イエス・キリストの涙



先週の土曜日、三重県志摩市阿児町にある聖イエス会テベリヤ教会の献堂30周年記念礼拝が持たれました。多くの方の祈りと協力に心から感謝します。ある方は、泊まりがけでチラシ配りに行ってくださいました。ある方は献金をささげてくださいました。ある方はお祝いのお花やメッセージを届けてくださいました。聖歌隊は賛美を歌いに出かけてくれました。Mさんの信友や名古屋教会ゆかりの皆さんも遠くからお祝いに駆け付けてくださいました。司牧をはじめ、中部教区ゆかりの先生方からたくさんの祝電をいただき、ほんとうに祈られ、愛されている教会だなあと思わされました。でも、一番感謝だったことは地元の方が大勢来てくださったことです。今回の記念礼拝のチラシで使った写真には、花かごに35個のバラが入っていました。Mさんはこの数だけ席が満たされるように祈り、教会の子どもたちにも「カゴがいっぱいになるように祈ってね」と声をかけていました。当日、「たくさんの人が来たね」と話していると、すかさず一人の子どもが「カゴの花より多かったよね」と言いました。Mさんの言葉を受け止め、祈ってくれていたのです。
メッセージは豊田教会の伊藤牧師が、この日のために祈り備えてくださった「イエス・キリストの涙」という印象的なテーマで語ってくださり、最後にスペインの美術館で実物を見たというエル・グレコの「十字架を背負うキリスト」という一枚の絵を紹介してくださり、大きな複製画を見せてくださいました。有名な絵なので、私も以前から知っている絵でしたが、その大きな複製画で見ると、確かにイエスの瞳に涙が光っているように見えて、感動を新たにしました。四苦八苦の人生、誰もが涙抜きでそれを語ることはできないのかも知れませんが、イエスの瞳に光る涙は、私たちの目から涙をぬぐうためのものだったと聞き、そこに集まっていたすべての人が胸を熱くしました。
ブログを読んで志摩にある小さな教会のために祈ってくださった皆さんにも感謝します。

今週も大切なことを大切に。

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井戸を隠しているからだよ。



渡辺和子先生の文章を紹介します。
サンテグジュペリの『星の王子さま』の中で、王子が砂漠に水を求めに行くところがあります。あてどもなく歩いてゆくと、月の光を受けて砂漠は美しい。王子が言います。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ。」人間もそうです。表面に現れない「井戸」を心の奥深くに持っている時、人は美しくなります。・・・
一人ひとりが自分の存在の奥深いところに一つの「聖所」とでも呼ぶべきものを持ち、年とともにたいせつに育ててゆくということなのです。そこは他の誰にも、親にも、配偶者にも、親友にも、恋人にも踏み込ませない自分の心の部分であるとともに、どんなに愛し、信頼した人から裏切られた時にも、逃れて自分を取り戻し、自分を立て直すことのできる場所です。騒がしい人混みの中でも孤独になれる場所であり、一人でいても淋しくない所以です。体のどの部分にあるかと尋ねられて指し示すことはできないけれども、一人で生まれ、一人で死んで行かなければならない人間が、その一生の間、自分らしく生きるためにどうしても必要な「場所」なのです。

素敵な文章です。ところで、砂漠はほんとうに美しいのでしょうか。砂漠の持つ美しさもあると思いますが、砂漠は本来厳しい世界です。渇ききった不毛の世界です。でも、ほんとうに大切なことは目に見えないということを教えられます。「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだよ」と。では、その井戸は、どこにあるのでしょう。イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む者は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」今日、心を静め、息を整え、御名を呼びつつ主を尋ねれば、私の内に神はおられる、神はおられる。聖なる御名が泉のように、心にあふれ流れ出るまで、心の井戸を掘り下げましょう。掘り下げましょう。ここに泉は湧く。
さあ、神の約束です。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。」

