贖いの歌



モーセに率いられて出エジプトした200万の民。紅海の真ん中にできた乾いた道を幅約1キロ、対岸までの距離約5キロと想定すると、最初のグループが渡り始めてから3時間後に、ようやく最後尾の人たちが乾いた地に足を踏み入れる計算になるそうだ。最後の一人が渡り終えたとき、民の中に歓声がわき起こり、それがいつしか大合唱となっていつまでも続く。それが出エジプト記15章の海の歌だ。これは聖書に記録されている最初の賛美であり、ここに賛美とは救われた者たちだけが歌うことのできる贖いの歌であることを知る。
2012年もあっと言う間に1ヶ月が過ぎようとしている。今年、私たちの出エジプトの物語を書き続けながら、私たちも声の限りに歌おう。贖いの歌を。

モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌を歌った。
主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手を海に投げ込まれた。
主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。
この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。(出エジプト15の1〜2)

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あたらしい自由



恐れてはならない。・・・今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」
モーセは主の言葉を信じました。彼が大海に向かって神の杖を差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風を送られ、海は二つに分かれました。イスラエルの民は乾いた地面(海底)を踏みしめながら約束の地へと進んで行きます。これが出エジプト最大の御業です。今年、私たちの新しい出エジプトの物語にも、きっとこのような奇跡が起こるでしょう。
セシル・デミル監督の映画「十戒」は、異例な始まり方をします。本編が始まる前に、監督がステージの幕の間から表れ短い映画の解説をするシーンから始まるのです。セシル・デミル監督は出エジプト記を、次の短い言葉でみごとに表現しています。「これは自由の誕生です」と。
携帯電話のauの新しいCMを見ました。キャッチコピーは「あたらしい自由」です。人間にはいろいろな自由があるのだと思いました。しかし、クリスチャンにとって、ほんとうの自由とは何でしょうか。出エジプトのテーマが自由の誕生なら、今年私たちもあたらしい自由を体験するはずです。クリスチャンの自由とは、神を信じる自由です。神を愛する自由です。神を賛美し、神と共に歩む自由です。もし、私たちがもっと自由に神を信じられたら、もっとすごいことが期待できるのではないでしょうか。もし、私たちがもっと自由に神を愛することができたら、もっとすごいことが起こるのではないでしょうか。しかし、そうはさせない力が私たちを縛っているのです。私たちの出エジプトとは、その力からの解放であり、あたらしい自由の獲得なのです。
罪の力が今なおあなたを悩ませているのでしょうか。病があなたをベッドに縛り付け動けなくしているでしょうか。自分の性格や環境、人間関係があなたを苛立たせているでしょうか。過去の失敗や挫折、どこにも逃げ場のない現実が、あたらしい自由に向かって進もうとするあなたの行く手を遮っているでしょうか。目の前に大海があって、後ろには軍勢が迫って、どこにも逃げられない現実の真ん中で、今こそ主を見上げ、神の杖を上げるときです。

今日は松阪の聖書講座でした。昨日のニュース番組で、松阪の市役所の入口に設置されている「借金時計」のことが紹介されていました。国が借金を増やし続ける中で、松阪市は毎秒16円ずつ、市債を減らし続けているそうです。国政には期待しにくい時代に、若い市長さんの奮闘が頼もしく感じられました。今日はそんな松阪での集会でした。

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小さくても純金

今日の祈祷会で開かれた御言葉をシェアします。ゼカリヤ書の4章からです。

4:2 彼はわたしに、「何を見ていたのか」と尋ねたので、わたしは答えた。「わたしが見ていたのは、すべてが金でできた燭台で・・・
4:3 その傍らに二本のオリーブの木があり、一つは容器の右に、一つは左に立っていました。」・・・
4:11 わたしは言葉をついで御使いに尋ねた。「燭台の右と左にある、これら二本のオリーブの木は何ですか。」
4:12 わたしは重ねて彼に尋ねた。「その二本のオリーブの木の枝先は何ですか。それは二本の金の管によって、そこから油を注ぎ出しています。」
4:13 彼がわたしに、「これが何か分からないのか」と言ったので、わたしは「主よ、分かりません」と答えると、
4:14 彼は、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」と言った。

