盗まれた十字架像



2003年の8月、ニューヨークにあるホーリークロス教会に泥棒が入りました。泥棒は献金箱と十字架のキリスト像を盗んだそうです。キリスト像は等身大のもので重さが100キロ以上あったのですが、泥棒はキリスト像を十字架から取り外し、十字架を残して、ご像だけを持って行きました。教会のスミス神父がインタビューに答えています。「どうして泥棒が十字架を残し、キリスト像だけを持って行ったのか、私にはわからない。十字架像というものは、キリストと十字架が一つになって、はじめて意味のあるものだから。」
もしかするとこれは泥棒の話ではないのかもしれません。キリストと十字架が一つであるように、私たちクリスチャンも十字架と一つです。私たちは、キリストを十字架から外して、キリストだけを手に入れようとしてはいないでしょうか。キリストの愛、恵み、祝福、癒しはいただくが、十字架は、試練は、苦難は、犠牲は要らない、そんな態度をとってはいないでしょうか。イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

今週も大切なことを大切に。

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ゲッセマネの「我」



イエスと弟子たちは、冴えわたる満月の下、キドロン、黒い流れと呼ばれる小川を越えて、オリーブ山の中腹にあるゲッセマネの園に入ります。この道は、旧約時代、あのダビデ王が、息子であるアブシャロムのクーデターによって、都を追われ、夜逃げしたときに、泣きながら裸足で歩いた悲しみの道でした。ダビデの子であるキリストも、その夜、この道を歩まれたのです。
ヨハネが彼の視点で伝えるゲッセマネの出来事を見てみましょう。彼は、ゲッセマネにおけるイエスのあの有名な祈りを飛ばして、ただイエスの逮捕のシーンだけを伝えますが、ユダに口づけで裏切られたシーンさえも飛ばして、イエスがご自分の身に起こることを何もかもご存知で、自分を捕らえに来た者たちの前に進み出た姿を描きます。その時、イエスは言われました。「だれを捜しているのか。」イエスを捕らえに来た者たちが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と答えられました。イエスはここで、「ナザレのイエスとは私のことです」と答えている訳ではありません。「わたしである」とは、ギリシア語の「エゴー・エイミ」で、これは出エジプト記の3章で、モーセの前に現れた神が名乗った神の名から来ています。この神の名のゆえに、イエスを捕らえるために集まって来た人々は、みな息をのんであとずさりし、ばたばたと倒れてしまいました。ローマの六百人部隊が、イエスの口から発せられた僅か二語で、将棋倒しになる光景が想像できるでしょうか。
ある人は言います。「キリストが神の子なら、どうしてあの夜、逃げることができなかったのか。彼は自分を師と仰ぎ、救い主と信じていた人たちに裏切られ、見捨てられ捕らえられたのだ。」もしイエスが意に反して、無理矢理捕まったというのなら、そうだったかも知れません。しかし、イエスは「わたしである」と言って、捕らえに来た人たちをなぎ倒し、自ら十字架に向かって進んで行かれたのです。私たちを罪から救い、永遠の命を与えるために。
ヨハネ福音書10章11節以下、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」18節、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」15章13節、「友のために、自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」そうです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」

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完全な学問



著名な教会博士で、アシジの聖フランシスコの良き後継者となった聖ボナヴェントゥラは、「イエス・キリストのご受難(十字架)にこそ、完全な学問がある」と言いました。彼とトマス・アクィナスとの問答は有名です。
トマスが尋ねます。「貴方は一体どこで、その偉大キリストについての知識を得ているのか?」
ボナヴェントゥラは「私が最も多くのことを学び、今も学びつつあるものはこれです」と十字架を指して答えた。
彼の師であったフランシスコも、まだ青年の頃、今にも崩壊しそうになっているダミアノ教会の祭壇で、十字架の前にひざまずいて祈っていた時、突然「フランシスコ、フランシスコ、倒れかかっている私の教会を建て直しなさい」と語りかけるキリストの声を聞いています。その時から、十字架に付けられたキリストへの愛に燃え、その愛は終生、彼の内で燃え付けました。彼の心に燃え上がった愛は、きわめて熱烈であったので、その時から、キリストに似た者となること、できる限り完全にキリストに倣うことが、彼の最高の望みとなりました。
キリストのご受難、十字架にこそ、真の知恵、最高の学問があります。礼拝で学んできたヨハネ福音書のシリーズも、今年は18章に入り、イエス・キリストのご受難の物語が始まっています。この学びは、私たちがほんとうの私たちを取り戻すための奇跡のレッスンです。