明日は志摩市阿児町にある聖イエス会テベリヤ教会の献堂30周年記念集会が持たれます。
祝福を祈りつつ。

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海嶺



愛知県知多郡の美浜町に小野浦と呼ばれる地区があります。日本で最初の和訳聖書の翻訳に協力した音吉、久吉のふるさとです。この二人に現在の名古屋市熱田区出身の岩吉が加わって、三人の「吉」ということで、「三吉」と呼ばれる若者たちによって、最初の日本語訳聖書が作られました。
経緯はこうです。天保三年(1832年)の秋、遠州沖で暴風に遭い、遭難した彼らは、難破船に乗ったまま1年2ヶ月をかけて太平洋を横断、命辛々カナダの沖合の小島に辿り着きます。やがてイギリス商船に拾われロンドンに、そしてついに日本をめざすことになりました。マカオまで戻って来た彼らは、そこでギュツラフという宣教師と出会い、聖書の和訳を手伝うことになります。そこで最初に和訳されたのが、いま私たちがシリーズで学んでいる『ヨハネによる福音書』でした。シンガポールで出版されたギュツラフ訳の聖書。「ハジマリニ、カシコイモノゴザル」で始まる1章1節は有名です。
先週の金曜日、日本聖書協会主催の聖書和訳頌徳記念式典というのが美浜町で持たれ、それに参加しました。今年は新しく建立された音吉像の除幕式があり、音吉の凛々しい姿に感動しました。音吉、久吉、岩吉の三人は、マカオで加わった四人の日本人漂流民と共に日本に向かいます。彼らが乗っていた船が歴史の授業で習うモリソン号事件のモリソン号でした。外国船の入国を認めない幕府はモリソン号を砲撃します。彼らは祖国を目の前にして、祖国に見捨てられてしまうのです。この出来事を題材にして書かれたのが、三浦綾子さんの「海嶺」で、彼らの数奇な運命をとおして、私たちをカシコイモノに導く長編です。
興味深いのは、最初に和訳された聖書箇所が、どうしてヨハネによる福音書だったのかということです。小説の中で、ある人がギュツラフに尋ねる場面があります。「なぜ、日本のためにヨハネ福音書を選ばれたのですか。マタイ伝やルカ伝の方が、訳すのが容易ではないですか。」彼は答えます。「確かにその通りかもしれません。しかし、3人と、マカオの寺院を巡った時、私は彼らがどこに行っても頭を下げることに気付いたのです。彼らは、何にでも手を合わせるのです。私はあの『知られざる神』に手を合わせる記事を思い出しました。(使徒言行録17章に記されている出来事です。)それで私は、キリストが神であることを確実に伝えるヨハネ伝を選んだのです。」
まさにこのギュツラフの気持ちはアテネのアレオパゴスの丘で説教したパウロの心でした。パウロは言いました。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」と。確かにヨハネ福音書は、教会が誕生して半世紀が経ち、キリストの教えと、偽りの教えとの狭間で、どこが違うのかを明らかにするという目的を込めて書かれました。そこで何よりも先ずキリストが神であることを彼は証ししたかったのです。真っ直ぐに、「ハジマリニ、カシコイモノゴザル。・・・カシコイモノ(キリスト)は神であった」と。
悩み多き人生という旅路、漂流生活もあります。思うように願うように行かない現実があります。信頼していたものから見捨てられるようなこともあるかも知れません。しかし、その旅の果てに、知られざる神ではなく、カシコイモノとの出会いがあるのです。

今週も大切なことを大切に。

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世にあって



「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」
有名な山上の説教の中でイエスは、「あなたがたは地の塩である。・・・ あなたがたは世の光である」と語られました。塩とは、溶け込むもの、見えなくなることで内側から味を変えていくものであり、光とは、誰にでも見えるものであり、外側に向かって拡散され周囲を照らすものです。イエスは私たちこそ、地の塩、世の光であると言われたのです。
パウロもこう言っています。「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、(ここです)世にあって星のように輝き、命の言をしっかりと保つでしょう。」なぜ「世にあって」なのでしょう。それはこの世でなければできない神の働きがあるからです。この地上でなければできない神の働きとは福音宣教の働きです。
キリストと共に十字架にかけられた犯罪人のことを覚えていますか。地獄行きが決まっていたようなあの男が、ただキリストの十字架を仰いだだけで、パラダイスを約束されたというあの物語です。福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。キリストの十字架を通して最初に救われたあの人はなんと幸いだったでしょう。しかし、彼のうちには一つだけ後悔があったように思います。すでに過去の過ちは赦されていました。感謝しかありません。でも、自分の口でその驚くべき神の恵みを伝えることができなかったという後悔です。天国に行ったら伝道しようと思っている人があるなら、それは愚かなことです。天国に行ってだれに伝道するというのでしょう。主を証しし、滅び行く魂が救われる喜びは、世にあるクリスチャンの特権です。そして、私たちにはまだそれができるのです。
秋期聖会でイザヤ書12章4節から、宣教の3つの基本的ステップについて教わりました。もう一度、チャレンジ!祈りと宣教です。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、もろもろの民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。」

