹介してきたが、これらの本の一冊として、この聖書があるのではない。これらの本は私の人生にとって、正に出会いとも言うべき性質を持ってはいるが、しかしこれらの本に出会わなければ、私の一生はちがっていたというわけではない。極端にいうと、どの本に出会わなくても、聖書に出会ったことで、私の人生は変わったと言える。聖書は、虚無的で絶望的な生活を送っていた私を、真の実在であるキリストの神の前に引き出してくれた。
キリストの愛が、私の罪を知らしめ、十字架のあがないによらなければ、私の罪は赦されないことを教えてくれた。そして、キリストが死んで三日目に甦ったことを知った。・・・虚無と絶望の日々は嘘のように過ぎ去り、・・・希望と平和の中に生きることができた。
このように私を変えたのは、聖書による信仰である。聖書のみが私に真の力を与えた本である。・・・私を変えたこの聖書が、多くの方の人生を、闇から光へ、不安から平安へ、絶望から希望へ変えてくれることを確信して、短い紹介を終えることにしたい。」
英語でThe Book(この本)と言えば、それは聖書のことです。本の中の本である聖書について、こんな話しを聞きました。「本」という漢字を逆さにすると何に見えるかというのです。想像できますか。まるで開いた本の真ん中に十字架が立っているように見えないでしょうか。聖書を開くと、そこに十字架が見えてくる、それは真理です。この真理が私たちを自由にするのです。

「灯火親しむべし」と言われますが、読書の秋に、聖書をじっくり、たっぷり読みたいものです。

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