継ぎ目のない重なり



自らを「イエスの愛しておられた弟子」と呼ぶヨハネは、1世紀の終わりに福音書を記しました。すでに90歳になっていたでしょうか。白髪の老人です。彼は、もう半世紀以上前のことを思い出しながらと言うよりも、これまでの長い信仰体験を通して深められたイエスの言葉と業に新しい息吹を吹き込みながら福音書を記しました。イエスから直接聞いたあの日にはわからなかったイエスの言葉を、彼は一つ一つ体験しながら理解し深めていきました。
ヨハネ福音書の3章を学んだ時にこんな話しをしたのを覚えているでしょうか。あの16節はだれの言葉かという話です。すぐ前の3章10節に「イエスは答えて言われた」とありますが、その言葉はどこまで続くのでしょう。新共同訳では、カギ括弧が21節まで続きますので、16節を含め、そこまでイエスの言葉ということになりますが、もともとの写本には章も節もなければ、句読点も引用符もないので、イエスの言葉がどこまで続くかは、解釈と翻訳の問題になります。ちなみに、私の持っているほとんどの聖書は15節でカギ括弧を閉じ、16節からは、ヨハネ自身による福音の告知であるかのように編集しています。このイエスの言葉とヨハネによる福音の告知との「継ぎ目のない重なり」もこの福音書の特徴でした。イエスとニコデモとの対話を伝えるヨハネの筆は、いつの間にかすべての人に語りかける福音の告知へと移っていくのです。考えてみれば、3年半、イエスのすぐそばで、イエスの言葉を聞き続けたヨハネが、半世紀以上の間、多くの苦しみと試練の中で、それを語り続けているうちに、語っているのがイエスの言葉なのか、自分の言葉なのかわからない、継ぎ目がないほど重なりあったとしても不思議ではありません。
そういう意味において、ヨハネ福音書の14章から始まり16章まで続いた、十字架の前夜、最後の晩餐が終わった後、弟子たちに語られたイエスの最後の教えも、ただ単に暗記して記録したイエスの言葉というよりも、ヨハネのうちで体験を通して深められたイエスの言葉、その福音の告知なのです。イエスの十字架と復活、そして昇天の後、ついに約束された真理の御霊が遣わされ、イエス・キリストが弟子たちの内に住まわれるという、イエスと弟子たちとの新しい愛の関係が始まりました。それから半世紀、キリストの教会が建て上げられていく、激しい迫害と試練の時代、信仰が揺さぶられる時代を通過しながら、ヨハネはイエスの言葉を初代教会の信徒たちに語り続けたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。

今週も大切なことを大切に。

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平安と勝利



十字架の前夜、最後の晩餐が終わった後、弟子たちに語られたイエスの最後の教えが終わろうとしています。14章から、時折弟子たちとのやり取りをまじえて進められてきたイエスの最後の説教も16章で終わり、続く17章全体はイエスの祈りになります。ここに至って、弟子たちは言いました。「今は、はっきりとお話になり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存知で、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られあなたがたと、わたしたちは信じます。」これはこの時点で、弟子たちにできる精一杯の信仰告白でした。しかし、この後、「あなたがたが散らされて自分の家に帰っていまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」とイエスが語られたとおり、弟子たちは「信じます」と言った言葉をキャンセルして、イエスを独り置き去りにしていなくなってしまうのです。
イエスはそんな弟子たちに向かって、一連の教えの最後の言葉として、励ましと慰めに満ちた言葉を語られたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
この夜語られたイエスの最後の教えは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」との言葉で始まり、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と続き、最後の最後に、もう一度「あなたがたがわたしによって平和を得るためである」で閉じられていきました。実際は、とても心穏やかではいられない状態、まるで嵐に弄ばれる小舟のように、弟子たちは動揺し、動転していました。そんな弟子たちに、イエスがどうしても遺していきたかった贈り物、それが心の平安だったのです。イエスを信じたからと言って、世にあって苦難や悲しみ、あるいはストレスやプレッシャーがなくなるというのではありませんが、そんな不安や悲しみの嵐の中でも安心していられる心の平安があるのです。
新約聖書にある13の手紙を書いたパウロという人物は、大きなプレッシャーを受けた時のことをコリントの信徒への手紙に書いています。「わたしたちは絶えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。・・・神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせて・・・くださいます。」
You raise me up・・・、この方が勇気を与え、立ち上がらせてくださるから、どんな山も荒海さえも乗り越えて行くことができるのです。I am strong when I am on your shoulders、その肩に寄りかかるとき、私は強くなれるのです。