今日は伊藤先生がテベリヤ教会派遣の報告をしてくださいました。聖イエス会で最も小さな開拓の教会ですが、昨年の秋、視察に訪れてくださった長老の先生が、「小さくても純金に」と祈ってくださったことを話してくださり、ほんとうにそうだと思わされました。小さくても純金に・・・。報告の後、ゼカリヤ書から「黄金のメノラ」というメッセージを学ばせていただきました。

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何を見るか



十の災いの後、ファラオは遂にモーセとイスラエルの民をエジプトから去らせます。キリストの十字架を象徴する過越を経験したイスラエルの民は、400年という奴隷の生活にピリオドを打つことになったのです。主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを導かれました。ところが、イスラエルの民がエジプトを出たとの報告を受けたファラオは、またもやその心を変えて、自ら軍勢を率いて、イスラエルの後を追いました。そして、ついに葦の海とも呼ばれる紅海の前に宿営していたイスラエルの民に追いついたのです。それが出エジプト記の14章です。
イスラエルが宿営していた場所はちょうど袋小路のようになっていて、どこにも逃げ場のない所でした。ファラオは荒野が彼らの行く手をふさいだと思いました。目の前には紅海、後ろにはエジプトの軍勢、もうどこにも逃げられない、進退ここに窮まった時に、イスラエルの民が見たものと、モーセが見たものはちがっていました。イスラエルの民は、ファラオの軍勢を見、非常に恐れたと書かれています。そして、つぶやいたのです。「どうして、我々をエジプトから連れ出したのか」と。しかし、モーセは民に答えて言いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。」
困難の真ん中で私たちは何を見るでしょうか。多くの場合、困難ばかりに集中します。そして、恐れます。焦ります。苛立ちます。途方に暮れます。人を責め、自分を責めます。つぶやきます。しかし、右にも左にも、前にも後ろにも進めなくなったとき、私たちは見るものを変えるべきです。信仰の人はいつも天を見上げるのです。そして、主から来る救いを見るのです。「恐れてはならない。今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」

今日はこれから市内の家庭集会です。今月は家庭集会も出エジプト記からお話しさせていただいています。祝福がありますように。

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いま変えてください。



「明日」と答えたファラオ・・・。実は、私たちも彼と同じようなことをしています。自分にとってほんとうは望ましいはずの変化を、どういうわけか先延ばしにしてしまうのです。なぜでしょうか。私たちが自己満足に陥っているからかもしれません。あまりにも高慢なので変われないのかもしれません。変わったらどんなことが起こるかわからないので、変わることを恐れているのかもしれません。プライドが高すぎるのかもしれませんし、ただ頑固なだけかもしれません。いずれにせよ、いつも「明日」なのです。
NASAの宇宙エンジニアの話によると、ロケットの打ち上げに使われる燃料のほとんどは、打ち上げ直後の数秒で消費されると言います。発進するにはとてつもないエネルギーを必要とするのです。しかし、一度動き出して軌道に乗った後は、ずっと少ない燃料でロケットを制御することが可能になります。信仰の世界も同じです。本気になって「いま変えてください」と祈るにはとてつもない勇気が必要です。しかし、あとは神様がしてくださいます。
私たちはほんとうにカエルともう一晩過ごしたいのでしょうか。そうではないはずです。私たちを縛り続けて来た先送りという鎖から自由になる力を求めましょう。「主よ、私の人生をゆだねます。良いことも悪いことも醜いことも恥も、すべてをゆだねます。いま私を変えてください」と。

今年から教会でお勧めしているデボーションガイドとジャーナルを始められないでいた数名の方が、日曜日の礼拝メッセージを聞き、「今日から始めます」と言って、デボーションガイドを買って帰られました。主に感謝!

