死の影(Shadow of Death)



イギリスの画家ウィリアム・ホルマン・ハントと言えば「世の光(The Light of the World )」という扉をたたくキリストの作品が有名ですが、彼は「死の影(Shadow of Death)」という作品を描いています。一日の仕事を終え、仕事場で両手を広げた青年イエスを描いたものですが、夕陽を浴びて、背景の壁に映ったのは十字架の影でした。それに気付き、驚きを隠せないマリアの後ろ姿も印象的な一枚です。
この絵を探しているときに、もう一枚の絵を見つけました。作者もわからないものですが、そこに描かれているメッセージは同じです。こちらは青年イエスではなく、幼子イエスが、大工であった父ヨセフの足もとで、そこに落ちている大きな釘を拾っている、その影がやはり十字架の形をしています。ベツレヘムからカルバリーまで、黙々と十字架を背負われたイエスの生涯を象徴すような作品です。
水野源三さんの「み心なのですか」という詩を紹介しました。「父なる神様、私たちを罪より救うため、ユダヤのベツレヘムに今宵お生まれになった御子イエス様を、十字架にかけるのがみ心なのですか。避けられないのですか。ちがう方法はなかったのですか。」源三さんは、そう問いかけながら、ベツレヘムとカルバリーをみごとにつなげました。救い主の降誕を待ち望み、お祝いするアドベントに、キリストの埋葬の話をしましたが、この話は本当につながっています。
ルカによる福音書の2章、羊飼いに与えられたしるしを覚えていますか。それはおとめマリアより生まれ、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている乳飲み子」ということでした。なぜそれがしるしだったのでしょうか。当時の家畜小屋(馬小屋)というのは、洞窟のような場所だったと言われていますが、ある洞窟は墓場としても使われていたというのです。そして、そこには遺体をくるむための布が置かれていたそうです。であるとすれば、イエスがくるまれていた布とは、貧しい両親が用意した産着というよりも、遺体をくるむための布であったのかも知れません。アリマタヤのヨセフとニコデモがイエスの埋葬に当たって、亜麻布にその体をくるんだように、イエスはあの夜、墓場で布にくるまれていたのです。

次の日曜日はアドベントの2週目。ロウソクの灯を見つめながらクリスマスを待ち望みます。

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み心なのですか




来年1月の『ぶどう樹』に瞬きの詩人、水野源三さんのことを書きました。今年もクリスマスのシーズンに源三さんの詩を聖歌隊が賛美しています。曲の雰囲気もありますが、歌われている歌詞がすばらしいです。源三さんの詩が醸し出す温もり、静けさ、安らぎ、星を見上げる宇宙大の広がり、そんな詩がどれも瞬きから生まれたとは誰が想像できるでしょう。
源三さんは、長野県坂城町で生まれ、小学4年生の時、集団赤痢からの高熱が続き、脳性麻痺となり、見ること聞くこと以外、何もできなくなりました。瞬きで、わずかに意思を伝えるだけの暗闇に突きおとされた源三さんは、何度も死を願いました。ところが、彼の母に手渡された一冊の聖書が、彼に光をもたらしたのです。母が仕事の合間にめくってくれる聖書を、彼は読み、やがてルーテル・アワーというキリスト教のラジオ番組を通して、信仰に導かれます。あるとき、彼の母うめじさんが、50音図を書いて、彼の瞬きが示す字を拾ってつなげてみると、なんとそれが詩になっていたというのです。
源三さんは詠います。「今きいたこと、見たこと、心に感じたこと、忘れないうちに、消えないうちに、主のうるわしいみわざを、賛美する詩をつくる」と。そんな一瞬の、瞬きの中から生み出された源三さんの詩、祈り、信仰の言葉、メッセージに心を洗われます。
クリスマスの季節に書かれた詩も多く見られますが、その一つを紹介します。「み心なのですか」という短い詩です。「父なる神様、私たちを罪より救うため、ユダヤのベツレヘムに今宵お生まれになった御子イエス様を、十字架にかけるのがみ心なのですか。避けられないのですか。ちがう方法はなかったのですか。」
ヨハネによる福音書を5年かけて、19章まで学んできました。のこり2章は年が明けてから、3月中に終わらせたいと思っていますが、もう少しだけキリストの埋葬に触れておきたいと思います。「アドベントにキリストの埋葬ですか?」と言われそうですが、ベツレヘムからカルバリーまで、そこに示された神の愛を発見したいと思います。