キャンプに続き、明日は志摩の教会での土曜礼拝です。

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You raise me up



昨日の礼拝で、聖歌隊がシベリウス作曲「フィンランディア」の旋律から、賛美歌「安かれわが心よ」と、アイルランドのミュージシャン、シークレット・ガーデンの楽曲で、多くのアーティストによってカバーされている「You raise me up」をメドレーで賛美しました。「You raise me up」は元々、大切な人が一緒にいてくれることでどれほど強くなれるかを謳った所謂ラブソングですが、賛美歌のような旋律や聖書に通じる歌詞から、今では世界中の教会で歌われています。日本では、トリノオリンピックの女子フィギュアスケートで金メダルを獲得した荒川静香さんが、エキシビションでこの曲を使ったことで有名になりました。彼女もスランプで落ち込んでいた時期に、この曲を聴いて大きな励ましを得たそうです。
「苦しみ悩み迫り、心が弱る時」と歌い始められ、サビの部分では「You raise me up」、あなたが引き上げてくれるから、あなたが支え、励まし、慰め、勇気を与え、立ち上がらせてくれるから、あの山の上に立つことができる。荒れた海も渡ることができる。本当の自分になれると歌われます。
礼拝で学んだ聖書の言葉です。ヨハネによる福音書16章33節、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
リビングバイブルでは、「確かに、この世では苦難と悲しみが山ほどあります。しかし、元気を出しなさい。私はすでに世に勝ったのです」と訳され、詳訳聖書では、「世にあってはあなたたちには患難<試練、困難、挫折>がある。しかし元気でいなさい<堅く信じ、おくせずにいなさい>。私が世に勝ったからである<私は〔あなたたちのために〕世を征服した、からである>」と訳されていました。
今週も、気落ちした者を力づけてくださる神を見上げ、歩んで行きましょう。

今日から教会学校のキャンプです。
今週も大切なことを大切に。

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父のもとから出て、世に来た



「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
この短い一文にイエスの一生が、その使命が要約されています。前半は、イエスの受肉と十字架を、後半は、復活と昇天を表していると言えるでしょう。また、この一文はイエスの神性宣言でもあります。旧約聖書ヨブ記の1章には「わたしは裸で母の胎から出た。裸でそこに帰ろう」とありますが、人間の生涯はすべてこのヨブの一語に尽きます。しかし、イエスは父から出て世に来られ、また世を離れて父のもとに帰ろうとしておられるのです。これはヨハネ福音書が冒頭から強調し、ここに至るまで、何度もくり返し語ってきたメッセージです。
ヨハネは開口一番、何のためらいもなく、語り始めました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・・言は肉(体)となって、わたしたちの間に宿られた。・・・いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子の神、この方が神を示されたのである。」「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」キリストが父のもとを出て、世に来られた目的はただ一つです。「神は、その独り子お与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
マイケル・チャンの祈りを覚えていますか。私たちも彼と共にひさまずいて祈りましょう。「イエスさま、私の心の中にお入りください。あなたの目的のために私を変えてください。」

猛暑、酷暑、激暑、炎暑、極暑・・・。どこまで行くのでしょう。
若者たちは「鬼暑い(おにあつい)」と言うそうです。
週末に向け、元気でお過ごしください。

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鳥になれたら



テニスプレイヤー、錦織圭選手の専属コーチをしているマイケル・チャン氏は敬虔なクリスチャンです。台湾系のアメリカ人の方ですが、現役時代は史上最年少、17歳で世界四大大会の一つ、全仏オープンで優勝し活躍しました。彼の自伝にこんなことが書かれています。

