白鳥の歌



昨日の中日春秋から。
白鳥は死の間際に最も美しい声で鳴く。西洋で古代から語り継がれる「白鳥の歌」の伝説である。辞世や絶筆、生前最後の言葉の例えとして、文芸などの世界で使われてきた。論語の中にも似た一節がある。「鳥のまさに死なんとする、その鳴くや哀し。ひとのまさに死なんとする、その言や善し」。死に臨んだときに口にする言葉は、純粋で真実に満ちている。
この後、台風19号で犠牲になられた方の話題が続きます。私たちはヨハネによる福音書から十字架の言葉を学んでいますが、キリストが死に臨んだときに口にされた、純粋で真実に満ちた言葉。それもまた「白鳥の歌」なのです。

今週も大切なことを大切に。

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渇きは終わった



イエスは、人類が自らの罪の罰として当然受けなければならなかった裁きを、代わりに十字架の上でお受けになりました。イエスが十字架上で経験された苦しみは、肉体の苦しみ以上に、また人々から受ける辱め以上に、人間の罪がもたらす悲惨な現実としての裁きである父なる神との断絶でした。それはあのぶどうの木の譬えにあるように、枝が樹から切り離され、いのちの源を断たれて枯れ木となるという、霊的な死、霊的な渇きでもありました。神との断絶を経験し、まさに地獄において味わわれた渇きだったのです。
ルカによる福音書16章に出てくる「金持ちとラザロ」の譬えを覚えていますか。生前、毎日贅沢に暮らしていた金持ちと、彼の家の門前でおこぼれを恵んでもらっていたラザロ、この二人が死にました。ラザロはアブラハムの懐(天国)に移され、金持ちは陰府(死者の世界)でさいなまれていました。両者の間には深い淵があって行き来できません。金持ちは、ラザロがアブラハムの懐にいるのを見て願います。「ラザロの指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中で悶え苦しんでいます。」イエスが味わわれたのは、この渇きです。
私たちは、罪がもたらす悲惨についてそれほどの自覚はありません。神から永遠に引き離され、見捨てられるということがどれほど恐ろしいことであり、どれほどの渇きを私たちに与えるものであるかがわかっていません。実際、それは終わりの日まで保留されていて、誰もそれを味わっていませんが、イエスはそれを先取りして味わわれたのです。
この第4、第5の言葉に続く、十字架上の第6の言葉は「成し遂げられた(完了した。終わった)」です。それは、この誰もが経験しなければならない「渇き」が終わったという意味です。イエスが十字架の上で渇き、呪われた者となってくださったので、その渇きは、呪いはすでに終わったのです。

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霊的な暗闇と渇き



ヨハネは十字架の傍らで、イエスが十字架上で語られた7つの言葉を聞きましたが、彼はその中から、第3の言葉、第5の言葉、第6の言葉の3つを選んで福音書に記しています。第5の言葉はこうです。「この後(すなわち第3の言葉を語られた後、ほんとうは第4の言葉があるのですが)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」
ヨハネが聞いた「渇く」という言葉は、イエスが神の子であり、人の子でもあるという神学を一貫して述べてきたヨハネにとって重要でした。人の子であるイエスは、文字どおり、激しい肉体の渇き、焼けるような喉の渇きを訴えられたからです。しかし、ヨハネはそれを「こうして、聖書が実現した」とも記しています。つまり、救い主が「渇く」と言うことは、聖書に書かれていたことの成就だったのです。
詩編には、やがて来られるメシアのひな型と言われるダビデが経験した苦難が随所に記されています。実際に、ダビデが受けた苦難は、やがて来られるメシアの受ける苦難を映し出していました。弟子に裏切られること、下着がくじ引きでわけられること、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という叫びまでダビデの経験として詩編に出て来ます。そして、詩編69編にはこう記されています。「叫び続けて疲れ、喉は涸れ(のどは渇き)、わたしの神を待ち望むあまり、目は衰えてしまいました。」「人は私に苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」と。
ここに人々の敵意とあざけりに疲れ果て、渇きを訴える主の僕メシアの姿を見ます。ダビデはそのとき、深い沼にはまり込み、極度の渇きを覚えていました。神に叫んでも叫んでも答えてもらえず、疲れ果て喉は涸れてしまいました。これは、神との親しい交わりを失われ、恐ろしいほどの孤独の中に引きずり込まれていくような霊的な暗闇の経験です。ダビデも、イエスもその暗闇、渇きを経験したのです。実は、それが十字架の第4の言葉です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」