今週も大切なことを大切に。

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王の埋葬



かつて夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモもイエスの埋葬に加わりました。ある聖書注解者は「ヨセフの良き模範が、ニコデモの忠誠心を焚きつけたのであろう」と解説しています。彼は、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラ(およそ33キロ)持って来ました。没薬は、イエスの誕生の折に、東方の賢者が献げたものの一つですが、死者に塗る防腐剤であり、沈香は香料の一種です。彼らは十字架のもとでイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包みました。
「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い」と普通に記されていますが、イエスは冒瀆罪、反逆者との汚名を着せられ、罪人の一人として十字架刑に処せられました。通常では、死刑囚の遺体は粗末に扱われ、谷間に投げ捨てられて野獣の餌食になることもありました。罪人として処罰された者は、死んだ後も辱めを受け続けなければならなかったのです。ところが、アリマタヤのヨセフとニコデモの登場により、イエスはユダヤ人の埋葬の習慣に従い、しかも信じられないほど豪華な埋葬が粛々と執り行われたのです。
百リトラは33キロほどですが、ベタニヤのマリアがイエスの足に注いだ香油が、300デナリオンでした。1デナリオンが労働者の1日の賃金というのですから、ほぼ年収に相当しますが、ニコデモが持参した没薬の額は、その数百倍にもなると言われています。これほどおびただしい没薬、沈香、香料、亜麻布を用いて埋葬されたイエスとは、一体どなたなのでしょう。イエスこそ、まさにユダヤ人の王、いいえ、王の中の王(King of Kings)であったというのが、ヨハネがここで私たちに伝えたかったメッセージなのです。ヨハネによる福音書が伝えるイエスのご受難の物語を統べくくるに当たって、私たちはイエスをどのように礼拝するべきでしょうか。
パウロの言葉を借りましょう。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が(あなたの舌が)、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」アーメン。

次の日曜日から12月、教会のカレンダーでも待降節に入ります。クリスマスを待ち望むシーズンです。
今年のクリスマスは教会で。

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弟子となしたまえ



イエスの葬りについては、四福音書すべてに記されていますが、ヨハネの視点はユニークです。ヨハネは18章から長く続いた受難の物語をここで統べくくりますが、ここまでヨハネがくどいほどにこだわってきたフレーズがあります。「ユダヤ人の王」という言葉です。ローマ総督ピラトはイエスに対する審問において、何度も「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋ねました。ローマ兵が、茨で編んだ冠をイエスの頭に載せ、紫の衣をまとわせる場面でも、イエスは「ユダヤ人の王」と呼ばれます。極めつきは、十字架の上に掲げられた罪状書きです。そこには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。ヨハネが伝える葬り、彼は誰の葬りについて私たちに伝えようとしているのでしょうか。
イエスは午後3時に息を引き取られましたが、日没が近づいていました。日が沈むと、過越祭の特別な安息日が始まります。遺体をそのままにしておけなかったユダヤ人の指導者たちは、囚人の足を折るようにピラトに願い出ましたが、ここにもう一人、イエスの遺体のことでピラトのもとに出て行った人がいました。ヨハネは彼のことを「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」と紹介しています。ルカの福音書によれば、彼はユダヤの最高法院の議員であり、「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意していなかった。・・・神の国を待ち望んでいたのである」と記されています。マルコは、彼が「勇気を出して(口語訳では「大胆にも」)」イエスの遺体を渡してくれるように願ったと記しています。
まるで隠れキリシタンのように、自らの信仰をひた隠しにしていたヨセフが、ここに至ってイエスの弟子であることを明らかにし、勇気を奮い起こして大胆に立ち上がったのです。イエスの死が、イエスの弟子である彼を奮い立たせたのです。
「弟子となしたまえ、わが主よ。心の底より、弟子となしたまえ、わが主よ」と祈ります。

