ローマの法廷へ



最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で捕らえられたイエスに対する裁判が続きます。イエスの裁判については、四福音書を総合的に見ると、その詳細がわかります。繰り返しますが、イエスは、ゲッセマネでの逮捕後、翌朝までに、少なくとも6回の審問を受けていることがわかります。ユダヤ人による宗教裁判が3回、ローマによる政治裁判が3回です。
まず、ヨハネだけが記す、大祭司カイアファのしゅうとアンナスによる予備審問。彼は元大祭司で陰の権力者でした。その後、時の大祭司カイアファの屋敷で、最高法院のメンバーを招集して行われた深夜の裁判。この裁判は明らかに非合法なものでした。規定によれば、最高法院の裁判は、神殿内の「裁きの部屋」で行われることになっており、朝のいけにえが捧げられる午前9時よりも前に、行ってはならないことになっていたからです。それから、ヨハネ福音書には記されていませんが、少し時間をおいて、夜明けを待って再び開かれた最高法院で、イエスの死が結審します。これは深夜に行われた審議を少しでも正当化するための形式的な集まりにすぎませんでした。
ヨハネには、「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった」と記されているだけですが、他の3つの福音書は「夜が明けると」という共通のキーワードを用いて、祭司長、長老、律法学者たち、つまり最高法院全体でイエスを殺そうと相談した後、イエスを縛って総督ピラトに渡したということが書かれています。このようにして、法廷は宗教裁判から政治裁判へと移っていきます。ではなぜピラトのもとに連れて行く必要があったのでしょうか。イエスを死刑にするためには、ローマの許可を必要としたからです。それは、イエスの死のほんの少し前のことだったようですが、ユダヤの最高法院は、死刑執行権をローマに剥奪されていたのです。ここに歴史の不思議な巡り合わせがあります。あるいは、神のご計画があると言った方がよいでしょうか。
もしユダヤの最高法院に死刑執行権があったとしたら、どうなっていたでしょう。イエスはまちがいなく、石打の刑で処刑されていました。もしイエスが石打の刑で死んでいたとするなら、イエスの死は贖罪の死とはなり得なかったのです。なぜなら、その死が贖罪の死となるためには、二つの条件が満たされる必要があったからです。イエスの死が、過越祭の期間の死であることと、木に架けられた呪いの死であることです。
もう少しヨハネ福音書を見ておきましょう。「しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。」彼らは、異邦人の家に入ると宗教的に汚れてしまうという、言い伝えに過ぎない掟に縛られ、総督官邸に入ろうとはしませんでした。過越の食事ができなくなると困るという理由です。彼らは、このような細かい掟を守ることを大事にしながら、愚かにも神から遣わされたメシア、神の御子を殺すという大罪を犯そうとしていることに気が付きませんでした。

今週は受難週です。今週も大切なことを大切に。

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鶏鳴



ヨハネは、最高法院による宗教裁判と並行して起きたペトロの否認を、アンナスによる予審をはさむ形で、2ヶ所に分けて記しています。初めに第1の否認だけを記しましたが、続く箇所に第2、第3の否認が記されています。
ちょうど今頃の季節、花冷えのする夜でした。大祭司の屋敷の中庭で、そこに集まっていた人たちに紛れ、火に当たっているペトロに突然、声がかかりました。「お前もあの男の弟子の一人ではないか。」ペトロは前の時よりも語気を強め、その声を打ち消して「違う」と否定しました。それから、少し時間をおいて、「大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者」が来て、「園であの男と一緒にいるのを、私に見られたではないか」と言いました。
ゲッセマネの園での騒動を覚えているでしょうか。イエスが捕らえられようとする中、ただ一人、ペトロだけが剣を振るって立ち向かいました。そして、大祭司の下役に怪我をさせてしまったのです。その下役の名はマルコスであったと、名前まで記録されていたのは、ペトロの否認の伏線でした。「お前、あの現場にいただろう。俺は見ていたんだよ。」絶体絶命、もう逃げられません。それでも、ペトロはその声を再び打ち消しました。
ヨハネはその時のペトロの発言をあえて記さず、その後のペトロの立ち直りに関しては、復活の後の出来事として感動的に描いていますが、ルカ福音書のカメラは、この時のワンシーンをまるで一枚の写真に収めるかのように切り抜いています。それは彼が3度目にイエスを知らないと言い、鶏が鳴き出した瞬間でした。ルカ福音書22章61節、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」
このルカの証言に従うなら、鶏の声と最後の晩餐の席で語られたイエスの言葉を結びつけたのは、イエスの愛にあふれる眼差しでした。ペトロは、「今日、鶏が鳴くまでに、三度私を知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。深夜に鳴り響いた鶏の声も、イエスの眼差しも、神がペトロを眠りから目覚めさせ、もう一度はじめからやり直させるために備えられた神の恵みだったのです。
今日の写真は鶏鳴教会(ペトロの否認の現場、カイアファの屋敷跡に立つ記念教会)の尖塔に立つ十字架です。私たちの心を呼びさます声が聞こえますように。