これまで少なくとも、千回以上の取材を受けてきましたが、人生で一番大切なことは何かと聞かれたことはありませんでした。記者たちは、私の答えとは関係なしに、自分たちが書きたいことだけを書くのが常でした。・・・自分の素顔とは、私がクリスチャンであるということです。試合が終わると決まって感謝し、神に栄光をささげる私のインタビューを、皆さんは耳にしたことがあるかもしれません。実はこれが自分なのです。華々しく活躍していた選手時代も引退後も、変わらない「本当の自分」とは、一貫してクリスチャンだということです。

素敵な証しだと思いませんか。そして、彼がキリストを心に迎えた日のことが次のように紹介されています。14歳の時に、ある出来事がきっかけとなり、彼は祖母からプレゼントされた聖書を読み始めます。その聖書は学生聖書で頁ごとに、質問やショートメッセージが記されていました。ある日の箇所にこんな物語が載っていました。

アメリカのラジオ放送のアナウンサーであるポール・ハービーキャスターは、宗教に疑いを持っていた農夫を引き合いにして、現代の譬え話を紹介しました。ある寒さの厳しい冬の日、農夫は自分の台所のドアを時折、何者かが叩くような音がするのを聞きました。窓辺に行ってみると、それは凍えそうになっている雀たちで、家の暖につられて集まってはガラスに当たる音だったのです。農夫はかわいそうに思い、納屋の前に積もった雪をかいて、そっとドアを開け、中に小さな明かりを灯し、雀が暖をとれるように干し草も用意してやりました。ところが、雀は農夫が家を出た途端に怖がってちりじりに飛んでしまい、暗闇で縮こまるのでした。
農夫はさまざまな方法で、雀を納屋に入れてやろうと試みました。納屋の入口がわかるように、クラッカーの粉を凍てついた地面に蒔いたり、納屋の後ろから鳥たちを追い込んで、入口の方に行かせようとしたり。しかし、鳥たちは農夫が巨大な化け物であるかのように怯え、自分たちを助けようとしていることを理解しません。
あきらめた農夫は家の中に戻り、窓から気の毒な雀たちを見守りました。その鳥たちを見守りながら、彼は青い空に突然稲妻が光ったかのように、一つの考えがひらめきました。もし、私が鳥になり、仲間として雀たちを安全な暖かい所に誘導できたなら。一瞬でもいいから鳥になれたなら、私の存在を怖がらずに後に続くだろうと。そう思ううちに、もう一つの考えが浮かびました。そう、その農夫は、なぜ神の子イエス・キリストが人となられたのかを理解したのでした。

マイケル・チャンは、その場にひざまずき、こころを静め祈りました。「イエスさま、私の心の中にお入りください。あなたの目的のために私を変えてください」と。

今週も大切なことを大切に。

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聖なる道



イエスの名によって祈る祈りが、イエスの祈りとなる以上、イエスの名によって祈る者は、もう一人のイエスでなければなりません。果たして私のような人間が、もう一人のイエスとなり得るのでしょうか。そこでこの夏、お勧めしたいのが『聖なる道』です。1977年、『言泉集』第2巻の発刊に合わせて、大槻牧師が書き下ろされた31日で味わう黙想書です。以前、ポケット版で出版されたことがありましたが、今回、大槻牧師の内住80周年を記念し、『十字架の黙想(平成版)』と同じ文庫サイズで、一部改訂版として出版されました。『十字架の黙想』と合わせて、聖イエス会の信徒必読、必携の書です。

「聖なる道」は、聖霊を受けた者が、日々の霊的生活をいかに生きるべきかを学ぶための黙想書であり、聖人への道でもある。「もしわたしが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか」との使徒パウロの勧告に従い、神によって生きることと、神と共に歩む霊的生活を修得することを目的としている。換言すれば、精神を神の現存に集中することである。
日記を買い求める人は多くあるが、1月1日から、12月31日まで書き続ける人は、必ずしも多くはない。霊的生活において最も重要なことは、日々―生涯、祈りをもって完遂することである。