今週も大切なことを大切に。

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この世で一番の奇跡



「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた。」
ゲッセマネでの出来事をヨハネのカメラはどう捕らえたか。マタイ、マルコ、ルカは苦悶するイエスの姿を追いかけましたが、ヨハネは、まるでイエスが受難劇の進行役であるかのように、イエスの姿を追いかけていきます。ヨハネにおける受難物語、ヨハネはそれをイエスが栄光を受ける時と主張し続けてきました。それゆえゲッセマネからカルバリーまで、これから起こる一連の出来事の主導権は、イエスが握っておられるのです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。・・・だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。・・・これは、わたしが父から受けた掟である」と語られていた通りです。
ところで、イエスはなぜ、「御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て」行かれたのでしょうか。それは、私たちへの愛のためです。私たちがほんとうの私たちを取り戻すためです。
以前、オグ・マンディーノの「この世で一番の奇跡」という本を紹介したことがありますが、数年前に「奇跡のレッスン(今日から理想の自分になる4つの法則)」という新しい訳で出版されています。ストーリーはシンプルです。出版社の社長として会社を大きく成長させ、作家としては著書がベストセラーになり、大成功をおさめたかのような主人公のオグは、それでも幸せや満足感を得られない自分に苛立っていました。そんな彼が、ある雪の日、不思議な老人サイモンと出会います。そして、この二人の対話が始まります。それが「奇跡のレッスン」です。若い日の夢を踏みにじられ、安全な日々と引き換えに、自分の可能性を手放し、よりよい人生を求めようとしなくなった人々。他人だけでなく自分にさえ捨てられてしまった廃品同様の人間を、生ける屍のような状態から甦らせるのが、その老人の仕事でした。二人の対話に、古今東西の賢者たちの言葉がちりばめられていきます。
物語の最後は、サイモンがオグに残した手紙で終わります。その手紙は、「神の覚え書き」という感動のメッセージです。その中には、人生の幸福と成功の秘訣が4つ書かれています。第1に、自分に与えられている恵みに感謝すること、第2に、自分のかけがえのなさを主張すること、第3に、自分の枠を超えること、第4に、本当に自分が欲しいと思っている人生を選ぶ勇気と知恵を持つこと。それが書かれた「神の覚え書き」を今日から100日間、毎日読むなら、あなたの人生は変えられるという本です。訳者に寄れば、「失われた自分を取り戻し、この世で成功するための法則を詩的にちりばめたカジュアルな聖書のようなものです」と言われる「神の覚え書き」。その初めの方に、こんな文章が出て来ます。
「今日、あなたは生きた屍から蘇ります。・・・ラザロの墓でイエスがしたように、今日、私はあなたに出てくるように命じましょう。そうすれば、あなたは運命の洞穴から歩み出で、新しい人生をはじめるでしょう。・・・あなたが生まれたときに聞いて忘れてしまった秘密をいま一度、分かちあいましょう。あなたは私の最大の奇跡。この世で一番の奇跡。それがあなたの最初に聞いた言葉だったのです。そのあとであなたは泣き出しました。・・・あなたは私の面影を宿しています。」
これはオグ・マンディーノの想像ですが、すごいインスピレーションだと思います。母の胎を出て産声を上げる前に、生まれてきた私たちに、「この世で一番の奇跡」と神が語りかけてくださっていたというのです。その声を思い出すなら、私たちは神の面影を宿しているほんとうの自分を取り戻すことができるのです。キリストのご受難の物語こそ、私たちが私たちを取り戻すための、奇跡のレッスンです。もし、このレッスンを受ければ、あなたもきっと、ほんとうの自分を見つけることができるでしょう。キリストが自ら進み出て、お受けになった十字架。それはあなたのためです。あなたが、あなたこそ「この世で一番の奇跡」であることを思い出すための奇跡のレッスンだったのです。

