大寺院をつくっているのさ



経営学の父と呼ばれるピーター・ドラッカーのマネジメントから。

3人の石切り工の昔話がある。
彼らは何をしているのかと聞かれたとき、
第一の男は、「これで暮らしを立てているのさ」と答えた。
第二の男は、つちで打つ手を休めず、「国中でいちばん上手な石切りの仕事をしているのさ」と答えた。
第三の男は、その目を輝かせ夢見心地で空を見あげながら「大寺院をつくっているのさ」と答えた。

あなたは今そこで何をしていますか。
あなたはビジョンとミッションを持っていますか。

次の日曜日は舞鶴教会でメッセージを語らせていただきます。
久しぶりの山陰での集会です。

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愛による変容

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
イザヤ書35章とゼファニア書3章から。

35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。

ゼファニア書
3:17 主はお前のゆえに喜び楽しみ
愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。

今週は京都の新年聖会で語られたメッセージを学びました。
愛によって砂漠を花咲く主の園に変えてくださることを感謝します。

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新しい人生の開花

新年聖会メッセージ
午前「新しい人生の開花」松田泰治牧師(明の星教会)
聖書 イザヤ書35章1-4節、ヨハネによる福音書4章3-26節、28-30節、39節

午後「砂漠よ、喜び、花を咲かせよ」
聖書 イザヤ書35章1-6節、43章19-20節

35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
35:2 花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

35:3 弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
35:4 心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」

35:5 そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。

43:19 見よ、新しいことをわたしは行う。
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道を敷き
砂漠に大河を流れさせる。
43:20 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。
荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ
わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。

新年聖会の恵みに感謝。

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見て、信じた



十字架から三日の朝を迎えました。ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアという一人の女性の視点を中心に、その朝の出来事を描いています。彼女のことについては改めて紹介したいと思いますが、彼女は十字架のもとに最後まで立っていた女性たちのリストに名が残されている人物です。その彼女が、アリマタヤのヨセフの墓に葬られたイエスのもとに、まだ暗いうちに、他の婦人たちよりも早く到着しました。彼女は、墓の入口を塞いでいた石が取りのけてあるのを見て、シモン・ペトロと、イエスが愛しておられたもう一人の弟子(ヨハネ)のところへ走って行って、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わかりません」と伝えました。そこでペトロとヨハネも、イエスが葬られた墓へ走って行きます。
ヨハネの方が早く着きました。土地勘があったからでしょうか。若かったからでしょうか。これはある意味でどうでもいい情報ですが、ヨハネはあの朝の出来事を昨日のことのように思い出しながら、リアルに記しているのです。
遅れて着いたペトロが先に墓に入りました。彼は、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見ました。しかし、「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じところに置いてなく、離れたところに丸めてあった」と記されています。「亜麻布」とは、白い布を細く裂いた包帯のようなもので、これで死体を巻きました。「頭を包んでいた覆い」は、もっと幅の広い布地で、タオルか風呂敷のようなものであったと思われますが、それで頭を(顔を)覆っていたのです。
ここで「丸めて」と訳されている言葉ですが、ある聖書では「包んだままの形になっていた」と訳しています。これは、顔をくるみ胴体を巻いていたそれぞれの布が、巻いたままの状態で、首の長さだけ離れて、遺体を寝かせていた場所に残されていたという状況です。イエスの体だけがなくなり、包帯はもぬけの殻だったのです。また別の聖書は「折り目正しくたたんであった」と訳しました。これは、着ていたものを脱ぎ捨てるのではなく、亜麻布と覆いがそれぞれの場所に、きれいにたたんで置いてあったという状況です。
ペトロがその状況をまだ理解できないでいる時、先に墓に着いたもう一人の弟子(ヨハネ)も入って来て、「見て、信じた」と書かれています。イエスの体を巻いていた亜麻布が巻いたままの状態で残っていたとしても、きれいにたたんで置いてあったとしても、それは普通ではありません。何かが起こったのです。それを悟ったヨハネは信じたのです。まだすべてが理解できたわけではありませんが、信じたのです。空になった墓も、そこに残された亜麻布も、それはイエスの復活を証ししていました。

次の日曜日は、新年聖会です。豊田、岐阜、志摩の教会と合同の集会になります。

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生きるとはキリスト

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
フィリピの信徒への手紙1章から。

1:20 そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。
1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