次の日曜日は教会暦で棕櫚の聖日。キリストの最期の一週間(受難週)が始まります。

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挫折のすすめ



新年度がスタートしました。名古屋教会も実習生を迎えての一年がスタートし、私個人としても今月から新しいチャレンジが始まっています。期待と不安の中で、この季節に毎年のようにお伝えしているメッセージは、渡辺和子シスターの本で有名になった「置かれた場所で咲きなさい」との言葉です。
この言葉は、次のように続きます。「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに行き、周囲の人々も幸せにすることによって、神が、あなたをここにお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです。」境遇を選ぶことはできませんが、生き方を選ぶことはできます。どんな所に置かれても、花を咲かせる心を持ち続けることができれば幸いです。
渡辺和子先生の書物に、「挫折のすすめ」という話しがありますので、少し紹介したいと思います。
「毎年四月に入学してくる学生たちの中には、この大学を第一志望としていなかった人も何人か必ずいて、私は「仕方なく入って来た」とわかる学生たちの顔を見ながら考えます。人生は、いつもいつも第一志望ばかり叶えられるものではありません。そして必ずしも、第一志望の道を歩むことだけが、自分にとって最良と言えないことだってあるのです。
これは、私自身が今まで何回か、第二志望を余儀なくされて思うことです。
まず、小学校。・・・」という話しから始まって、大学受験、修道会入会の話しが続きます。
ほんとうはそこに入りたいと願っていた修道会があったのですが、間際になって断られます。理由は、当時29歳で、年を取り過ぎていると判断されたことと、口紅を付け、ピンクや赤のセータを着て、派手な生活をしていると思われたためだったそうです。修道会入りが遅れたのは、年を取ったお母さまのそばにいてあげたかったこと、また医学部に進んだお兄さまの卒業と結婚をサポートするためだったのですが、残念ながら入会は叶いませんでした。
その後、ある方の勧めで、まったく見も知らぬノートルダム修道女会の門を叩くことになりました。シスターの言葉です。「第一志望ばかりが自分にとって最良とは限らない。挫折したからこそ出会えるものがある。挫折は自分を鍛え、きっと成長させてくれる。」
新年度のスタートに「挫折のすすめ」はふさわしくないでしょうか。でもきっと、これから何度も挫けそうになる私たちにとって、この季節にこそ必要な勧めなのだと思います。聖書にもこう書かれています。「わたしたちは知っています。苦難は(挫折は)忍耐を、忍耐は練達を(磨かれた品性を)、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことが(失望させることが)ありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