今週も大切なことを大切に。

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自分たちの突き刺した者を見る



イエスが十字架に付けられたのは過越祭の特別な安息日に入る準備の日でしたが、過越祭の安息日に、十字架に付けられた囚人の遺体を残したままにしておけなかったユダヤ人の指導者たちは、囚人の足を折ってから死体を取り降ろすようにピラトに願い出ました。ピラトがそれを承諾したので、兵士たちは、息の残っていた二人の囚人の足を折りましたが、イエスの足は折りませんでした。しかし、兵士の一人が、足を折る代わりに、槍でイエスのわき腹を突き刺すと、裂かれたイエスの御傷から、血と水とが流れ出たのです。それを証言するヨハネの意図は、それが聖書に書かれていることの成就であったという点にありました。「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある。」
「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」という言葉は旧約聖書ゼカリヤ書12章10節の引用ですが、ヨハネは黙示録の1章でも、この言葉に言及しています。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る。ことに、彼を突き刺した者どもは」と。
ゼカリヤ書12章には、終末におけるイスラエルの霊的回復のプロセスが示されており、終末の預言の中でも最も大切な箇所です。終わりの日に、エルサレム問題が、世界最終戦争の導火線となり、国々がエルサレムを攻撃します。その時、エルサレムを持ち上げようとする者は皆、致命傷を受けると教えられているように、神の特別な介入によって、イスラエルは奇跡的に救われるのです。そして、イスラエルの霊的回復が始まります。12章10節、「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。」真理の御霊である聖霊が注がれる時、何が起こるのでしょう。「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者である私を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」十字架の前夜、イエスが語っておられたように、聖霊は、罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかにし、彼らを十字架に付けられたキリストのもとに導くのです。かくして、ゼカリヤの預言は13章に続くのです。「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを清める一つの泉が開かれる。」裂かれたイエスの御傷は、罪と汚れを清める一つの泉となりました。

聖イエス会では11月23日を健康感謝の日と定め、神の恵みに感謝します。

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間を隔てている壁



昨日の礼拝、司会をしたH神学生が、先日参加した教会音楽部セミナーの恵みを証しした後、聖歌隊が「イェルシャライム・シェル・ザハヴ(黄金のエルサレム)」を歌いました。聖イエス会でこのイスラエルの歌がヘブライ語で歌われるようになったのはいつからかわかりませんが、1970年の3月に、神戸にあるシナゴグ(ユダヤ教の会堂)の献堂式祝賀会に、大槻先生と聖歌隊が招待され、そこで「イェルシャライム・シェル・ザハブ」を歌ったという記録が残っています。来年で50年になりますが、その頃からずっと歌い継がれている曲です。
今年はベルリンの壁が壊されて30年という話題がニュースになっていましたが、50年前の集会の後、大槻先生が「ユダヤ教とキリスト教との出会い」という意義深いメッセージを語っておられます。異邦人のクリスチャンが歌うヘブライ語の歌にユダヤ教徒が熱狂した様子は、ユダヤ教とキリスト教の断絶の壁を打ち破ったという内容です。メッセージはエフェソの信徒への手紙の言葉で終わります。「かつては遠く離れていたあなたがたが、今は、キリスト・イエスの血を通して近いものとされたのです。なぜなら、彼(キリスト)は私たちの平和、私たちの一致と調和のきずなであるからです。彼はユダヤ人と異邦人の両者を一つにして、私たちの間を隔てる壁である敵意を取りこわし撤去されたのです。そしてまた、ご自身の十字架によって一つのからだに統一されたものとしてユダヤ人と異邦人との双方を神に和解させようと意図されたのです。彼(キリスト)はその十字架によって相互間の不和を滅ぼされ、反目を終結させられたのです。」