今週は神学生のメッセージ。『言泉集』7巻から、フィリピの信徒への手紙の総集編。

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主の園とされる



イザヤ書とヨハネによる福音書は、旧新約聖書の双璧であって、キリストの神性が見事に描き出されています。イザヤ書は66巻からなりますが、聖書が旧約39巻、新約27巻、合わせて66巻から成るように、イザヤ書も39章までの前半と40章以降の後半27章に分けることができます。
40章からは非常に福音的な、新約の光、あちらこちらに見られるようになりますが、今年の標語35章も非常に福音的な箇所です。直前の34章においては、諸国の民を代表するエドムへの神の容赦ない裁きを見ますが、一転、35章では神の民にもたらされる栄光の回復が美しい賛美のように歌われています。
1節の最後の行に「野ばらの花を一面にさかせよ」とありますが、口語訳聖書で養われて来た方なら、ここは「さふらん」と訳してほしいところです。フランシスコ会訳は「水仙」と訳し、岩波訳は「百合」と訳していますので、特定することは難しいのですが、荒れ野が、荒れ地が、砂漠が、一面美しい花で彩られる光景を想像してください。これこそ、イザヤ書51章3節に、「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と歌われている光景です。
2節の後半には、「レバノン」「カルメル」「シャロン」というパレスチナ地方の地名が出てきます。レバノン山は空中高くそびえ、その頭には万年雪を冠のようにいただき、白銀に輝く姿は雄大です。このレバノン山でとれる杉の木はエルサレムの神殿建設にも用いられました。またレバノン山の雪どけの水は、ヘルモン山と共に、中東一帯を潤します。これがレバノンの栄光です。
カルメル山は、地中海に面し、森林の緑豊かな場所です。旧約聖書では、預言者エリヤによって知られる場所で、バアルの預言者と対決し、神の火を呼び下したのも、大雨を降らせたのもこの場所でした。さらにシャロンの野は百花繚乱、春が来ると野の花が一面を彩る、あたかもエデンの園のような場所です。それはいずれも筆舌に尽くしがたい神の麗しさと輝きを表しています。これがカルメルとシャロンの輝きです。
この栄光と輝きを、主は私たちに約束してくださっているのです。これはイエス・キリストの十字架のあがないがもたらす絶大な効果です。「イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主にはいつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。」

今週も大切なことを大切に。

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園から園へ

礼拝メッセージ 「園から園へ」
聖書 イザヤ書35章1-2節、ヨハネによる福音書20章1-10節
ヨハネによる福音書シリーズ(184)

35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。
野ばらの花を一面に咲かせよ。
35:2 花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

20:1 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:2 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
20:3 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。
20:5 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。
20:6 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
20:8 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。
20:9 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
20:10 それから、この弟子たちは家に帰って行った。

今週も礼拝の恵みに感謝。成人祝福式も感謝でした。

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この瞬間に自分を置く



ヨハネの黙示録は、新約聖書の最後の書であり、聖書全巻の最後にある書です。黙示録は「イエス・キリストの黙示」という言葉で始まりますが、この書の最後に改めて、「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした」と、この書を朗読する者に、この黙示の出所は私であると宣言された上で、「わたしはダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」と御名が示されています。
「ひこばえ」とは、樹木の切り株や根元から生えてくる若芽のことです。イザヤ書の11章にはメシアにつて、「エッサイ(ダビデの父)の株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」と預言されていますが、「ダビデのひこばえ、その一族」も同様に、ダビデ王の子孫から生まれて来るメシアのことを指しています。そればかりではなく、パウロはローマの信徒への手紙の冒頭にこう記しています。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです。」
さらに「明けの明星」とは、夜明け前に東の空に輝いて見える金星のことですが、イエス・キリストこそ、世界に希望の朝を告げる明けの明星なのです。世界は暗く闇に覆われていますが、やがて朝が来ます。大切なことは待つことです。
カトリックの司祭ヘンリ・ナウエンは『待ち望むということ』の中に、待ち望むことの積極性について、次のように記しています。
「私たちの多くは、待つことはとても受け身的であり、自分たちのまったく手の届かない出来事によって決定される希望なき状態であるかのように考えます。それはまるで、遅れているバスを待っているような状態です。あなたにできることは何もありません。ただじっと待つしかありません。いらだっている人が『じっと待っていなさい』と言われたらどう感じるか容易に想像できます。こうした言葉は、私たちを受身の状態に落ち込ませるかのように思えます。
しかし、こうした受け身的な人物は聖書のどこにも見当たりません。待っている人々は、とても積極的に待っています。彼らは、待ち望んでいるものが、自分たちが今依って立つ場で育ちつつあることをよく知っていました。ここに秘訣があります。
待つことの秘訣は、種はすでに蒔かれており、そこに何ごとかが始まっていると信じることです。積極的に待つとは、自分のいるところで何ごとかが起こっていることを確信しつつ、それゆえ、そこにいたいと願い、今のこの時にしっかりと自分を置くことです。待ち望む人は、今この瞬間に自分を置き、この時こそ、かけがえのない時であることを信じます。」

やがて東空に明けの明星が輝くまで、待ち続けましょう。今この瞬間に自分を置きながら。

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来たるべき方

新年最初の祈祷会。今年も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。イザヤ書35章とマタイによる福音書11章から。

イザヤ書35章
35:1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
35:2 花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

35:3 弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
35:4 心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」

35:5 そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで
荒れ地に川が流れる。

マタイによる福音書11章
11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」……
11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

今日は1月9日。原点に立つ。

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夜明けを待つ

新年オープン礼拝
メッセージ「夜明けを待つ」
聖書 ヨハネの黙示録22章16-21節

22:16 わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」
22:17 “霊”と花嫁とが言う。「来てください。」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。
22:18 この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。
22:19 また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。
22:20 以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
22:21 主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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