今日は地域の先生方との集まりが持たれました。若い先生方を迎え、こちらも新しいスタートです。
初心に帰って、今週も大切なことを大切に。

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お前は神の子、メシアなのか。



イエスを十字架に付けるための裁判が始まりました。ヨハネ福音書だけが伝える、時の権力者アンナスによる予備審問において、彼はイエスに、弟子のことと教えのことについて尋ねましたが、イエスは弟子のことについては一切語らりませんでした。弟子たちを守るためです。教えに関する質問については、どうだったでしょう。イエスは、こう答えています。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている」と。
すると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言い、平手でイエスを打ちました。ここにこの裁判の不当性が露わにされています。当時のユダヤの司法制度は非常にレベルが高く、冤罪を招かないように被告人を保護するシステムが確立されていました。被告人を告発する際に、証言者を立てるのは告発する側の責任であり、イエスの側にはなかったのです。また、その尋問が、その人の教えに関することであれば、告発者は自らの責任において証人を立てる必要がありました。ですから、何を教えたかを、教えた本人である被告人に問うべきではなかったのです。実際、アンナスはイエスの言葉に何も言い返せないでいましたが、その困惑した表情を見て、一人の下役がイエスを平手で打ちました。イエスはその暴力にも、「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」と抗議しています。それは下役に対してだけではなく、それを容認しているアンナスへの抗議でもありました。
結局、アンナスは沈黙のまま、イエスをカイアファのもとに送ります。ヨハネは、カイアファの尋問に関しては何も触れず、裁きはピラトの法廷に移されますので、カメラを切り替えて、カイアファの法廷も確認しておきましょう。マタイのカメラです。
イエスはアンナスのもとから大祭司カイアファの屋敷に連行され、深夜の非合法な裁判を受けられます。過越祭の特別な夜、深夜にも関わらず、手回しよく集められた最高法院のメンバーの前に、やつれ果てたイエスが立たせられました。それは異例中の異例であって、ただ冒瀆の罪を立証し、イエスに死刑を言い渡すための集まりに過ぎませんでした。
この席で、嘘で塗り固められた証言が次々となされますが、イエスは再び沈黙を貫き何も答えませんでしたが、どの証言も食い違いを見せ、イエスを追い詰めるには至りませんでした。そこで、しびれを切らせたカイアファが、一芝居を演じ、時の大祭司として、神の名によって証言することを命じます。この命令が出されれば、黙秘権を行使することができなくなるのです。マタイ26章63節、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
イエスは口を開き、こう証言しました。「それは、あなたが言ったことです。」マルコの福音書を見ると「そうです」となっていますが、口語訳聖書がギリシャ語をそのまま訳しています。「わたしがそれである。」これはギリシャ語の「エゴ・エイミ」で、ヘブライ語の「アニーフー」に相当する神が自己啓示されるときの特別な表現なのです。また言われました。「わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子(わたし)が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」と。これが「お前は神の子、メシアなのか」との大祭司の尋問に対するイエスの答えでした。
イエスはこの答えによって、自分に死罪が宣告されることは百も承知でしたが、イエスはその証言にその命をかけられたのです。それは、イエスを神の子、メシアと信じる者に永遠のいのちが与えられるためでした。
イエスからこの証言を引き出した大祭司は、内心、ほくそ笑んだことでしょう。彼はそれを表情には出さず、着物を引き裂きながら言いました。「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた」と。人々は一斉に「死刑にすべきだ」と答えました。
今、私たちはこの歴史を変える裁きの座に立っています。「イエスは神の子、メシアなのか。」これには真偽二通りの答えしかありません。イエスが「アニーフー」と言われるとき、それが事実か嘘か。もし嘘であれば、イエスは冒瀆罪で死に価します。しかし、もし事実であれば、イエスを拒否した者が重大な冒瀆罪を犯すことになるのです。
イエスは私たちをその罪から贖うために、裁きの座に立ち、「アニーフー」と神性の証言にいのちをかけてくださいました。「アニーフー」と言われる方が、私たちの罪の身代わりとなり、その命を投げ出してくださったのです。

4月になりました。教会近くの公園の桜も満開です。
次の日曜日は、4月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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毎瞬間