危険な寒さがやって来ているそうです。

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松明やともし火



今年も礼拝ではヨハネによる福音書をシリーズで学びます。今年は18章からになりますが、いよいよキリストの受難物語が始まります。新約聖書の初めに置かれた四つの福音書は、どれもキリストの受難物語に多くのページを割いています。彼らがほんとうに書きたかったのは、キリストの十字架と復活の真実だったからです。ヨハネ以外の福音書は、共観福音書と呼ばれるように、似通った資料を用いているので、受難物語もよく似ています。ところが、ヨハネはここでも、彼独特のアングルでキリストの受難を描いていきます。
テレビ番組や映画を制作する現場では、カメラが何台もあって、ディレクターや監督さんが、1カメ、2カメ、3カメと言って、カメラ割りをしているのをご存知かと思いますが、キリストのご受難の物語を描くのに、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという四つの福音書が、まるで四台のカメラのように配置され、キリストや弟子たち、そこに登場してくる人々の表情、声や息遣い、その場の空気を描いていくのです。
ヨハネ福音書を読んで、すぐに気づくのは、所謂、ゲッセマネの祈りと呼ばれる場面ないことです。マタイも、マルコも、ルカも、カメラのフォーカスを丁寧に合わせて、細心の注意を払って映し出したイエスの苦悶する表情を、ヨハネだけは捉えませんでした。すでに17章で別の祈りを記したヨハネは、ゲッセマネの園を、ただイエスの逮捕劇を中心に、しかも、テンポの良いカメラワークで、それも大切なメッセージを伝えながら描いているのです。
ヨハネのカメラを確認しましょう。ヨハネは、イエスの逮捕に「一隊の兵士」がやって来たと記していますが、これはローマの軍隊のことで、原文では「六百人部隊」という言葉が使われています。しかも、そのローマ兵が「松明やともし火や武器を手にしていた」と伝えているのです。かなり物々しい状況です。ところで、その夜は、それほど暗かったのでしょうか。時は、ユダヤの過越祭の時期でしたが、ちょうど満月の頃です。月明かりが煌々とエルサレムの町を、そしてゲッセマネの園を照らし出していたはずです。にも関わらず、彼らは手にて手に松明やともし火を持っていたというのです。ここにヨハネの視点があります。光と闇は、ヨハネが好んで用いてきたモチーフでした。
たとえ太陽が昇っていても、月明かりに照らされていても、それだけでは明るく出来ない世界があります。人の心です。それでも人は、自分の家柄、経験、理想を手に取り、それを松明やともし火にして、明るくしようと努力するのです。そんな誇りがなければ暗闇に呑み込まれそうになるからです。
ヨハネのメッセージです。1章4節以下、「言(キリスト)のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」3章19節以下、「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。・・・悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れ、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。」8章12節、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」まだまだありますが、最後に、12章35節以下、「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

今週も大切なことを大切に。

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種を蒔く人が種蒔きに出て行った



種を蒔く人の譬えから学ぶ、神の国の奥義の中心は、種を蒔かれる土地ですが、蒔かれた種と種を蒔く人についても見逃せません。種は神の言葉、種を蒔く人はイエス・キリストです。「種を蒔く人(イエス・キリスト)が種蒔きに出て行った。」との言葉は、「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます」と祈られたイエスの言葉が重なって聞こえます。涙と共に種を蒔く人、イエス・キリストは、今日も神の種である御言葉を、命を与える御名を蒔き続けておられるのです。
絶望という暗闇の中で、もがき苦しんでいる人がありますか。主の言葉を聞きなさい。「暗闇の中から光が照り出でよ!」過去の失敗と過ちを引きずりながら、震えおののき、苦しんでいる人がありますか。今日も十字架の上から、語り続けられている主の言葉を聞きなさい。十字架の言葉は、神の力です。「子よ、安心しなさい。あなたの罪は赦された。もう泣かなくともよい。わたしはあなたをあがなった。あなたはわたしのものだ。」そして、長い病との闘いに疲れ果て、倒れ伏しているあなたに、語り続けられる主の言葉があります。「わたしは主であって、あなたを癒すものである。もし信じるなら、神の栄光が見られると言っておいたではないか。ラザロ、出て来なさい。」
先日の姫路での聖会でのことです。司会に立たれたM先生が、「一人のうつ病を患い、死んだような状態の人が、5年前の新年聖会で復活しました。その時に来て下さったのが宮本牧師でした」という話しをされ、聞いたことのなかった話しだったので、「そんなことがあったのかあ」と感動しました。集会が終わると、「あれは私のことです」と本人がやって来られ、御名をあがめました。栄光は主に。