今週も大切なことを大切に。

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その骨を折ってはならない



「彼の骨は一つも砕かれない」との御言葉は、詩編34編21節からの引用です。「主は彼の骨をことごとく守り、その一つさえ、おられることはない」(新改訳2017)。この詩編はダビデによるものですが、神が義人をお見捨てになることはないという確信が歌われています。確かにイエスは、人類の罪を背負い、呪われた者となり、父なる神から見捨てられるという経験を味わわれましたが、それによって、イエスの義が明らかにされました。父なる神の御心を実現するために、イエスは自分を無にして、死に至るまで、それも十字架の死に至るまでお従いになられたからです。
「彼の骨は一つも砕かれない」との言葉は、もう一つのことを私たちに思い起こせます。出エジプト記の12章です。そこには最初の過越のことが詳しく記されていますが、主の過越において、家々で屠られる小羊については、「その骨を折ってはらない」と命じられています。
ヨハネ福音書の冒頭で、メシアの先駆者である洗礼者ヨハネがイエスを何と言って紹介したか覚えていますか。ヨハネはイエスを指さしてこう言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。そして今、その骨が折られなかったという事実によって、イエスこそ過越の小羊、世の罪を取り除く神の小羊であることが証明しているのです。
あの夜、屠られた傷のない小羊とは、私たちの罪の身代わりとして、贖いの犠牲(供え物)として死なれるイエス・キリストを指していたのです。聖書はこう言っています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活(罪の奴隷)から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」

明日は志摩にあるテベリヤ教会の礼拝を豊田教会が担当してくださいます。
日曜日は尾道市向島にある立花教会でチェンバロコンサートが持たれます。

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ゴルゴタの丘で



ヨハネはイエスの最後の瞬間を十字架の言葉と共に証言しました。イエスは「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて(十字架を枕する所とされて)、その霊を父なる神に返されたのです。この後、他の福音書では、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた出来事を記すのですが、十字架のもとにたたずむヨハネは、カルバリー山上での出来事を更に詳しく伝えています。
その日は「準備の日」であったと記されていますが、それは安息日の準備の日という意味で、ユダヤ教では金曜日のことです。特にその翌日は過越祭の特別な安息日(大いなる安息日)でした。
ローマ法では、死刑囚の埋葬は禁止されていました。しかし、その日、ユダヤ人には、一刻も早く死体を十字架から取り降ろしたい事情がありました。ユダヤの律法では、日没を越えて囚人の死体をさらしておくことを許していなかったからです(申命記21:22-23)。ましてや、大いなる安息日が来ようとしているのですから、なおさらのことです。
イエスを十字架に渡したユダヤ人の指導者たちは、囚人の足(具体的にはすね)を折ってから死体を取り降ろすようにピラトに願い出たところ、ピラトはそれを承諾しました。すねを折るのは、死の時間を早めるためです。十字架に付けられた罪人は、長い時間をかけて最後は窒息して死にます。すねを折ると、体の支えがなくなり、呼吸ができなくなって死を早めました。
兵士たちは、息の残っていた二人の囚人のすねを折りましたが、イエスのすねは折りませんでした。イエスがすでに息をしていなかったからです。しかし、兵士の一人が、すねを折る代わりに、槍でイエスのわき腹を刺しました。すると、すぐ裂かれたイエスの御傷から、血と水とが流れ出るのをヨハネは目撃しました。
ヨハネが見た血と水にはどのような意味があるのでしょう。ある学者は、医学的な説明を試みています。兵士が、槍で死体のわき腹を突き刺した理由は、イエスの死を確認するためでした。その人物がまだ死んでいないなら、槍を刺した時に水と血が分かれて出てくることはないのだそうです。その学説によると、極度の精神的身体的苦痛のために心臓が張り裂けると、心臓を取り巻いている心膜に血液が流れ込み、透明な血清のそうと深い赤みを帯びた血の層が分離し、時には2リットル程の水と血が溜まるのだそうです。
そのような状況で、兵士がイエスのわき腹を槍で刺した時、ただちに血と水が流れ出たという報告は、2つのことを証言していることになります。1つは、イエスは確かに死んでおられたという事実。もう1つは、イエスが極度の精神的身体的苦痛を味わわれたという事実です。この医学的な解説が理にかなったものであるかはともかくとして、イエスのご受難について、深く考えるきっかけを私たちに提供していることは確かです。主の苦しみを覚えましょう。しかし、それ以上に、ヨハネが私たちに指し示していることがあります。それは、聖書に書かれていることの成就と言うことです。

