ホロコーストをとおして



今年は先週の木曜日が、ヨム・ハショア(ホロコースト犠牲者追悼日)、今週の木曜日がイスラエルの独立記念日になります。イスラエルの祝日はユダヤ暦で数えるので私たちのカレンダーとは日付がずれるのですが、毎年、この時期に、世界のユダヤ人青年を対象にした命の行進(The March of the Living)が行われます。かつて死の行進が行われた苦難の地を踏みしめ、600万の犠牲者の悲しみと連帯し、そこから命への道を歩み始める命の行進。昨年の研修旅行に続き、今年も教会のメンバーが参加しました。全体のツアーは、式典が持たれたポーランドに続いて、杉原さんがユダヤ人を救ったリトアニアに入っていますが、ポーランドだけのグループは先週末に帰国しています。
今年はイスラエルの独立70年、二千年の流浪の歴史の終止符を打ち、悲願の建国を果たした背後に、ホロコーストという大きな犠牲があったことを忘れてはなりません。また神の預言とその深い御心を覚え、聖イエス会の存在の意義を確認する時にしたいと願っています。
1948年5月14日(その年のユダヤ暦でヤイールの月の5日)、安息日の前夜、テルアビブ博物館に集まった人々を前に、初代首相デイビッド・ベングリオンが独立宣言文を読み上げました。「ここにイスラエル国の独立を宣言する。近年ユダヤ人に降りかかったホロコーストは独立国家の必要を明らかにした。イスラエルの全能なる神を信じ、この宣言に署名する。」この時を待ちかねた世界中のユダヤ人が歓声と共に国家となる「ハティクバ」を歌いました。それは、大槻牧師が1938年(昭和13年)1月9日、神との出会いに続き、神のビジョンを受けて満10年目のことでした。しかし、聖イエス会が最初のイスラエル人に出会うためには、それからなお14年の歳月を必要といたしました。

昨日はここまで話した後、春の聖会で紹介していただいた聖イエス会が最初に出会ったイスラエル人、A先生の声を映像をとおして聞いていただきました。この出会いが聖イエス会と「アニーマアミン」との出会いでもあったことに感動を新たにしました。

今週も大切なことを大切に。

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みことばにとどまる



キリストにとどまるということについて、ヨハネは二つの面からアプローチしています。第1に、みことばにとどまるということ、第2に、愛にとどまるということです。
ヨハネは言います。15章7節、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」後半の結果の部分に目が奪われがちですが、前半の条件の方が重要です。御言葉にとどまるということについては、8章でも学びました。8章31節、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。」
4月を迎え、進級、進学、就職、異動、私たちを取り巻く環境に少なからず変化が生じるシーズで、慣れない、落ち着かない生活をされている人も多いと思いますが、いつも大切なことを大切に、毎日聖書の前に座り、聖書を開き、聖書を味読し、御言葉につながること、デボーションを大切にしてほしいと思っています。デボーションガイド、今月の前半はレビ記を読んでいます。ちょっと難解な箇所ですが、これを使えば、その日の聖書箇所に何が書かれているのかが簡単にまとめられていて、御言葉の実践と祈りに導かれます。ぜひこれを活用して、主の言葉につながってください。それがキリストにとどまると言うことです。
御言葉にとどまるということについて、もう少し深めます。聖書全体が神の言葉ですが、永遠の命をもたらすいのちの言葉とは、神の御名のことです。詳訳聖書が教えるように、「キリストの命に生きる、キリストとの生命的結合の中にとどまるとは、キリストのことばが私たちのうちにとどまる、私たちの心の中に生き続ける」ということです。春の京都聖会でも改めて教えていただいた御名の連祷、正しい御名の呼び方をくり返し実践しましょう。御名が心の中に生き続けるように。