京都の聖会で、Z教授が語られた「祈りと歌」とのメッセージは示唆に富んだものでした。
冒頭、詩編96編を読まれた教授は、詩編には96編以外にも、5つ「新しい歌を歌え」との呼びかけで始まる詩編があるが、果たして私たちに「新しい歌」が必要なのか。今までに知られている歌では十分ではないのか、との問題提起をされ、私たちのうちにある新しいものへの渇望について語られました。「私たちが日々、くり返し唱える定められた祈りが、その祈りの意義を深く考えることの妨げとなることがある。つまり、私たちの唇は動いていても、私たちの頭と心はそこになく、祈りが祈りになっていないことがある」と。そして、詩編87編のミドラッシュ(ユダヤの聖書注解)が引用されました。「井戸が毎瞬間新しい水を湧き上がらせるように、イスラエルは毎瞬間新しい歌を唱える。」
ミドラッシュとは、「捜し求める」という意味ですが、ユダヤ教の聖書注解法の一つで、行間を読むように、神の秘められた思いを捜し求めるものです。ここでは、新しい歌が、湧き上がり、流れている水にたとえられていることがわかります。
教授は「新しい歌」について、古いものを否定することではなく、祈りと賛美において、一旦立ち止まり、今までわからなかった言葉の意味を、新たな状況において自分と結びつけ、それを新しい歌、祈りにすることが大切なのだと教えてくださいました。
私たちの祈りと歌が習慣惰性に陥らないように、井戸が毎瞬間新しい水を湧き上がらせるように、神との新しい出会い日々を求めたいと思います。先ほどミドラッシュで紹介した詩編87編7節を聖書で確認しましょう。「 歌う者も躍る者も共に言う。『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」
エレミヤ哀歌3章22節、「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」
「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」「さあ、我々は主のもとに帰ろう。」毎瞬間、毎瞬間・・・。

今週も大切なことを大切に。

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沈黙のキリスト



アンナスによる予備審問が始まります。イエスの時代、最高法院の法規においては、正式に弁論を重ね、尋問と判決との間に一日を置くことになっていましたが、その夜、一切の法規は無視され、一気にイエスの死が決定されていきます。彼らは被告であるイエスのために、正当な証人を立てず、弁護人さえ出廷させずに、一方的に罪を告発し、一刻も早くイエスを処刑しようと計りました。
アンナスは予審において、「弟子たちのことやイエスの教えのこと」について尋問しました。彼はこの二点からイエスを罪人として決定する材料を得ようとしましたが、イエスは第一の問いには何も答えず、自分を売った弟子や、逃げ去った弟子たちを思い、沈黙を守られました。『十字架の黙想』にはこう記されています。
「わたしたちも、人のことについて語るとき、慎重でなければならない。ことに、その人の名誉にならないことについては、沈黙を守るべきことを、主は教えられた。愛は罪を覆うのである。
人は他人の欠点や秘密については、針小棒大に言いふらしやすい。これは、人間の自然性の弱さである。聖書にも、『もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である』と記されている。
霊的生活において、沈黙のしめる位置は高く、完徳を達成するためにきわめて重要である。真に、主との一致を望むなら、沈黙、黙想の人とならねばならない。多弁で、冗談を好む人は、例外なく心が散漫で、非霊的な人である。自分の心の動きに注意せず、沈黙を守らない人は聖寵を失う。霊的生活は、まず沈黙より始まり、黙想うちに完成されねばならない」と。
2月の祈祷会で、家内が自分の原点ということで、この『十字架の黙想』の箇所を引用し、沈黙のキリストとの出会いについて、イザヤ書42章を開きました。イザヤ書42章19節以下、「わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど、耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど、目の見えない者があろうか。多くことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない。」
沈黙のキリストは、何も知らないのではなく、何も見えず、何も聞こえなかったのではなく、すべてをご存知でありながら、私たちの無知蒙昧をあがなうために、沈黙を貫かれたのです。「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」のです。ペトロも言います。「『その方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」と。
あなたは沈黙のキリストにもう出会いましたか?

次の日曜日は3月最後の礼拝。来週には新元号も発表されます。
新シーズン到来です。

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植えられた場所



「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 」
神の選びはほんとうに不思議です。パウロは、その晩年「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」と書簡に記しています。
私たちは、この神の永遠の愛による選びがよくわかっていません。キリストが語られた「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉を、詳訳聖書では「私があなたたちを選んだ<植えた>のである」と訳していました。Bloom where God has planted you.(神が植えられたところで咲きなさい)です。カトリックのシスター渡辺和子先生は、「咲く(実を結ぶ)ということは、仕方がないと諦めるのでなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と言っています。新しいシーズンが始まります。神の選びに感謝し、置かれた場所、植えられた場所で、豊かな実を結ばせていただければ感謝です。