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水を飲ませてください



もう1人の女性がいます。名前はわかりませんが、人は彼女を「サマリアの女」と呼びます。ヨハネによる福音書の4章を開くと、いつもそこに彼女がいます。シカルという町の井戸のほとりで彼女を待っていたのはイエス・キリストでした。彼女はどのような女性だったのでしょうか。作家の三浦綾子さんが、『生きること思うこと』の中に、こんなことを書いています。

聖書の中に出て来る女性の中で、だれが好きかと尋ねられることがしばしばある。私はためらわず、サマリアの女と答える。すると、たいていの人は、「へえー、あのサマリアの女ですか」と、げせない顔をする。それも道理、このサマリアの女とは、海千山千のしたたか者らしいのである。聖書によれば、この女性は昼の12時頃、水くみに井戸に行ったと書いてある。その時間は、当時決して水をくむ時間ではなかった。彼女は人の来ない時間に、こっそり水をくまなければならない、肩身のせまい思いをして暮らしていた女性である。
イエスはこの女と井戸端で会われた。そして、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」とおっしゃった。彼女は、「私には夫はありません」と答えた。するとイエスは、「あなたに夫がないというのは、もっとものことである。あなたには、もと5人の夫があったが、いまのはあなたの夫ではない」と、ズバリ図星を指されたのである。…
5人も夫がいたというのは、不運というより、ふしだらであったという印象を私たちに抱かせる。…彼女の評判ははなはだしく悪かったであろうことは想像に難くない。…こんな評判の悪い女が好きだというのだから、人が驚くのは無理もない。私も、かなり評判の悪い時代があった。…そんなことで、評判の悪かったこのサマリアの女に、ひどく親近感を覚えるのである。

みなさんは、いかがでしょうか。この女性にはいろいろと問題があったのは事実です。いろいろ想像できますが、ひとつだけ確かなことは、彼女は満たされない心を持っていたということです。彼女が水をくみに来たヤコブの井戸は相当深い井戸だったようですが、その井戸と同じように、彼女の悩み、問題、悲しみ、後悔と涙、そして罪も実に深いものでした。
私はこの人に会ったことがあります。どこで会ったと思いますか。彼女は鏡の中にいました。普通、鏡の前に行くときは灯りを付けるものですが、鏡に映る自分を見るのがためらわれて、灯りも付けずに鏡の前に立たれたことがあるでしょうか。何かむなしくて、何か満たされないものがあって、周りに誰もいないことを確認しなければ、灯りを付けることができない自分。サマリアの女はそこにいたのです。ですから、イエスとサマリアの女の物語は、私の物語なのです。
物語は最後、満たされない心を抱いて井戸にやって来た彼女が、水がめをそこに置いて、町の中に飛び込んで行きます。そして、彼女をとおして、サマリアの町が変えられていくのですが、二人の会話の始まりはこうです。「サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、『水を飲ませてください』と言われた。」そう、「水を飲ませてください」から始まったのです。別の言い方をすれば、「I Thirst(わたしは渇く)」です。
この言葉が彼女を変え、サマリアの町さえも変えていきました。イエスは、あなたが渇きを癒そうとやって来る井戸のほとりで、今日もあなたを待っています。あなたにも聞こえるでしょうか。イエスの声が。「I Thirst(わたしは渇く)」。
しかし、イエスは自ら「渇く」と言いながら、私たちを尽きることのない命の泉に招いてくださるのです。「この(井戸の)水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

台風接近中。みなさま、お気をつけください。

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じっとしていられない



昨日の礼拝で、イエス・キリストが十字架の上で語られた7つの言葉の中から、ヨハネによる福音書に記されている第5の言葉、第6の言葉を読んでいただきました。詳しくは後日お話ししますが、昨日は第5の言葉、「渇く」というキリストの言葉を聞いた2人の女性を紹介しました。
1人目の女性は、18歳の時に修道女となり、その年にインドに渡りました。彼女はカルカッタ(現在のコルカタ)の学校で教鞭をとっていましたが、38歳の時に転機が訪れました。1946年9月のことです。彼女の生涯は、後に映画化されていますが、その映画ではそのシーンが印象的に描かれていました。ダージリンの駅で瀕死の状態で倒れている病人が彼女を手招きします。そして、彼女に言うのです。「I Thirst(わたしは、かわく)」と。その声に導かれ、彼女は修道院を離れて、貧しい人々の中に飛び込んで行きました。もうおわかりでしょうか。マザー・テレサのことです。彼女は、幾多の困難を乗り越え、ついにその働きは、多くの人に感動を与え、世界を動かします。しかし、その始まりは、「わたしは渇く」という十字架の言葉だったのです。その声を聞いた人は、愛に渇くイエスの渇きを癒すために、じっとしていることができません。十字架の言葉は神の力です。「わたしは、かわく」と、イエスはあなたの愛に渇いておられます。