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ずっと



十字架の前夜、最後の晩餐が終わった後、弟子たちに語られたイエスの最後の教えが続きます。ゲッセマネの園に向かって歩き始めたイエスと弟子たちでしたが、その夜、イエスは何度も立ち止まって弟子たちに語りかけました。月夜に、ぶどう畑が見えたのでしょうか。イエスは、ここで有名なぶどうの木と枝の譬えを話されたのです。この譬えの中で、イエスは「つながる」をくり返し使われますが、これはヨハネ福音書の鍵となる言葉のひとつです。ギリシア語の「メノー」という言葉は、ヨハネが好んで用いた、彼のこだわりを感じる言葉です。ヨハネ福音書に38回、短いヨハネの手紙にも23回、彼はこの言葉を使っています。ある時は、「泊まる」と訳され、ある時は「つながる」と訳され、ある時は「とどまる」と訳され、父なる神と御子イエスとの密接な関係を、さらに私たちとキリストとの親しい交わりを表す特別な言葉が「メノー」です。
ヨハネとペトロの兄弟アンデレがイエスの弟子となった日のことを覚えていますか。二人は言いました。「ラビ、どこに泊まられる(メノー)のですか。」イエスは「来なさい。そうすればわかる」と答えました。「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられる(メノー)かを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった(メノー)。午後四時ごろのことであった」と、年老いてこの福音書を記すヨハネは、その日その時のことを証ししています。リビングバイブルの訳も素敵です。「その日は、それからずっと、イエスといっしょにいました。」その日から、ずっと、イエスといっしょにいることが彼のライフワークとなりました。「ずっと」です。「とどまる」という言葉は、「点」で表わす言葉ではなく、「線」で表わすべき言葉です。それは「継続すること」を意味します。一時的な交わりではなく、継続する交わりです。それから「ずっとイエスといっしょにいました」という交わりです。それは、私たちの願いでもありますが、イエスが望まれた交わりでもありました。イエスは、この最後の教えの後、こう祈られるのです。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」と。

今日は地域の先生方との集まりが持たれました。新年度、「説教者」とのお勧めをいただき、幸いなひと時でした。
今週も大切なことを大切に。

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命二つの中に生きたる桜哉



私たちに必要なことは、枯れることのない豊かな命、ぶどうの木であるキリストにつながっていることです。イエスは言われました。「私のうちに生きなさい。私もあなたたちのうちに生きよう」と。
松尾芭蕉の旅日記『野ざらし紀行』に、滋賀県は甲賀市にある水口という東海道の50番目の宿場町で詠まれた句があります。「命二つの中に生きたる桜哉」。
この句には、前書きがあって、「水口にて二十年を経て故人に逢ふ」とあります。ここで言う故人とは、昔馴染みという意味で、芭蕉の弟子であった同郷の服部土芳という人物のことだと言われています。芭蕉42歳、土芳29歳での再会でした。郷里の伊賀で土芳と別れたのは、彼がまだ9歳のころだったことになりますが、20年を経て、成長した土芳との再会が嬉しくてたまらなかったのでしょう。芭蕉が「命」という言葉を使うのは希なことだそうですが、「命二つ」という最初の五句がとても印象的です。
東日本大震災の年、震災の3日後に予定されていた卒業式が中止になり、卒業生に贈った言葉がインターネットで広まり話題になったのは、埼玉にあるミッションスクール、立教新座高校の校長であった渡辺憲司先生でした。この先生のスピーチが本になっていますが、同じ年の入学式の祝辞で、この芭蕉の句を引用しています。
「命二つという発想が、心に強く響いてきた・・・。私たちは、命を自分一人のものと考えがちです。かけがえのない命は、もちろん自分だけのもの。他の人と取り換えようのないものです。私は<命一つ>と考えていました。それを芭蕉は、まず<命二つ>と切り出したのです。
命は、自分一人のものですが、一人で支えているものではありません。・・・他者の存在なしに、命はありません。親と自分、友人と自分、他者と自己、それぞれがその命を自分の中に大切に抱えながら、親、友人、もうひとつの命に支えられ、<命二つ>の中で生きているのです。
命は一つで生きていくことはできません。 自分にかけがえのない命は、相手にとってもかけがえのない命なのです。・・・<命二つ>と、考えることは、相手の心に近づき、自分の身を相手に重ねることです。 互いに命の尊厳を認め合うということです。」
心に沁みる言葉ですが、キリストの言葉も「命二つ」という発想ではないでしょうか。ぶどうの木と枝。枝は木につながっていなければ実を結ぶことができず、木も枝なしには実を得ることはできない掛け替えのない存在、この命二つが出会う桜ならぬぶどうの木、それは十字架です。かつては呪いの象徴であった十字架が、イースターの朝、キリストの復活を通して命との出会いの場所となったのです。
キリストは今もあなたを呼んでおられます。20年どころではありません。なんと二千年もあなたと会えるのを待ち続けておられたのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」「私のうちに生きなさい。・・・私もあなたたちのうちに生きよう」と。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子(の十字架と復活)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」