『聖なる道』の目次です。第1日「主イエス・キリストを知る」、第2日「キリストのうちに」、第3日「わたしは彼のもの」、続いて「わが花嫁は閉じた園」「この宝」「わたしにあるものをあげよう」「わたしの証人」「わたしの契約」「生けるキリスト」、第10日「イスラエルのために」、更に「苦闘しながら」「あなたの愛は」「豊かなあがない」「心の深みまで新たにされ」。これで2週間、実際は1ヶ月分、31日まで続きます。どれも魅力にあふれた日課ではないでしょうか。この夏、イエスのようになるために、『聖なる道』に心新たに取り組みましょう。この道は生ける道であって、だれであっても、自分自身をゆだね、明け渡すなら、この道が私たちを導いて、もう一人のイエスに変えてくださるからです。

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わたしの名によって



ゲッセマネの園に向かう道すがら、イエスは弟子たちとの新しい関係について、また聖霊の派遣とその働きについて詳しく話されました。そして、「しばらくすると、わたしを見なくなるが、しばらくすると、わたしを見る」となぞかけのような言葉によって、やがてイエスの十字架と復活を通して、弟子たちに与えられる永遠の喜びについて語られました。イエスの十字架と復活、それは新しい時代の到来を告げる、全く新しい喜びをもたらすのです。イエスは、この全く新しい喜びがもたらされる理由として、弟子たちの祈りが変えられることを教えています。同じような内容が14章でも、15章でも触れられていますが、その間に深められてきた弟子たちとの対話によって、その意味も深められています。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」「わたしの名によって願うならば」と言うところが、詳訳聖書ではこう訳されています。「私の父はあなたがたが私の名によって〔「私は有る」という者のすべてによって〕求めるものはなんでも与えてくださる。」イエスの十字架と復活、そして聖霊の派遣を通して、イエスの名によって祈る時代がやって来ます。24節も詳訳聖書で、「今まで、あなたたちは私の名によって〔「私は有る」という者のすべてにたよって〕何一つ願ったことはなかった。〔しかし今は〕願いなさい<絶えず願い続けなさい>。そうすればいただくことができる。」
なぜなら、イエス・キリストの名によって祈る祈りは、イエスの祈りとなるからです。聖霊を受けたペトロとヨハネは、イエスに言われたとおり、イエスの名によって、「私は有る」という者のすべてにたよって祈り、求め始めました。「金や銀はわたしにはないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と。「すると、たちまち、(生まれながら足の不自由な)男は・・・躍り上がって立ち、歩き出した」のです。ペトロは御霊にあふれて言いました。「イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。」「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、・・・(何者にも)与えられていないのです」と。

今週も暑さが続くようです。水分、睡眠、御言葉をしっかりとって、元気にお過ごしください。
今週も大切なことを大切に。

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滅ぼすなというしらべ



「新しい歌を主に向かって歌え」(詩編96:1)。聖書には「新しい歌」という言葉が9回出て来ます。詩編に6回、イザヤ書に1回、ヨハネの黙示録に2回です。新しい歌とは、新作、流行歌という意味ではありません。その時代、時代に生まれ歌われてきた、古くても新しい、主に贖われた者にしか歌えない救いの喜びと感謝に満ちた歌のことです。この歌を歌うためには、日々御霊にあふれて、救いの喜びを新たにする必要があります。
それと同時に、新しい歌とは終末論的な、救いの完成を見つめながら歌う歌です。義の太陽であるイエス・キリストを待ち望みつつ歌うしののめを呼び覚ます歌です。「わたしはしののめを呼びさまします」と歌ったのは、イスラエルの王であり、詩人でもあったダビデです。ダビデは、狂乱の殺人鬼と化したサウル王に追われ、洞窟の暗闇に身を隠しながら詩編57編を歌いました。この詩の表題には「滅ぼすなというしらべにあわせて歌われたダビデのミクタム」とあります。それがどのような調べであったのかはわからないのですが、悲しみに満ちたエレジーのような調子だったのではないでしょうか。そう考えてみると、聖書の中には、至るところに「滅ぼすなというしらべ」が流れています。聖書を読む人々が聞くべき神さまのエレジーです。しかし、その悲しみは喜びに変えられます。ダビデが暗い洞窟の中から、しののめを待ち望んだように、夜はよもすがら泣き悲しんでも、朝と共に喜びが来る。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで(滅ぼすな!)、永遠の命を得るためである。」だから、「新しい歌を主に向かって歌え。・・・御救いの良い知らせ(福音)を告げよ。」

