歓喜、狂喜、陶酔、有頂天



イエスがよみがえられた日の昼下がり、エルサレムを離れ、エマオへの道を急いでいた二人の弟子がいました。その後を追いかけるかのように、もう一人の旅人が二人と一緒に歩き始めます。夕暮れとなり、三人は宿を共にしますが、食卓に着き、旅人がパンを裂いている時に、二人の目が開け、それがイエスであることがわかったのです。二人は、燃える心をもって、今来た道を引き返し、エルサレムに留まっている弟子たちのところに帰って行きました。
弟子たちは、おそらく最後の晩餐を行ったエルサレムの高殿(マルコの家)に集まっていたと思われますが、そこに二人の弟子が飛び込み、主の復活を証ししました。ヨハネが、マグダラのマリアの記事に続き、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」と書き出したのはこのタイミングであったと思われます。彼らはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていましたが、そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。イエスは十字架の上で受けた手と脇の傷を弟子たちにお見せリなりました。すると「弟子たちは主を見て喜んだ」と書かれています。
詳訳聖書はこう訳しています。「弟子たちは主を見て喜び<歓喜、狂喜、陶酔、有頂天>に満たされた。」欣喜雀躍する弟子たちの姿が生き生きと描かれているところです。復活であり命であるキリストこそ、私たちの喜びの源泉です。
キリスト教の中心、エッセンスは、キリストの十字架と復活です。別の言葉で言えば、十字架によって罪を赦された平安と、死の力が打ち破ぶられた驚きです。平安と驚き、キリスト教の原点です。
あなたは今日、絶望の真ん中に座り込み、戸を閉じて引きこもっているのですか。それであるなら、あの日の弟子たちと同じです。しかし、そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「安かれ」と言われた。私たちも今日、この平安と驚きの神に出会うことができるのです。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。<歓喜、狂喜、陶酔、有頂天>に満たされた。今週も平安と驚きの日々でありますように。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  -

edit  top

神の息吹

礼拝メッセージ「神の息吹」
聖書 ヨハネによる福音書20章19-23節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(187)

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

創世記
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。

今週も礼拝の恵みに感謝。

comments(0)  |  -

edit  top

わたしにすがりつくのはよしなさい



マグダラのマリアが「ラボニ(先生)!」と言いながら、イエスにすがりつこうとしましたが、イエスは言いました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」と。
この後、他の婦人たちに現れた時にも、トマスの前に現れた時にも、イエスはご自分の体に触れることを許しておられます。どうして、マリアには許されなかったのでしょうか。様々な解釈がなされるところですが、御言葉を見る限り理由は2つです。まず、「まだ父のもとへ上っていないのだから」ということでした。つまり、復活されたとは言え、この地上にあるイエスの体に、目に見えるものにすがり続けようとする態度への戒めです。彼女の場合、イエスを愛するあまり、目に見えるものへの強いこだわりや執着があったのかも知れません。しかし、大切なのはイエスの御名です。御名こそ神のありのままの姿だからです。エマオ途上の弟子たちのように、あなたの心の目が開かれ、御名が実体であることがわかった時に、あなたはありのままの主を、ありのままに体験し、手触っているのです。だからヨハネは言いました。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの・・・すなわち、命の言について・・・あなたがたに証しし、伝えるのです」と。
イエスが「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われた、もう1つの理由は、彼女に与えられた特権と使命のためです。イエスは言われました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」イエスはここで弟子たちのことを兄弟と呼び、私の父はあなたの父、私の神はあなたの神という新しい関係が、十字架と復活を通してすでに始まっていることを彼女に伝えてほしかったのです。
イエスのこの意味深長な言葉を2つの動詞で要約することができます。「Go and Tell(行って伝えなさい)」です。そこで、「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『私は主を見ました』と告げ、また、主が言われたことを伝えた。」彼女を、別名「使徒たちへの使徒」と呼ぶのはこのためです。さあ、私たちも行って伝えましょう。私たちの主イエス・キリストは今も生きておられます。

Happy Valentine’s day!

comments(0)  |  -

edit  top

この命の言葉を語れ(2)

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
使徒言行録1章から、『この命の言葉を語れ』シリーズ(2)。

1:1 -2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。
1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。
1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。
1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