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わたしにも現れた



「忖度」とか文章の「改ざん」とかが問題になっていますが、アメリカの37代大統領リチャード・ニクソンの側近であったチャック・コルソンが、イエスの復活についてこんな興味深いことを語っています。チャック・コルソンは、ウォーターゲート事件への関与で有罪となった人物でしたが、獄中で回心し、クリスチャンとなりました。彼の言葉です。「イエスの復活が事実かと質問されると、私は『弟子たちと五百人の人たちは、自分が目撃した事実を書いているのだ』と答える。すると、『どうしてそれが事実だとわかるのか』との質問が返ってくる。そこ私は、ウォーターゲート事件を例にとって説明する。
この事件は、大統領に忠誠を誓った側近が共謀して起こした事件であった。しかし、側近の一人ジョン・ディーンは、当局の調査が始まってたった2週間で、自分の身を守るためにニクソンに不利な証言をした。たった2週間でこの事件の隠蔽工作は失敗に終わった。すると、だれも彼もが罪を軽くしてもらうために証言を始めたのだ。
大統領の側近たちが直面していたのは、死の危険性ではなく投獄の可能性であった。しかし、イエスの弟子たちは死の可能性に直面していた。それにもかかわらず、彼らは、最後まで、イエスは復活したという証言を曲げることはなかった。もしそれが陰謀だとするなら、殺される前にその中の一人くらいは白状していただろう。人は真実のためには命を捨てられても、嘘のために死ぬことはできない。ウォーターゲート事件の隠蔽工作の失敗は、そんな人間の本性を明らかにしたのだ。
イエスの弟子たちは、イエスの復活を否定することはできなかった。復活のイエスに出会ったからである。二千年経っても、イエスが復活し、今も生きているという事実は変わらない。その事実が、世界中のクリスチャンたちを励ますのだ。この事実の上に、私たちは自分の人生を築き上げるのだ」と。
イースターの出来事には、何の忖度も、文章の改ざんもなかったのです。コリントの信徒への手紙一15章は使徒パウロによる主の復活の証言集です。そこでパウロは自らが伝えた福音についてこう語っています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたこと、・・・そして最後に、わたしにも現れたこと」です。キリストが、私にも現れたこと。これがイースターの真実です。これが、聖書が伝える最も大切なことなのです。

新しいシーズンです。入学、就職、おめでとうございます。
今週も大切なことを大切に。

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実を結ばない枝は



キリストが語れたぶどうの木と枝の話し、よく読むと枝には2種類あることがわかります。実を結ばない枝と実を結ぶ枝です。そして、「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」と言われています。聖書の中で、こういう言葉に出会うと、正直戸惑い、恐れを感じます。こういう言葉に出会って、悔い改めに導かれることも大切ですが、イエスの言葉の真意はどこにあったのでしょう。
大切なことは、前提として「わたしにつながっているわたしの枝」と呼ばれていることです。ここで「取り除かれる」と訳されているギリシア語の「アイロウ」の正確な意味は、「持ち上げる」「取り上げる」です。当時、パレスチナでぶどう栽培は、ぶどう棚を使ったものではなく、地面を這わせるスタイルのものだったようです。それは乾燥地帯であるパレスチナで、ぶどうの木に夜露や朝露を吸収させるためでした。今でも、そのようなぶどう畑を見ることができるそうですが、枝に実を結ばせるためには、枝と地面との間に適度な空間を作る必要がありました。そこで農夫は、大きめの石を地面に敷いて、その上に枝を這わせたのです。そうすることで、光と風、水分が行き届いて、枝は甘い実を結ぶようになるというのです。愛である神は、ぶどうの木につながっている枝を見捨てるようなお方ではありません。私につながっている枝で実を結ばないものがあれば、農夫である父は身を屈めてそれを持ち上げてくださるのです。信仰が地面を這うように落ち込むことがあっても、神は必ずあなたを引き上げてくださいます。だから、恐れないで、キリストにつながり続けていればよいのです。今はまだ実を結べていなくても。

