御創



昨日、今年の上半期最後の礼拝は、岐阜教会でメッセージを語らせていただきました。
以前、ブログでも紹介しましたが、新聞のコラムで読んだ「創」の話しから始めました。

「創」とは、不思議な字である。
「つくる、はじめる」との意味を持ちつつ、
「きず」という意味もある。
創造の創も絆創膏の創も同じ創なのだ。
詩人の吉野弘さんは、こう問い掛けた。
創造らしい創造をする精神は、そのいとなみに先立って、
何等かのきずを負っているのではないか。
きずを自らの手で癒そうとすることが創造につながるのではないか。
その好例が、植物の挿し木。
茎や枝を切って、地中にさし込めば、傷口から初々しい根が生えてくる。
このことこそ、きずが創造につながることを示す姿ではないか、
と詩人は書いた。

話しはまだ続くのですが、なるほどと思いました。
『十字架の黙想』の第1日に記されている聖イグナチオの「十字架に向かう祈り」を思い出します。

「願わくはキリストの魂、われを聖ならしめ、
キリストの体、われを救い、
キリストの血、われに浸透し、
キリストの脇腹より滴りし水、われを清め、
キリストの受難、われを強めんことを。
慈愛深きキリスト、わが願いを聞き入れ、
み傷の中に、われをかくし、
主より離れることを許し給わぬように。」

平成版では常用漢字の「傷」になりましたが、
文語版では「創」という漢字を使って「御創(みきず)」と読ませていました。
学生の頃から、ずっと気になっていた所ですが、ようやく腑に落ちました。
だれでもキリストの十字架の御創に接ぎ木されるなら、その人は新創造された者。
古いものは過ぎ去り、すべてが新しい。

今日から京都でもたれるセミナーに参加します。
今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

イエスに近寄り、ひれ伏して

礼拝メッセージ 「イエスに近寄り、ひれ伏して」宮本裕美師
聖書 マタイによる福音書8の1〜4

8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

本日、牧師は岐阜教会の聖会でした。
今週も礼拝の恵みに感謝します。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

尊い一粒の麦よ



聖イエス会の情報誌『あかしびと』で、「すばらしいクリスチャンたち」という連載が続いていますが、まもなく届く7月号に、今年は没後80年と言うことで、重利清子ちゃんのことが紹介されています。
「今年(2017年)は、重利清子ちゃん没後80周年にあたります。神を見、『平安』という言葉を遺して天に召された清子ちゃんの存在は、聖イエス会にとって『恩寵』そのものであるといえます」と書き出される文章を読みながら、聖イエス会に重利清子ちゃんを与えてくださった神に感謝の思いを新たにしました。
1929(昭和4)年、中国の瀋陽(当時の満州・奉天)で生まれた清子ちゃんは、生まれつき体が弱く、右足が不自由で、学校の行き帰りにはいつもいじめにあい、8歳にして、すでに生きることの苦しみと悲しみを味わっていましたが、教会に導かれ、聖書を通して、神の愛を知りました。1937(昭和12)年12月、風邪がもとで、床に伏していた清子ちゃんは、祈りの中で突然こう言って顔を輝かせました。「もうだいじょうぶ。清子はエス様を見たからうれしい!」と。その3日後の12月12日、「平安、平安、平安」と、3度くり返して、清子ちゃんは8歳と10カ月の生涯を終えて、愛し慕ったキリストのもとへ召されていきました。
清子ちゃんの言葉とその姿は、聖イエス会の創立者である大槻牧師を、神との出会いに導きました。そして今、御名による神との出会いの体験は、イエスを神の子メシアと信じる、私たち一人一人にも与えられているのです。大槻牧師は、清子ちゃんの葬儀に「一粒の麦」という告別説教を語り、最後にこう言っています。
「私たちは何のために選ばれ、召されたのか。それは『一粒の麦』となるためである。・・・私たちは、なぜ神の栄光を充分に現すことができないのか。それは、徹底的に自己を十字架につけて、全く死に切っていないからである。自分を捨て、十字架を負い、主に従うこれ以外に、神の栄光を拝する道は絶対にないのである。
清子ちゃんは、一粒の麦として散ったのである。・・・尊い、尊い一粒の麦よ! すでに種は地にまかれた。清子ちゃんは、清きが故に、良き種として選ばれ、神の栄光のためにまかれたのである。主は必ず、この尊い選ばれた一粒の麦を祝し、豊かな収穫を、リバイバルを与えてくださると、信じて疑わない。ああ、一粒の麦は地に落ちた。やがて春が来ると、この一粒の麦は芽を出し、多くの果を結ぶであろう。」

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

マリアは良い方を選んだ

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ルカによる福音書の10章から。

10:41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
10:42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

今日はマリア会主任セミナーの学びと恵みから、御言葉をシェアしていただきました。
夏に向かって、御言葉に立ち、小さなことを具体的に祈りましょう。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