秋の音楽礼拝には、たくさんの方にお越しいただき感謝でした。賛美もヴァイオリンとフルートの演奏の素敵でした。

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新しい家族



イエスは十字架の上から、母と愛弟子に、それぞれ「御覧なさい。あなたの子です。」「見なさい。あなたの母です」と語りかけていますが、これは彼らがお互いを新しい眼差しのもとに、見つめ合うことを教えています。イエスは十字架の上で、「わたしを見なさい」とは言われずに、十字架をとおして、互いを見つめ合うことを教えてくださったのです。
ヨハネはその書簡の中で教会のメンバーに訴えました。「わたしたちが神の愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、…神の愛がわたしたちの内で全うされるのです。」人々は私たちをとおして、神を見るのです。
イエスの言葉を受けて、「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とありますが、「そのとき」とは、いつのことでしょうか。文字どおり、イエスがこの言葉を語られた時と読むこともできますが、ヨハネ福音書がくり返し述べてきた大切な時があったことを思い出します。イエスが「わたしの時」と「人の子が栄光を受ける時」と語られた十字架の贖いが成し遂げられる時のことです。
整理します。ここに出てくる母マリアは、「母なる教会」という言い方があるように教会のシンボルです。そして、イエスの愛する弟子とは、その教会に連なるすべてのクリスチャン、私たち一人一人のことです。イエスは十字架の上で、子を失う母マリアに対して、「御覧なさい。あなたの子です」と、この後、十字架によって救われている神の子どもたちをお与えになりました。それから弟子に(私たちに)言われました。「見なさい。あなたの母です」と。
これは単なる親子関係を言っているのではなく(それだけでも驚くべきことですが)、弟子ヨハネからすれば、イエスの兄弟(家族)にしてもらったということです。この神の国の養子縁組が、十字架のもとで結ばれ、神の国の新しい家族が、十字架のもとで生まれたのです。ここに十字架のもとで生まれた「愛に生きる共同体」のはじまりを見るのです。

次の日曜日は、10月のオープン礼拝、秋の音楽礼拝です。

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十字架のそばには



「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」
これはイエスが十字架上で語られた7つの言葉の第3の言葉です。ヨハネ福音書には、第5の言葉、第6の言葉も記録されています。初めに十字架上の罪状書きについて記したヨハネは、次に十字架のもとで起こった2つのことを私たちに伝えます。第1に、ローマ兵に見るイエスに対する無関心、イエスの衣服の分担とその意味。第2に、婦人たちに見るイエスへ愛と、イエスの母と愛する弟子への愛の言葉です。
その日、十字架のそばには、4人の婦人とイエスの愛する弟子(ヨハネ)が立っていました。4人の婦人とは、イエスの母マリア、母マリアの姉妹(この人は福音書を書いているヨハネの母であり、名をサロメと言います。そして)、クロパの妻マリア(この人はイエスの母マリアの夫ヨセフの兄弟クロパの妻と考えられていますから、マリアにとっては義理の姉妹にあたります。彼女)とマグダラのマリアの4人です。マグダラのマリアのことは、やがて復活の記事で詳しく学ぶことになります。
彼女たちの愛に胸を痛めながら十字架のもとに立ち尽くす姿は、十字架には目もくれず、イエスの服を分け合うために、くじに興じている4人のローマ兵とはあまりにも対照的です。マザー・テレサは「愛の反対は無関心です」と言いましたが、イエスが十字架の上で大いなる救いの業を成し遂げようとしている最中、十字架のもとに、このような2つのグループが存在していたとは何と厳粛なことでしょう。私たちはどちらにいるべきでしょうか。
私たちが十字架に無関心でありませんように。十字架に対する感謝と感動を失うことがありませんように。
イエスよ十字架に、われをば引き、たえずみもとに、保ちたまえ。われは誇らん、主の十字架を、あまつ憩いにいる時まで。アーメン。