今日は聖金曜日、次の日曜日がイースター(復活祭)です。
イースター礼拝(4月のオープン礼拝)は4月1日(日)朝10時半から。
弥富公園東、丘の上の教会へ。

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まことのぶどうの木



ヨハネ福音書の15章に入ります。十字架の前夜、過越の食事となる最後の晩餐が終わった後、弟子たちに語られたイエスの最後の教えが続きます。14章の最後の所で、食事をした大広間のある家を出てゲッセマネの園に向かって歩み始めた一行でしたが、イエスは何度も立ち止まって弟子たちに話を続けられました。月夜に、ぶどう園が目に入ったのかも知れません。譬えの名手であるイエスは、ここで有名なぶどうの木の譬えを話されたのです。
「わたしはぶどうの木、しかもまことのぶどうの木である。」なぜキリストは「まことの」ぶどうの木なのでしょう。今年も桜の季節ですが、桜が日本を象徴する木であるように、聖書の国イスラエルを象徴するのはぶどうの木です。イザヤ書5章7節、「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑」、エレミヤ書2章21節、「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる、確かな種として植えた」、詩編80編9節、「あなたはぶどうの木をエジプトから移し・・・これを植えられました」など、旧約聖書にはくり返し、イスラエルがぶどうの木また畑として描かれています。
しかし、ほとんどの場合、それらの描写はイスラエルの罪と裁きの記事へと続きます。神はイスラエルを良いぶどうとして植え、大切に手入れし、甘いぶどうが実るのを期待しましたが、実ったのは酸いぶどうでした。イスラエルは、不信仰と不従順によって、神の期待には応えることができなかったのです。その結果、神のぶどう畑は荒れ果ててしまいました。そこで、イエスは「まことの」ぶどうの木として、イスラエルの罪を贖い、神の御心を成就するために来られたのです。ですから、キリストの言葉には、だれでも「まことの」ぶどうの木である私につながっていれば、神の期待に応えて、豊かな実を結ぶことができるようになるという、神の深い愛が示されているのです。

今週も大切なことを大切に。

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コード・アダム



イエスは弟子たちとの最後の晩餐を終え、ゲッセマネに向かおうとされています。イエスは訴えるように言われました。「この世は、わたしが父を愛し、その御旨のままに行うことを知るべきである。さあ、立ちなさい、出かけよう。」ここでイエスが「知るべきである」と語気を強めて語っておられる「その御旨のままに」という、その御旨とは何であったのでしょうか。
「コード・アダム」という言葉をご存知ですか。アメリカのショッピングモールで時々流れる店内放送です。「従業員ならびにご来店のみなさま、コード・アダムが発令されました。」1981年のこと、アダム・ウォルシュ君という6歳の男の子が誘拐され、数週間後、遺体で見つかりました。この全米を震かんさせたショッキングな事件をきっかけにウォールマートが迷子のアナウンスに使い始めたのがコード・アダムです。このアナウンスが流れるとすべての業務が停止します。従業員もお客さんも一緒になって、迷子の捜索を始めるそうです。やがて迷子が見つかると次のアナウンスが流れます。「キャンセル・コード・アダム。」迷子が無事見つかりました。皆さまのご協力に感謝しますというアナウンスです。そして、すばらしいのは、このアナウンスがあると、店中に拍手が鳴り響くことです。
神を信じることなく、永遠の滅びに向かって歩んでいる人たちのために、あの日以来、天国ではコード・アダムが発令され続けています。そう、あの日、エデンの園でアダムが失われて以来、今日まで。イエスはいなくなったアダムを見つけ救うために世に来られたのです。