種を蒔く人について、もう一つのことをお伝えしなければなりません。ここで種を蒔く人とは、イエス・キリストのことですが、それはその後、イエスの弟子たちが続けていく宣教の働きのことでもありました。主は種を蒔く人を求めておられるのです。
むかし、ある集会で大槻牧師が、この種蒔きの譬えを引用し、「私たちは、少なくとも生涯に三十人、できれば六十人、理想を言えば百人の人に聖霊を与えるキリスト者にならなければなりません」と話してくださったことがあります。この譬え話しは、マタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書に記されていますが、マタイとマルコは、「良い地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」と書きました。ところが、ルカだけは、三十倍も六十倍もとばして、百倍の祝福についてのみ記しています。きっと、パウロとともに宣教の旅をしていたルカには大きな信仰があったのだと思います。
百倍の祝福と言えば、創世記のイサクの物語を覚えていますか。アブラハムの息子、イサクの時代に飢饉がありました。彼はその不作の年に種を蒔きました。不況の真ん中で種を蒔いたのです。するとどうでしょう。「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった」とあります。この不信の時代、宣教の地は荒れ果てているでしょうか。困難に満ちているでしょうか。しかし、今日私たちもイエスとともに、この命の言を握りしめて出て行きたいのです。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」巡り歩こう主イエスと共に、命の御名はここにある。

今日から2月。次の日曜日は2月のオープン礼拝です。ぜひお出かけください。

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大賀ハス



十字架の前夜、最後の晩餐が終わり、イエスはゲッセマネの園に向かう道すがら、弟子たちに最後の教えを語り終えた後、天を仰いで祈られました。ヨハネによる福音書の17章全体が、その祈りになっています。イエスは、御自分のために、弟子たちのために、そして、弟子たちを通して、御自分を信じるようになるすべての者のためにここで祈られました。その最後の言葉はこうです。「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」この一句に、イエスがその生涯を通してなされたことと、この後もなそうとしておられたこととが要約されています。
イエスは「御名を知らせました。これからも知らせます」と、まるで種を蒔くかのように、御名を知らせたと言っておられるのです。「涙と共に種を蒔く」と言われている種とは、神の言葉、イエスの御名のことです。実際、ヨハネは、彼が書いた手紙の中で、人を新たに生まれ変わらせる「神の種」という言葉を使っています。
種について、こんなエピソードがあります。1952年(昭和27年)のこと、関東学院大学の教授であった大賀一郎博士は、千葉県検見川遺跡を発掘調査中、地下6メートルの泥炭層で二千年前のものと思われるハスの種を発見し、その種から花を咲かせることに成功しました。キリストの時代に咲いていたその花は、大賀ハスと呼ばれるようになりました。
種というものは小さく、まるで死んだように見えるかも知れませんが、種の中には命が宿っているということです。しかし、その種も大賀博士と出会わなければ、いつまでも深い泥の中に埋もれたままだったかも知れません。私たちの内に与えられている御名も同じです。今年、復活であり、命であるキリストとの出会いによって、神の種が復活し、花を咲かせますように。

余談ですが、大賀博士は、あの内村鑑三の弟子で、札幌農学校で植物学者であったクラーク博士から学んだ内村鑑三に植物学の道に進むように勧められたということです。大賀博士の墓には「ハスの花に神の栄光をたたえて。大賀一郎、ここに眠る。復活のラッパの鳴らん時まで」と刻まれているそうです。

今週も大切なことを大切に。

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一対一の祈り



新年聖会で、ユダの王ヒゼキヤの祈りを学びました。彼は25歳で王となり、ユダに宗教改革をもたらし、民を主に立ち帰えらせた偉大な王でした。彼はその治世の第1年の第1の月に、神殿の扉を開いて修理を行っています。さて、彼が病床で預言者イザヤから死を宣告された時のことです。列王記によれば、「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主にこう祈った。『ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。』こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた」と記されています。
ヒゼキヤは死の宣告を受けた時、ただうろたえて絶望したのではなく、神に祈りました。ヒゼキヤが「顔を壁に向けて」祈ったのは、彼の置かれていた状況が壁に囲まれた八方塞がりのようだったということもありますが、他のものが自分の視野に入ってくるのを拒絶するかのように、ただ神に集中して祈ったという意味です。これこそ、困難に直面するときに私たちが取らなければならない態度です。私たちの人生にもヒゼキヤが経験したような壁を感じることあるでしょう。しかし、そのような時にしなければならないことは、ただ神のみに集中して祈るということです。ほんとうの祈りとは神に向かうこと、神に集中することです。
すると、イザヤが中庭を出ないうちに、ヒゼキヤへの神の言葉が臨みました。「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た」と。神は、ヒゼキヤの祈りを聞き、その彼の涙を見て、死の病から復活させてくださったのです。
私たちも、どうにもならない現実に八方塞がりになることがありますが、その現実を一瞥したなら、次の瞬間、ヒゼキヤのように、神にフォーカスし、神以外のすべてをシャットアウトするべきです。今年、私と神、一対一の祈りが始まりますように。