暑中お見舞い申し上げます。
厳しい暑さの毎日です。健康にはくれぐれもご留意ください。

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しばらくすると



ヨハネによる福音書が、多くのページを割いて記録したイエスの最後の教え。今それを読んでいる私たちにも神秘に満ちていますが、それが語られた日、弟子たちにはほとんど理解できないような内容でした。それをヨハネはすべてが終わった後で、深い理解のうちに伝えようと試みています。
三位一体の神秘もそうですが、その後の発言がさらに弟子たちを当惑させました。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
時間的には、十字架の死と復活を預言した言葉として読むのが自然です。最初の「しばらく」はイエスの死が近づいていること、後の「しばらく」は三日目の復活です。しかし、弟子たちには何のことかわからず、互いに論じ合いました。そこで、イエスは、さらに詳しくこれから起ころうとすることを弟子たちに説明されたのです。「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。・・・はっきり言っておく(アーメン、アーメン)。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」
まず、イエスの死、十字架によって、深い悲しみが弟子たちを襲うこと、世はそれを見て喜ぶこと(世とは神に敵対するサタンとその勢力のことです)、しかし、弟子たちの悲しみは喜びに変わること。それは子を産んだ女が、喜びのあまり陣痛の苦しみを忘れるようなもので、弟子たちの悲しみもイエスとの再会によって喜びに変えられると語られています。
そして結論。「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」
ここでやはり鍵になるのが、「しばらくすると、私を見るようになる」と語られた「しばらくすると(a little while)」ということです。時間的には、復活のキリストとの出会いと読むのが自然だと話しましたが、意見の分かれるところです。ある人は、再臨のキリストとの出会いを指していると考えます。それも預言的な解釈としては一理あります。しかし、文脈から言えば、直前まで、聖霊の働きについて話されていた訳ですから、またイエスが「父のもとに行く」と言われていたことも併せて語られていることから、やはり真理の御霊である聖霊が来られるときと読むのがイエスの真意に迫るように思います。
「しばらくするとわたしを見るようになる。」「わたしは再びあなたがたに会う。」この出会いは、復活のキリストとの出会い(40日間限定の数回の出会い)でも、いつとも知れない再臨のキリストとの出会いでもなく、聖霊によって、私たちの心に内住し現存されるキリストとの出会い、誰にも奪うことのできない永遠の出会いのことなのです。
「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。」

今日は海の日。海が好きです。
今週も大切なことを大切に。

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泣きたい程の神秘性



イエスが自ら語られた聖霊の派遣とその働き(使命)が続きます。「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
聖霊は、父なる神からすべてのものを譲渡された神の御子キリストからすべてを譲渡されて、それを私たちに知らせます。ここに三位一体の神秘がシンプルに語り尽くされています。私の書斎には、15種類ほどのヨハネ福音書の注解書や説教集がありますが、この御言葉を具体的に取り上げているものは、ほとんどありませんでした。ところが大槻牧師が書かれた『言泉集』だけは、この言葉をくり返し取り上げ、三位一体の神秘をみごとに解き明かしているのです。80年前の神との出会いを通して、その神秘を実体的に体験されたからです。
「キリスト教神学において、最も難解なテーマは三位一体論である。それであるがゆえにアウグスティヌスは、聖書を引用し、またあらゆる例をたくみに駆使し、三位一体論を解説する努力を試みている。正直に言ってその三位一体論を読むこと、さらに理解するためには、私自身忍耐と労苦を必要としたのである。幸いにして啓蒙されるところが多くあった。
しかし、それは美しい上高地の油絵を見たに等しい。それは写像であって原像・実体ではない。上高地の風景画を見たのみでは、奥穂高岳や前穂高岳が三千メートル級の山であることも、梓川の清流の美しさもわからず、その流れの音も聞こえない。現地で体験する、泣きたい程の神秘性に打たれるあの感動は起こってこないのである。写像と実像、影と実体との相違である。写像の役割は、ある程度の予備知識を与えることであり、実像へと誘うことであろう。」

西日本豪雨の被災地のためにお祈りさせていただいています。

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