次の日曜日は10月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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世にあって、世のものではない



大祭司であるイエスは「聖なる父よ、・・・御名によって彼らを守ってください。・・・わたしがお願いするのは、弟子たちを悪い者から守ってくださることです」と、くり返し弟子たちの保護を求めて祈りました。この日まで、イエスは彼らと共におられ、彼らを保護してきましたが、十字架と復活を経て、イエスが父のもとに帰る日が近づいていたからです。
ヨハネによる福音書17章には、「世」という言葉が16回も出て来ます。それは神を認めず、神に抵抗する勢力を指す言葉ですが、世はイエスを憎んだように、弟子たちを憎みます。そこでイエスは世に残して行く弟子たちの保護を求めたのです。ここで、素朴な疑問ですが、それならいっそのこと私たちも信じた瞬間、イエスと共に父のもとに行くことはできないでしょうか。多くの場合、それはできないようです。イエスはこう祈っておられます。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく(彼らには私に代わって、この世で果たさなければならない使命があるので)、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していいないのです。」ここに、世にあって、世のものではない(キリストにあって神のものである)クリスチャンの存在意義を見いだすことができるのです。
クリスチャンが陥りやすい2つの傾向があります。それは「純粋の孤立」と「妥協の埋没」です。前者は、信仰の純粋性を守ろうとする余り、いつのまにか周りから煙たがられて孤立してしまうことであり、後者は、この世と上手く付き合おうと妥協する余り、いつの間にかこの世に埋没してしまうことです。しかし、神の願いは、私たちがこの世から孤立するのでも、埋没するのでもなく、「地の塩」として「世の光」として、ある時は目立たず、ある時は大胆に生きることなのです。

今日は地域の先生方との集まりがありました。
今日から10月、今月も大切なことを大切に。

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keep on speaking



アメリカの宣教師ボブ・ピアスが、上海の宣教団体本部に泊まっていた時のことです。夜中に、同じ部屋に泊まっていた宣教師が、毛布にくるまって、声を殺して泣いているのに気がつきました。訳を尋ねると彼は答えました。
「私と妻はチベット国境で伝道していました。14年目に一人の受洗者が与えられました。21年目の今日は、8人の信者が与えられています。ところが、娘がハンセン氏病となってしまったので、妻と娘を国に帰すことになりました。明日は一人で、チベットに帰らなければなりません。」ピアスは「あなたは21年も国に帰っておられないのですか。すぐ小切手を書きますから、あなたもお帰りなさい」と言いましたが、彼はこう答えたのです。「いいえ先生、私は妻や娘との別れが辛くて泣いているのではありません。実は今、茨の冠をかぶった主イエスが、私の夢に現れて言われたのです。『さあ兄弟、明日は一緒にチベットに帰ろう。私と一緒にチベットに行ってくれるのは、お前だけなのだよ』と。私は我慢が出来なくなり泣いてしまったのです。」ピアスは感動し、ともに手を取って泣きながら、主を賛美し、祈り合ったというのです。
ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われました。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。・・・この町には、わたしの民が大勢いるからだ」と。「恐れるな」と言われている以上、パウロのうちには恐れがあったということです。事実、その頃のパウロは、アテネでのほろ苦い経験のために、意気消沈し、恐れに取り付かれ、ひどく不安であったと、手紙に記しています。百戦錬磨のパウロにも、言葉を失い、うなだれるような夜があったのです。しかし、主は言われました。「語り続けよ(keep on speaking)、わたしがあなたと共にいる」と。
旧約聖書を開けば、偉大な預言者たちの声が聞こえてきます。彼らは主の言葉を預かって語りました。みんなが弁の立つ人たちだったのではありませんでした。口の重い人も、語るべき言葉を持たない人もいました。その代表がモーセであり、エレミヤです。「私は口が重いのです。・・・私は若く経験がないのです。・・・何も話せません。・・・」と、彼らは断固主張しました。しかし、主はモーセに言われたのです。「わたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう」と。そこでエレミヤは言いました。「主の言葉がわたしの心のうちで、燃えさかる火のようで、もうしまっておくことができません」と。
主の声が響きます。「この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい。」「わたしがあなたと共にいる。」
もう一度、チャレンジ!祈りと宣教です。