今日から京都で春の聖会です。

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立て、さあ行こう

洗礼式

ヨハネによる福音書14章の最後のところに、他の福音書であれば、ゲッセマネの園の物語で使われる言葉遣いが立て続けに出てきます。「父がお命じになったとおりに行っている(その御旨のままに、完全に一致して行動している)」と言われているのは、「わたしの思いのままではなく、御心のままになさってください」と祈られたゲッセマネの祈りを思い起こさせます。「さあ、立て。ここから出かけよう」という言葉は、イエスが眠っている弟子たちを起こして、「立て、さあ行こう」と言われたのと同じです。また「世の支配者が来る」という不気味な言葉は、イエスが逮捕される時に、「今はあなたがたの時、また、やみの支配者の時である」と言われた言葉に通じます。つまり、場面こそ違いますが、ヨハネはここであのゲッセマネの園のような場面を描こうとしているのです。
しかし、ヨハネ福音書におけるゲッセマネの園の物語は18章に記されているので、この箇所から、そのまま18章に入るとスムースなのですが、まだ15章、16章、17章とイエスの長い告別説教と最後の祈りが続きます。もしヨハネが伝えた通りだとすれば、15章と16章は、イエスと弟子たちが、最後の晩餐が行われたマルコの家を出て、ゲッセマネの園に向かう道すがら、何度も立ち止まりながら話されたことになります。
この辺りは、聖書学者たちの間でも意見が分かれるところなのですが、今回のシリーズはそのような流れでメッセージを続けたいと思っています。ちなみに、『日本人に贈る聖書物語』にもこのように書かれていました。「二階の大広間があった家からゲッセマネの園まで、男の足で十数分の距離である。しかしこの夜は、そこに着くのに一時間以上もかかった。イエスが、途中何度も城壁のそばに立ち止まり、弟子たちに告別のメッセージを語ったからである」と。
私たちもこの場面から、イエスと共にゲッセマネの園に向かいます。神の御旨が完全に実現されていくゲッセマネの園へ。「立て、さあ行こう。」あなたのあとについて行かせてください。

今日は京都聖会前ですが、地区の先生方の集まりが持たれます。
今週も大切なことを大切に。

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レンブラントから



2012年にFBIのホームページで公表された高額盗難品リストの1位はレンブラント作「CHRIST IN THE STORM(嵐の中のキリスト)」です。1990年にボストンのイサベラ・ガードナー・スチュアート美術館から、警察官になりすました賊によって盗み出されたこの作品は時価3億ドルでした。
改めてこの逸品を観ると、嵐の中、波にもてあそばれて浸水している舟が細かく描写されています。風で飛ばされた踊るロープ。恐怖する弟子たちの表情。ある弟子は帆柱やロープにしがみつき、ある弟子は船酔いし、ある弟子はイエスに詰め寄っています。舟の乗っている誰もが嵐を見ている中で、イエスだけは天の一角から差しこむ光の方を見つめています。その顔は輝いています。更によく見ると、もう一人、この絵の中で飛び出している人がいるのに気がつきます。中央の青い服を着た人物です。彼は嵐を見ているのでも、天を見つめているのでもありません。この絵を見ている私たちを見つめ、何かを訴えているようです。これは誰で、何を伝えようとしているのでしょう。そこで舟に乗っている人を数えると14人いることに気づきます。イエスと12弟子で13人のはずなのに14人いるのです。レンブラントは作品の中に自画像を描き込むことでよく知られていますが、この嵐の舟の中から、時代を越えて、私たちを見つめるこの人物こそキリストの弟子、レンブラント自身なのです。
それはあたかも、ガリラヤの波猛る湖で漕ぎ悩む舟が遠い過去のものではなく、時代を超え、今日もこの嵐の中の、イエスが乗っている舟の中に私たちがいることを、彼は自らを描いて伝えているのではないでしょうか。嵐の中の舟の、イエスの御許に自らを描いたレンブラントが今日私たちを見つめ、招いているのです。イエス・キリストからあなたに贈り物が届いています。あなたはそれをもうお受け取りになりましたか。
イエス・キリストからあなたへ。「あなたがたに贈り物をあげましょう。あなたがたの思いと心を安らかにすること、それがわたしの贈り物です。」やがて私が十字架で、あなたがたの罪のためにこの命をささげるから、あなたがたは平安でいなさい。そして三日目によみがえり、あなたがたに平安を届けるから、あなたがたは平安でいなさい。もうすぐ、慰め主である聖霊があなたのところに来るから、あなたがたは平安でいなさい。

東日本大震災から7年。減災・復興への誓いを新たに。

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