ゲッセマネの祈りと主の祈り



「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」
「一粒の麦」の譬えを通して、ご自分の死と復活について語られたイエスが、突然、ご自分の心のうちを吐露されます。
この場面は、「ヨハネ福音書のゲッセマネ」と呼ばれる箇所です。ヨハネ福音書には、共観福音書に見られるゲッセマネの祈りが記録されていないのですが、ヨハネはその代わりに、「一粒の麦」の譬えに続けて、心を騒がせ、苦悶するキリストの姿をここに描きます。
十字架の前夜、ゲッセマネの園で、血の汗を流し、もだえ、七転八倒の苦しみを経験されたイエスは、全人類の罪が盛られた杯を前に、「この杯を過ぎ去らせてください」と願いましたが、同時に「私の願いのままにではなく、御心のままになさってください」と祈りました。キリストは、最初の人アダムの罪から始まり、カインの殺人罪、そして、最後の人の最後の罪に至るまで、全人類の(私の、あなたの)過去、現在、そしてこれから犯すであろう罪まで、すべての罪を背負い、一粒の麦となって死んでくださったのです。
私たちは、「御心がなりますように」と祈るようにしばしば教えられますが、それは「御名の栄光を現してください」との祈りでもあるのです。そして、それはイエスが教えてくださったあの「主の祈り」そのままです。「父よ、御名が崇められますように。御心が行われますように。」このキリストの心を心とできますように。

今日は地区の先生方の集まりが持たれました。ちょうど台湾の卓枝安牧師が亡くなられて50日目、卓牧師のことを親しく聞かせていただく時が与えられ感謝でした。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

一粒の麦(ヨハネ福音書のゲッセマネ)

礼拝メッセージ 「一粒の麦・その3」ヨハネ福音書のゲッセマネ
聖書 ヨハネによる福音書12の27ー31
ヨハネによる福音書シリーズ(82)

12:27 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。
12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
12:29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。
12:31 今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。

今週も礼拝の恵みに感謝。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

化学反応



アメリカのNASAでも働いていた韓国の科学者でキム・ヨンギルという方の証しを読みました。
彼は無神論者でしたが、神について知りたいと思い、聖書を開きヨハネによる福音書から読み始めました。最初のつまずきが、カナの婚礼の奇跡でした。彼の分析では、化学方程式がH20からC2H5OHエタノールに一瞬にして変わったということだが、元素を変化させるためには核融合が必要で、それは常温では起こり得ない。その後も、科学者目線での分析を続けますが、奥様やNASAで働く多くのクリスチャンたちの祈りによって、ついに彼も神のシントロピーを体験し、キリストを信じます。(シントロピーとはエントロピーの反対で、無秩序な状態から秩序ある状態への転換を言います。)それこそ水がぶどう酒に換えられるにも優る奇跡でした。聖会の恵みを噛みしめています。常温では起こりえない核融合、御言葉による化学反応が、私のうちにも起こりますように。

先日、聖会に来ていただいた竹内牧師は京都府の北部・綾部市にある教会の牧師ですが、次の日曜日はそちらの教会で、チェンバロコンサートが催されます。お近くの方がありましたら、ぜひお出かけください。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

ロゴスを習得する

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書の1章から。

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

今日はペンテコステ聖会の恵みをシェアした後、『あかしびと』のロゴス神学院開校70周年の記事を学び、神学院のためにみんなで祈りました。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

慰め主



ペンテコステの恵みに満ちた聖会を導いていただきました。新しく導かれている方々も、御名を呼びたくなるようなメッセージと証しで、祈りを受けながら、涙をぬぐっていました。御名を崇めながら、聖霊が心に深くしみ込みますように。
聖会前、今回の聖会のために祈っていると、聖霊が「慰め主」と呼ばれていることに目が開かれました。私たちが使っている聖書では、「弁護者」と訳され、多くの日本語の聖書で「助け主」と訳されている言葉です。詳訳聖書はさすがに超詳しいです。「しかし、慰め主〈助言者、助け主、とりなす者、弁護者、激励者、援助者〉、すなわち、父が私の名によって〈私の代わりに、私を代表し、私に代わって働くために〉つかわされる聖霊は、あなたたちにすべてのことを教えてくださる。また彼は私があなたたちに語った事をことごとく思い起こさせ〈思い出させ、記憶によみがえらせ〉てくださる。」イエス・キリストが「私の代わりにつかわされる聖霊」と言っているお方は、「慰め主」です。単に、可愛そうだねと言って同情するだけではありません。聖書学者のバークレーによれが、ラテン語の「フォルティス」は落胆している人に再び勇気を与える慰めと言う意味だと解説されていました。慰め主は、助言者であり、助け主であり、執りなす者、弁護者、激励者、援助者ですから、勇気をもたらす慰めが与えられるのです。ギリシャ語では「パラクレートス」、傍に引き寄せ、抱きかかえてくれる存在という意味です。英語で慰めを「comforter」、掛け布団と呼ぶのはそのためかも知れません。今週も慰め主である聖霊が共にいてくださいます。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

カナの奇跡 〜わたしはここにいる〜

ペンテコステ聖会
メッセージ 「カナの奇跡 〜わたしはここにいる〜」
聖書 ヨハネによる福音書2の11、イザヤ書48の9

2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。
それで、弟子たちはイエスを信じた。

58:9 あなたが呼べば主は答え
あなたが叫べば
「わたしはここにいる」と言われる。

午後はヨハネによる福音書の5章から、「ベトザタの池 〜いま水が動いている〜」と題してメッセージが語られました。
今週も礼拝の恵みに、そして聖会の恵みに感謝。

comments(0)  |  trackbacks(0)

edit  top

(C) 2017 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me