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彼らのためにお願いします



昨日の礼拝で秋期聖会のメッセージをシェアしましたが、少しだけヨハネ福音書の17章から、「イエスの祈り」の続きを学びました。9節から、「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。・・・」前回、6節から8節まで学びましたが、そこで語られていたことは、イエスの弟子たちに対する信頼と、彼らの将来に対する確信が言葉の端々に滲み出ているということでした。弟子たちは、この時点でまだ、イエスの御言葉を守ったわけでも、イエスの働きの全貌を理解したわけでも、イエスを神から遣わされた方と100%信じていたわけでもありませんでした。実際に、数時間後には、イエスを置き去りにしていなくなっていく弟子たちです。にも関わらず、イエスは、「彼らは御言葉を守りました。・・・彼は知っています。・・・彼らはそれを受け入れ、・・・本当に知り、・・・信じています」と言われたのです。
9節以下も同じです。イエスは弟子たちが、やがて自分を裏切っていなくなってしまうことを承知のうえで、「彼らのためにお願いします。・・・わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」とくり返し嘆願し、11節で「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈ってくださったのです。
「御名によって守ってください」とは、御名の中にお守りくださいという意味です。弟子たち一人一人のうちに与えられるイエスの御名、つまり神の現存の中で、彼らを守ってくださいと祈られたのです。これはなんという愛ではないでしょうか。本当に無知で、自分勝手なことばかりして、何の役にも立たない弟子たちを、イエスはとことんまで愛し、信頼されたのです。イエスは弟子たちの情けない、不甲斐ない姿の向こうに、もう一つの事実を見ていたのです。それが10節の後半、「わたしは彼らによって栄光を受けました」との言葉です。イエスは確かに見ていたのです。弟子たちの祈りと宣教によって、福音が全世界に広げられ、神の国の建設が力強く進められていくのを。私たちも同じです。私たちの今ある姿に関わりなく、イエスは今日も「彼らのためにお願いします」と父なる神に対して祈り続けていてくださるのです。

今週も大切なことを大切に。

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御名をあがめた人



「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。」
御名を現すこと、これがイエスの仕事でした。聖書の中で、神の名は、神の本質、神の存在そのものをを示します。ですから、第一義的に、「御名を現しました」とは、目に見えない神の存在と栄光をだれの目にも見えるように映し出したということです。さらに、もう一つの意味は、イエスが実際に神の名を名乗って、神の現存とその力を現されたということです。
ヨハネほど御名をあがめた人はほかにいません。聖書の中で明らかにされている神の12の御名の内、8つはヨハネが記したものです。それは、ヨハネの心という畑に、イエスが蒔かれた神の種でした。
ヨハネ福音書1章1節、「言は神なり。」「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」「この言に命があった。」「言は神なり。」
ヨハネ福音書6章35節、「われは命のパンなり。」「主よ、私たちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」イエスは言われた。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」「見よ、わたしは天から降って来た命のパンである。」「われは命のパンなり。」
ヨハネ福音書8章12節、「われは世の光なり。」「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」「われは世の光なり。」
ヨハネ福音書11章25節、「われは復活なり、命なり。」「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」「もし信じるなら、神の栄光を見る。」「われは復活なり、命なり。」
ヨハネ福音書14章6節、「われは道なり、真理なり、命なり。」「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」「わたしは道であり、真理であり、命である。」「わたしを見た者は、父を見たのだ。」「わたしと父とは一つである。」「われは道なり、真理なり、命なり。」
ヨハネの手紙一4章16節、「神は愛なり。」「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」「わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」「神は愛なり。」
ヨハネは黙示録においても、御名をあがめています。黙示録22章13節、「われは始めなり、終わりなり。」「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」「われは始めなり、終わりなり。」
同じく黙示録22章16節、「われは輝ける明けの明星なり。」「事はすでに成就した。」「もはや、呪われるものは何一つない。・・・神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎみる。彼らの額には、神の名が記されている。」「見よ、わたしはすぐに来る。わたしはダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」「われは輝ける明けの明星なり。」