今週も大切なことを大切に。

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枕する所



イエスは十字架の上で神の御心をすべて成し遂げられました。ヨハネは、このイエスの言葉を受けて、言葉を続けます。「イエスは・・・『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」ここでヨハネはとても注意深く、「頭を垂れて」と記しています。十字架の上で息を引き取ると、首をガクンと落とすような場面を想像される方もいると思います。しかし、この「垂れる」という言葉は、そういう意味の言葉ではありません。この言葉は、ギリシア語で「クリノー」と言いますが、マタイによる福音書9章では「枕する所」と訳されています。「イエスは言われた。『狐は穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子は枕する所もない』」と言うのが「クリノー」、「頭を垂れて」と同じ言葉です。
もともとは「傾ける」とか「横たえる」という意味ですが、イエスは十字架上で、実際に前か後ろか、左か右かはわかりませんが、頭を垂れたのでしょう。でもヨハネは、まるでイエスが首を後ろに静かに寝かせるように、十字架を枕にして、静かに息を引き取られたと私たちに伝えているのです。
宗教改革者マルチン・ルターがこう言いました。「キリストは何も持たずに来た。借りた家畜小屋でお生まれになり、借りた小舟の上で神の国を語り、借りたロバの子に乗り、借りた部屋で最後の食事をし、借りた墓に葬られた」と。そんなキリストがこの地上で唯一、これだけは自分のものだと主張されたものがあったとすれば、それはキリストが最後にその頭を横たえられた場所ではなかったのでしょうか。キリストはそこで私たちの罪の終わりとなり、救いの始まりとなってくださったのです。
ヨハネは十字架のもとにたたずみ、その愛のただ中で叫びます。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。・・・ここに愛がある」と。

さわやかな秋晴れが続いています。

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聴くドラマ聖書



10月31日と言えば、巷ではすっかりハロウィーンですが、教会では、あのマルチン・ルターが1517年にヴィッテンベルク城教会の扉に95カ条の提言(公開質問状)を貼り出した歴史が動いた日、世に言う「宗教改革記念日」です。中世において、聖書と言えばラテン語訳の聖書を指していた時代に、ルターは聖書をドイツ語に訳し、だれでも自分の言葉で読むことができるようにしたのです。ですから、宗教改革とは、当時の腐敗した教会へのプロテスタント(抗議)ではなく、聖書を読む運動、聖書に帰る運動であったということです。
読書の秋、しっかりと聖書を読んでいただきたいと思います。とは言え、活字離れが進み、なかなか本の売れない時代に、ぜひ皆さんに紹介したいものがあります。それが「聴くドラマ聖書」というアプリです。無料でスマホやタブレットにダウンロードして聖書を聴くことができます。聖書66巻がドラマ仕立てで朗読され、テレビなどでお馴染みの俳優さんが聖書を朗読しています。
コミュニティで聖書を聴くというバイブルクラブというプログラムもあって、日本中に聖書を広めようというすばらしい働きです。1年半の準備を経て、アメリカ、韓国に続き、日本でもこの秋、ついにリリースされました。
この壮大なプロジェクトは、一人のビジネスマンの挫折から始まったということが冊子に書かれていました。ウォールストリートで活躍していたビル・ファンが事業に失敗しました。葛藤の中、牧師の息子であった彼は、自分のルーツとも言える聖書のオーディオブックに手を伸ばして聴きます。すると落胆していた心に、聖書の言葉が沁みました。再び立ち上がる勇気を得た彼は、一つのビジョンを持ちます。聖書の言葉を聴くことによって、生きる力を得る聖書アプリを作る文化財団を立ち上げること。それを特に社会から疎外されている人に届けること。彼は、G&M(Grace and Mercy )Foundation、恵みと憐れみ財団を設立し、このアプリを完成させたのです。
財団の小冊子に細かい文字でこんなことが書いてあります。日本人の毎日の平均通勤時間は往復で79分。ドラマ聖書は全体で150時間、9000分。毎日通勤中に聴くと、100日程度で旧新約聖書をすべて聴くことができます。通勤通学の電車や車の中で、家事をしながら、ジョギングやウォーキングのあいまに、聖書に親しみ、聖書から神の声を聴く、これは新しい宗教改革なのかも知れません。ぜひお試しください。

今週も大切なことを大切に。

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