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あつかましいほどのしつこさ



以前、こんな夢をよく見ました。日曜の朝、会衆を前に講壇に立つまではよいのですが、メッセージが準備できていないことを思い出し、青くなるというものです。自分には答えがない。与えることができない。しかし、人々はパンを求めている、そのことに気づいたとき、祈りが生まれます。
新年聖会で教わった「真夜中の訪問者」と呼ばれる譬え話があります。真夜中が、霊的な暗闇を暗示しているとするなら、私たちの回りにも、何と多くの真夜中の訪問者がいることでしょうか。このような人々の必要に応じようとするなら、祈りを持って始める以外に方法はありません。
パンを借りに行った主人は、すぐにパンを手に入れたわけではありません。彼は一度は断られます。しかし、しつように頼み続け、ついに求めていたものを手に入れました。ここに継続した祈りの大切さを見ます。詳訳聖書の「あつかましいほどのしつこさ」という訳は大胆な訳だと思います。あきらめないで、熱心に、がむしゃらに、熱く求める、ただそれだけです。もちろん、熱心さによってではなく、信仰が見られているのですが、信仰があればあきらめないはずです。
今はとても便利な時代で、インスタントなものが満ちあふれています。しかし、祈りだけは即席で終わらせることができません。祈りとは、もっとコンスタントなものであるべきです。時には、集中した爆発的な祈りも必要でしょうが、地味に見えても粘り強く、切なる思いで、求め続けるということが祈りなのです。すぐにあきて投げ出したくなる短気な私たちですが、今年はもっと時間をかけて、根気強く求めてみましょう。
私たちの良き友である主は、「求めの切なるによりて、起きてその要する程の物を与えん」(ルカ11:8文語)です。

今週も大切なことを大切に。

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ラザロ、出て来なさい



「ラザロ、出て来なさい。」英語の聖書では、「Lazarus, Come Forth!」と訳されていますが、Forth というのは「の前へ(先へ)」という意味です。原文のギリシア語では、「エクソゥ(外へ)」という言葉が用いられています。
ラザロにとって、墓場は彼の終着駅だったのでしょうか。死んだらそれで終わりだったのでしょうか。いいえ、まだその先がありました。あの日、ラザロの名を呼び、「外に出て来なさい」と彼を呼ばれたイエスは、今日も私たちを呼んでおられるのです。「ラザロ、罪と不信仰の暗闇から出て来なさい。悲しみと絶望の淵から出て来なさい。古い自分自身から出て来なさい」と。
私たちは日頃から、さまざまな音や人の言葉に囲まれて生きています。人の言葉に傷つけられ、暴言や陰口に苦しんでいる人はいないでしょうか。でも一番よく聞く声は、意外に自分の声です。「ちぇっ」と舌打ちする時、誰かに言っているつもりで、実は自分に向かって、「やっぱりだめだ、どうせできやしない、もうおしまいだ」と言っているのです。そんな声に、やる気も自信も失い、一歩も前に、先に進めなくなっている人がいれば、その人こそラザロです。今年、どんな声よりもイエスの声を大きく聞きましょう。その声を何度も聞きましょう。イエスは「『彼らを信じさせるためです。』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。」
「もう見ないでください。臭いますから」と言っているあなたが本当のあなたではありません。私たちは一人一人が、神にとって「この世で一番の奇跡」なのです。「わが目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」「わが愛する者、美しいひと。」それが本当のあなたなのです。その本当のあなたに向かって、イエスは叫んでおられます。「ラザロ、出て来なさい。」「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。・・・マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」
今年、ラザロの物語が、あなたと私の物語となりますように。

次の日曜日は、教区合同の新年聖会です。御言葉を待ち望みます。

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