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ほかの計画はない



ヨハネによる福音書17章、大祭司であるイエスの祈り、8節までが、イエス自身のための祈りで、9節から弟子たちのための祈りに移りますが、6節から8節までは、ちょうどつなぎのような部分です。イエスはここで弟子たちとの関係について語りながら、御自分がなさった仕事をひと言で要約し、続いて弟子たちのための祈りに入っていかれます。
弟子たちとの関係というのは、父の選びと彼らの将来に関することです。
この箇所全体にには(この章全体と言っても良いかも知れませんが)、弟子たちに対する信頼と、彼らの将来に対する確信がイエスの言葉の端々に滲み出ています。弟子たちは、この時点でまだ、イエスの御言葉を守ったわけでも、イエスの働きの全貌を理解したわけでも、イエスを神から遣わされた方と100%信じていたわけでもありません。実際には、この数時間後に、イエスを置き去りにしていなくなっていく弟子たちです。にも関わらず、イエスは、彼らの将来を予見しているかのように、「彼らは御言葉を守りました。・・・彼は知っています。・・・彼らはそれを受け入れ、・・・本当に知り、・・・信じています」と言われたのです。
イエスには神への揺るぎない信頼と共に、神が選び与えてくれた弟子たちへの信頼があったのです。この弟子たちへのイエスの信頼は、この後、弟子たちの宣教を通して、イエスを信じるようになるすべての者(私たち)に対する信頼でもあります。
S.D.ゴードンが書いた創作ですが、キリストが天にお帰りになったとき、大天使ガブリエルとの間で交わされた興味深い会話があります。ガブリエルがイエスに話しかけます。「主よ、あなたは下界の人間たちのために、ひどく苦しまれたことでしょうね。」「その通りだよ。」「それでは、人間たちはみんな、あなたが自分たちをどれほど愛され、自分たちのために何をなされたか、よくわかったことでしょうね。」「いや、そうじゃない。まだわかっていない。今は、ほんのわずかな人だけがわかっているのみだ。」「では、すべての人にそれを知らせるために、あなたはどうなさるのですか。」「私は、ペトロやヨハネやほかの人々に、私の証人となるように依頼した。彼らは、地の果てまで私を伝えてくれるだろう。」「しかし、主よ、彼らが疲れてきたらどうするのですか。もし21世紀の人々があなたのことをだれにも伝えなくなったら、どうするのですか。何かほかの計画を用紙しておられるのですか。」「いや、私にはほかの計画はない。もし彼らが失敗したら、ほかに方法はない。」
これはゴードンの創作ですが、この話しを初めて聞いた時、私の心は震えました。今の今まで神のために何もしないで立っていた私のような者も、イエスは神のぶどう園に招いておられるのです。のこり時間はわずかかも知れませんが、夢中になって働かせていただこうではありませんか。
「収穫は多いのに、働き手が少ない。」「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために(神の栄光のために)働きなさい。」

今週も大切なことを大切に。

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人生で一番大事な日



1枚の絵があります。十字架の死を前にキリストが輝いている姿を描いたものです。これは、ヤン・スティカ(Jan Styka)という画家が描いた壮大なパノラマ絵の一部を切り取ったものです。この絵は、ロサンゼルスにあるフォレスト・ローン記念公園(公園と言っても、ウォルト・ディズニーやマイケル・ジャクソンなど多くの著名人が眠っている墓地)のミュージアムに掲げられています。
イエスは十字架の前夜、こう祈られました。「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい」と。イエスはいつも輝いていました。それはイエスが父なる神から行うようにと与えられた自分の使命を知り、それを行っていたからです。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げ、地上であなたの栄光を現しました」とあるとおりです。
『トム・ソーヤーの冒険』を書いたマーク・トウェインがこんな言葉を残しています。「人生で一番大事な日は2日ある。生まれた日と、なぜ生まれたかを分かった日だ。」イエスは自分がベツレヘムの馬小屋で生まれた日を知っていました。そして、自分が何のために生まれてきたのかを知っていました。神の御心を実現し、全人類の永遠の命を与える救いを完成すること、たとえそれが十字架にかかり死ぬことであっても、そこに向かって、それを成し遂げようとしたから、イエスは輝いて生きることができたのです。
あなたは自分が生まれてきた日を知っていますか? あなたは何のために生まれてきたのかを知っています?
私たちもイエスと共に輝いて生きることができます。イエス・キリストが私たちに与えてくださる永遠の命とは何だったでしょう。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」永遠の命とは、この肉体を持って、いつまでも生き続けるということではありません。イエス・キリストと出会い、この方を体験的に知ることです。そして、この方と出会う時、私たちは何のために生まれてきたのか、何のために生かされているのかを知り、永遠の命に輝いて生きる、ほんとうの自分になることができるのです。

北海道のために祈っています。

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