この春、教会でもプライベートでも、小さな変化が生じていますが、植えられた場所で、神の選びに応えさせていただきたいです。

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英雄であったから



ヨハネが伝えるペトロの第1の否認の箇所に、バークレーは「英雄と臆病者」というタイトルを付けて、次のような解説をしています。

こうしてペトロは、大祭司の庭で主を否んだ。ペトロほど説教者や注解者たちによって、不当に取り扱われてきた弟子はいない。この物語で強調されることは、いつでもペトロのしくじり、ペトロの恥である。だが私たちが忘れてはならないことがいくつかある。他の弟子たちは、ヨハネを除いて、イエスを見捨てて逃げて行った。ペトロのしたことを考えて見よ。ゲッセマネの園で、敵を向こうに回し剣を抜いたのは彼だけであった。彼は勇敢な弟子であった。他の者がみな逃げ去ってもイエスの近くにいたその勇気。
ペトロについてもっと注目されて良いのは、彼のしくじりが、この上ない勇気を持った男にしてはじめて起こり得たしくじりであった、という点である。たしかに、ペトロは失敗した。だか彼は、他の弟子たちならあえて直面しようとさえしなかった状況の中で、失敗したのである。彼が失敗したのは、彼が臆病者だったからではなく、彼が英雄であったからである。
…おそらく、否認の物語は程なく知れわったことであろう。伝説に寄れば、ペトロが通ると人々が鶏の鳴き声を真似たというのは、おそらくほんとうであろう。ペトロは自分を償うこと、すなわち失敗から出発して真の偉大さに到達するための(英雄になるための)勇気とねばりを持っていた。
問題の核心は、二階部屋で忠誠を誓ったのが真実のペトロだったということである。ゲッセマネの園の月明かりの中で、ひとり剣を抜いたのが真実のペトロだったということである。自分の主を残して去ることができず、遠くからでもイエスに従ったのが真実のペトロだったということである。緊張に押しひしがれ、主を否認したのは、真実のペトロではなかった。そして、それがまさにイエスの理解するところであった。
イエスについて目を見はらざるを得ないことは、失敗だらけの私たちの奥底に、真実の私を見てくださることである。イエスが私たちを愛してくださるのは、私たちの現状のゆえではなく、可能性として私たちが持っているもののためである。イエスのゆるしと愛はどこまでも大きい。

ルカのカメラは、ペトロが三度主を否んだ後の一瞬を捉えて、こう伝えています。「主は振り向いてペトロを見つめられた」と。イエスの眼差しは、あの日と少しも変わっていませんでした。ヨハネ1章42節、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(ペトロ)と呼ぶことにする。』」
イエスは今日もほんとうのあなたを、あなたのうちにいる英雄を見ておられます。

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愛が冷めると



ゲッセマネでの逮捕の後、イエスはアンナスのもとに連行されました。大祭司の官邸の一室と考えるのが自然のように思います。ヨハネはアンナスによる予備審問と並行して、よく知られたペトロの否認を2箇所に分けて記録しました。前半は、第1の否認だけが記されています。ペトロともう一人の弟子とは、師を捨てて逃げ出した自分たちの行為を恥じ、引き返して、イエスに従いました。このもう一人の弟子とは、伝統的にヨハネ自身と考えられています。彼は大祭司の知り合いだったので、屋敷の中庭に入って行くことができたということが記されていますが、詳しいことはわかりません。彼が、門の外に立っていたペトロを、屋敷の中に招き入れましたが、その親切が仇となり、事件が起こります。薄明かりに、ペトロの顔を見た門番の女中が「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と声をかけてきたのです。ペトロは咄嗟に、「違う」と答えて顔を背けます。春に巡ってくる過越祭、まだまだ夜が更ける時間は花冷えがしていたようで、僕や下役たちが炭火をおこし、火に当たっていました。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたりました。それは、いかにも自分はこちら側の人間であると言わんばかりの行動でした。
ルカのカメラに切り替えます。ルカは、その辺りの様子をこう描きました。「ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。」ヨハネは立っていたと書き、マタイやルカは座っていたと書いています。詩編の1編1節にこう記されています。「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。」
『十字架の黙想』にこう記されています。「信仰が冷めると心に満足が無く、主から遠ざかると、必ず世俗の中に代わりのものを求めるようになる。愛が冷めると、体まで寒さを感じ、彼は座り込んで火にあたたまっている。主を離れてどこに満足があるだろうか。主のために苦しむことなしに、どこに真の喜びがあるだろうか。わたしたちの霊魂を暖めるものは、愛に燃える主以外にはない。キリストだけで充分である」と。
わが主イエスよ、ひたすら祈り求む愛をば、増させたまえ、主を愛する愛をば!愛をば!