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カエルともう一晩



エジプトに戻ったモーセは、神の杖を手に様々なしるしを行いました。エジプトを襲った「十の災い」です。その一つ一つが、主にとっては、エジプトの異教の神々の無力さを暴露し、それを信じることのはかなさを知らせるためのものでした。たとえば、「ナイル川」はエジプト人にとって、命の源であり、まさに神でしたが、主はそれを血の色で染めてしまいました。また、エジプト全土を襲った「ぶよ」も「あぶ」も、エジプトでは信仰の対象となっている神々でした。神はそんなぶよとあぶを大量に集め、エジプト全土を襲わせたのです。「カエル」もそうです。主は、エジプト人が豊穣の神と信じていたカエルを使って、エジプト全土を襲わせました。その結果、王宮の寝室や食卓にまでカエルが入り込んだと聖書に記されています。ファラオの妻は悲鳴を上げ、カエルを追い払うように、しつこくファラオに迫ったことでしょう。ついにファラオは、モーセを呼び寄せて言いました。「モーセよ、もう十分だ。私の負けだ」と。そこでモーセは、「カエルがいなくなるように、私はいつ祈ったらよいのですか」と尋ねます。これに対するファラオの答えは、後世に語り草となるほど愚かなものでした。彼は「明日」と答えたのです。辺り一面にうごめいているカエルを目の前にして、明日まで待つとは正気の沙汰とは思えません。このファラオの言葉から、「カエルともう一晩」という有名な説教が語られているそうですが、彼はだれがどう考えてもプラスになるとしか思えない変化を先延ばししたのです。だれもが「カエルを今すぐ取り除いてください」とファラオが答えるにちがいないと期待していたはずなのに、彼は「明日」と答えたのです。

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1月のハッピーサタデー



1月のハッピーサタデーが21日(土)にもたれました。事後報告になり、すみません。
今月は「たいせつなきみ」シリーズのDVDを見ました。神様の気持ちがみんなの心に届きますように。
お楽しみタイムは、ちょっと早いですが、巻き寿司作りに挑戦。みんな上手に作れました。
今月も来てくれたお友だちに感謝。いつも来てくれてありがとう。

日曜日の教会学校には、チラシが入っていたという近所の方が3人のかわいいお子さんを連れて来てくださり、うれしかったです。
昨年の秋、アンネ展から続けて来てくださっている2人兄弟とお母さんもあり、感謝、感謝。

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あたらしい自由

メッセージ 「あたらしい自由」
聖書 出エジプト記14の13〜18ほか
Exodus2012シリーズ(3)

14:13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。
14:14 主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
14:15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。
14:16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
14:17 しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。
14:18 わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」

前回に続き、セシル・デミル監督の「十戒」から、今日の聖書箇所のワンシーンを見ていただき、メッセージを始めました。
今年、私たちの人生においても紅海が割れるような何かを経験させていただきたい。それはもう始まりつつある。

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you are my all in all




今日は音楽をお楽しみください。明日から聖歌隊で練習を始める曲です。
聖歌隊では、賛美歌166番「イエス君はいと麗し」とメドレーになった楽譜で取り組みます。


あなたはわが力
探し求めていた
すべてのすべて

何をあきらめても
求めますあなたを
すべてのすべて

イエス 麗しい神の小羊
イエス あなたを愛します

罪を取り除いて
新しい命を
すべてのすべて

弱いときに支え
乾くときに満たす
すべてのすべて

イエス 麗しい神の小羊
イエス あなたを愛します

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震える手



意を決してエジプトに向かう凛々しく勇ましいモーセの姿を聖書はこう描いています。
「モーセは・・・手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。」
でも私には神の杖を握るモーセの手がかすかに震えているように思えてなりません。

1984年の2月、大学進学を目前にした高校3年の冬のことです。それは聖イエス会にとって、特別な冬でした。愛の火を通されるような経験の中で、主が私たちに求められたことは「純金の燈台となる」ということでした。ここで言われている「純金」とは、神をすべてとするという意味です。献身をめざしていました。神にすべてを献げたいと願っていました。しかし、実際は多くのものに心を惹かれていた自分の現実に打ちのめされていたあの日、キリストは私の小さな愛を求めて語りかけてくださいました。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛するか」と。命じればだれも否むことのできないはずの御方が、何の経験も取り柄もない私のような者のささやかな愛を求めてくださったのです。「こんな私でもいいのですか。私はあなたを愛したいです。私のすべてをおささげしたいです。嘘ではありません」と、恐る恐る手を上げて、そう答えた私の手もかすかに震えていました。
しかし、そんな震える小さな手を主は求めておられました。あの日のモーセもそうだったにちがいありません。自らの小ささ、無力さを顧みず、「わたしはあるという者だ」と言われる御方だけを握りしめ、使命に立ち向かう人を主はいつの時代にも求めておられるのです。

この一週間、綴ってきたモーセの物語を岡山の聖会でも語らせていただきました。聖会後、毎日のように感謝のお便りやメールをいただいています。モーセの生涯は偉大で近づきがたいです。しかし、そんな彼の震える手に、みなさん共感を覚えてくださったようです。今年、私たちも震える手で神の杖を握ることができますように。そこから私たちの新しい出エジプトの物語が始まるのですから。

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