今日は地区の先生方と祈りのひと時を持たせていただきました。
今週も大切なことを大切に。

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破られなかった衣



十字架の上の罪状書きを紹介したヨハネは、次に十字架の足もとで起こった2つのことを記録しています。第1に、ローマ兵に見るイエスに対する無関心、イエスの衣服の分担とその意味。第2に、婦人たちに見るイエスに対する愛、イエスの母マリアと弟子ヨハネへの愛の言葉、十字架上で語られた7つの言葉の第3語です。
さて、十字架による死刑執行は通常4人の兵士によって行われたようです。十字架の足もとで、イエスの衣服を分配した4人が、その日の担当でした。彼らはイエスを十字架につけてから、まずイエスが身に着けていた上着、下着、頭を覆う布、そしてサンダルを、くじをひいて分けました。彼らの姿は、あまりにも現実的で、十字架の神秘とはあまりにも対照的です。
ところで、イエスが身に着けていた「縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった下着」とはどんなものだったのでしょう。ここで使われているギリシア語のキトンという言葉は、衣あるいは外套とも訳せる言葉です。興味深いことに、出エジプト記28章32節によれば、大祭司の着る服は、縫い目のない織物でなければならないと教えられています。
では、縫い目のない一枚織りの衣、破られなかった衣とは何を意味しているのでしょう。他の福音書を見ると、イエスの死によって、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことが書かれていますが、ヨハネにはそれが出て来ません。かえって、ヨハネは破れなかったものがあったことを私たちに伝えているのです。神殿の幕が破れたことは、地上の祭司の務めが終わったことを意味しますが、破られなかったイエスの衣は、真の大祭司、神の子であるイエスの祭司職はいつまでも終わらないことを、私たちに教えているのです。ヘブライ人への手紙にはこう記されています。「彼はまた、ご自分を通して神に来る人々を徹底的に〈完全に、申しぶんなく、決定的に、とこしえに変わることなくいつも〉救うことがおできになるのです。なぜなら、彼は常に生きておられ、彼らのために神に嘆願されるからです。」アーメン。

今日から秋の京都聖会。
日曜日、名古屋教会での礼拝は通常どおりです。

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あらゆる名にまさる名



イエスをユダヤ人に引き渡したローマ総督ピラトは自らが書いた罪状書きを、イエスの十字架に掛けさせました。罪状書きには通常、囚人の名前とその罪状が書かれますが、ピラトは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と、その名と彼が名乗った身分をそのままそこに書きました。それは「皇帝のほかに王はありません」と言って、イエスを拒否し、死に追いやったユダヤ人に対する皮肉でもありましたが、神がそう書かせたと言ってもいいでしょう。その日、過越祭を祝うために世界中から集まっていた人々がそれを読んだからです。
十字架のもとに最後まで立っていた弟子のヨハネは、この罪状書きが、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたと伝えています。ヘブライ語は右から左に読みますが、この頭文字を並べると一つの言葉が浮き上がってきます。神の聖四文字です。これは単なる言葉遊びと言われるかもしれませんが、それにしても不思議です。ユダヤ人はこの聖四文字を、「神の名をみだりに唱えてはならない」との教えから、発音するのを止め、アドナイと読むようになり、正しくどう発音するのかは今もわかりません。しかし、いずれにしてもこれは神の絶対的な御名なのです。
これを見たユダヤ人が憤慨し「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書いてくださいと言った真意もそこにあったのです。しかし、ピラトは彼らの訴えを取り扱うことなく、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えました。それはこの罪状書きを、いいえ、この看板(タイトル)を書いたのが、ほんとうは父なる神であったからではないでしょうか。十字架の前に、ただひれ伏すのみです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

今週も大切なことを大切に。

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ほら、聞こえてくるのは



昨日は、福井教会でもたれたチャペルコンサートで聖歌隊が歌わせていただきました。聖歌隊は、この世で歌われている歌ではなく、神を讃える歌を歌います。それが讚美です。しかし、私はこう思います。讚美は、人が神にささげているように見えて、実は、それを歌わせてくださるのは神様なのだから、ほんとうは神様が歌っているのではないだろうか。そんな思いに答えが与えられたのは、ゼファニア書の3章18節をリビングバイブルで読んでいた時でした。こう書かれています。「ほら、聞こえてくるのは、喜びにあふれた聖歌隊の歌声であろうか。いや、あれは神様が、あなたがたのことで、喜びいっぱいに歌っておられる声だ。」聖歌隊が歌っているようで、ほんとうは「神様が・・・歌っておられる」というのです。そこでチャペルコンサートのタイトルを「神様からのラブソング」と付けるようになりました。昨日のコンサートもそうでしたが、メンバーが次々に自分の体験した神の愛の物語を語りながら曲の紹介をします。聖歌隊は歌いながら、神様の歌声を聴きました。聴衆は聖歌隊の歌声をとおして、神様の歌声を聴きました。神様の愛につつまれ、聖歌隊の目に涙が光りました。聴衆席のあちらにもこちらにも泣いている方がいました。神様が歌っていたからです。

今週も大切なことを大切に。

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