3.11から8年、大切なことは、忘れないこと。
今週も大切なことを大切に。

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陽子は静かに頭を垂れた



三浦綾子さんのデビュー作である『氷点』が世に出されて55年になりますが、最近でも角川文庫の必読名作第1位に選ばれており、その人気は衰えていません。北海道新聞社から出ている『「氷点」を旅する』という本に、次のようなことが書かれていました。
「小説のあらすじは一晩でできあがったが、一番先に私が書いたのは、遺言の章である。この遺言は最後になって出て来るわけだが、作者の私の頭にはこの章が最も鮮明に浮かんでいたのである。この遺言を書きながら、私はポロポロと涙をこぼしていた。『私がこの小説を書きたいのは、この遺言を書きたいためだ。』こう私はつぶやいたものである。」
そして、「たった一人でもいい、この小説を読んでもらえるなら、そして人間がだれも持っている罪の意味を理解してもらえるなら。という気持ちで私は『氷点』を書いた。いわばこの小説は私の信仰の証なのである」とも書かれていました。
綾子さんが伝えたかったこととは何だったのでしょうか。死を決意した陽子の遺言です。

「いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きてきた陽子の心にも、氷点があったのだということ。私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、『お前は罪人の子だ』というところにあったのです。……私は今まで、こんなにゆるしてほしいと思ったことはありません。けれども今ゆるしがほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪をハッキリゆるすと言ってくれる権威あるものがほしいのです。」

この陽子の叫びは、自分の真相を知り、自分の限界を知ったすべての人間の魂の叫びではないでしょうか。だれもが、自分の血の中を流れる罪を、生まれてから今日に至るまで、人に対して犯した罪や過ちの数々、自分の醜い心を、ハッキリ「ゆるす」と言ってくれる権威ある方を求めているのです。
「氷点」とは、セ氏零度、つまり、水が凍りになる温度です。毎日の生活の中で、急に心が凍てつき、自分でも信じられないくらい、冷たい言葉や態度、思いに凍りつくことがないでしょうか。それが私たちのうちにある氷点なのです。この氷点に凍えるあなたを、熱い愛をもって抱きかかえるために、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で命を与えてくださったのです。
『氷点』は『続・氷点』へと続きます。三浦綾子は、その最後の場面で、自分では抱えきれない罪の問題に苦しみ続ける陽子を、流氷の見える網走に連れて行きます。そこで陽子は、流氷が燃えるような光景を見るのです。そのゆらぐ焔を見つめるうちに、彼女の心に、一筋の光が差しこんできます。

「流氷が!流氷が燃える!人間の意表をつく自然の姿に、陽子は目を見はらずにはいられなかった。青ざめた氷原が、野火のように燃え立とうとは。・・・またしても、ぽとりと、血の滴るように流氷が滲んで行く。天からの血!そう思った瞬間、陽子は、キリストが十字架に流されたという血潮を、今目の前に見せられているような、深い感動を覚えた。・・・あざやかな焔の色を見つめながら、陽子は、いまこそ人間の罪を真に赦し得る神のあることを思った。神の子の聖なる生命でしか、罪はあがない得ないものであると、・・・いまは素直に信じられた。・・・焔の色が、次第にあせて行った。陽子は静かに頭を垂れた。どのように祈るべきか、言葉を知らなかった。陽子はただ、一切をゆるしてほしいと思いつづけていた。」

『氷点』は最後の最後に、燃える流氷とキリストの十字架を重ね合わせ、罪の赦しという問題の答えと人間が再生していく道を見事に示したのです。すべての人の心にある氷点、罪の問題の解決は、イエス・キリストの十字架にあります。私たちの罪の身代わりとなり、尊い血潮を流してくださったキリストの十字架にこそ、罪の赦しと救いがあるのです。

今月の『ぶどう樹』でも、『氷点』が取り上げられています。日本中で『ぶどう樹」が用いられますように。

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