今日は2月13日。愛の御霊の豊かな注ぎを求めます。

comments(0)  |  -

edit  top

贖いの座



少し旧約聖書から話しをさせてください。「契約の箱」の話しです。イスラエルの民にとって、それは神の臨在をあらわすものでした。エジプトを脱出し、荒れ野を旅したイスラエルの中心にあった幕屋の至聖所に置かれていたのがこの箱です。箱の中には十戒の石板、芽を出した祭司アロンの杖、マナの入った壺が納められていました。十戒は神の言葉、戒めです。芽を出したアロンの杖は、復活と神に選ばれたもののシンボルであり、マナの入った壺は、主の備えといのちのシンボルです。どれも神の恵みにほかなりませんが、角度を変えて見ると、イスラエルの民にとっては、どれも神のテストに失敗した、不従順の象徴でもありました。
十戒が与えられたその日、イスラエルの民はモーセの帰りが遅いと言って、金の子牛を造って拝み始めました。偶像礼拝です。彼ら、再三、モーセとアロンのリーダーシップに逆らい、神の怒りを招きました。不従順です。さらに、40年に渡る荒野の旅路において、彼らは日々の備えを信じることができず、次の日の分までマナを蓄え、神に打たれました。不信仰です。
ところで、この契約の箱の「箱」という言葉が、最初に聖書に出て来るのは、創世記の最後の節、50章26節です。エジプトの宰相となったヨセフは、自分が死んだら、その骨を約束の地に携え上ってほしいと子どもたちに命じますが、その言葉どおり、ヨセフの子どもたちは彼のなきがらを「ひつぎに納めた」と書かれています。この「ひつぎ」という言葉が「箱」と同じ言葉です。ですから、契約の箱というのは、そもそも「ひつぎ」というコンセプトであったということになります。契約の箱の中には納められていた神の恵みのシンボルは、イスラエルの民にとっては不信仰と不従順の象徴であり、それはやがて死につながり、ひつぎの中に葬られる運命となったのです。
そこで「贖いの座」が必要になります。契約の箱の上には、「贖いの座(the mercy seat)」と呼ばれる蓋があり、ケルビムと呼ばれる翼を広げた天使が両側に置かれていました。一年に一度、大いなる贖いの日に、大祭司が至聖所に入り、罪を償う供え物として動物の血を、この「贖いの座」に注ぎかけたのです。そのことによって、イスラエルの民の不義は赦され、その罪は贖われたのです。
ヨハネによる福音書の復活の記事に目を向けましょう。「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、一人は足の方に座っていた。」イエスの体が置かれていた場所、つまり棺の両側に座る天使と言えば、何かを思い出しませんか。契約の箱です。ここではイエスが葬られていた場所が棺であり、主の契約の箱を表していたのです。ケルビムが贖いの座の両側にいたように、天使は、イエスが血を流し、死んで葬られた場所の両側に座っていました。マリアはそれを見ました。そして振り向くと、そこにイエスがおられたのです。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  -

edit  top

Go and Tell

礼拝メッセージ 「Go and Tell(行って伝えなさい)」
聖書 ヨハネによる福音書20章15-18節
ヨハネによる福音書シリーズ(186)

20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

今週も礼拝の恵みに感謝。

comments(0)  |  -

edit  top

振り向くと



マグダラのマリアである私たちは、墓の前に立ち、死に向かって対峙し、泣いています。よく考えてみると、社会全体が泣いています。聞こえてくるニュースが泣いています。園の墓の前に立っては、だれも罪の支払う報酬である死から免れることができないのです。しかし、決定的なニュースが私たちに届けられました。それは、私たちの後ろに立っている方がいるというニュースです。この方は、十字架で死んで葬られ、陰府に下り、3日目に死人の中からよみがえってくださいました。そんな話し、にわかには信じられませんか。それなら、マグダラのマリアと同じです。彼女もまさかイエスがよみがえったとは思わないで、泣き続けていました。でも私たちが信じる前から、すでに死の力を打ち破った方は、あなたの後ろに立っておられたのです。あとはただ、マリアと同じようにふり返ればいいのです。
マタイ福音書18章3節、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天国に入ることはできない。」この「心を入れ替えて」という部分、これが「振り向く」と同じ言葉です。キリスト教というのは、そんなに難しいものではありません。ただ心を入れ替え、方向転換すること。声の聞こえる方に振り向けばいいのです。
イザヤ書30章21節にはこんな言葉があります。「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。『これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け』と。」あなたも聞いてください。背後から語られる声を。
過去に許されない過ちを犯し、自分を責めている方がいるでしょうか。「父よ、彼らをお赦しください。何をしているのかわからないのです。」「子よ、安心しなさい。あなたの罪は赦された」という声が聞こえるでしょう。他人を責め、絶対に許させない、愛せないという人がいますか。「わたしがあなたを愛したように、互いに愛し合いなさい」との声が聞こえてきます。人生、これで終わりだ。生きる力も希望もないという方。愛する者を失って涙が止まらない方。あなたの後ろに立つ御方がこう言われます。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。」さあふり返ってください。振り向けば、そこにイエスがおられます。

comments(0)  |  -

edit  top

この命の言葉を語れ(1)

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
使徒言行録1章から。

1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

昨年出版された『この命の言葉を語れ』を祈祷会で学ぶことにしています。
教会が使徒言行録のようになれますように。

comments(0)  |  -

edit  top

七つの大罪



2009年、ガリラヤ湖畔の町マグダラで驚くべき大発見がありました。今まで7ヶ所しか見つかっていないイエス時代のシナゴグの遺跡が発見されたのです。イエスが活動されたガリラヤ湖畔に建っている会堂ですから、イエスが来られたことはまちがいないでしょう。マグダラのマリアの出身地ですから、彼女もそこを訪れたことがあったでしょう。現在そこに素敵なチャペルが建てられています。
ところで、マグダラのマリアとは、どんな女性だったのでしょう。聖書は7つの悪霊を追い出してもらった女性であったことを明記しています。マルコとルカの2つの福音書にそう書かれていま。ルカ福音書では8章に出てきますが、その直前の7章の最後に、罪の女と呼ばれる女性が出てきます。イエスに香油を注いだ女性です。ある聖書学者は、この女性これマグダラのマリアであろうと考えます。つまり、7つの悪霊に取りつかれる背後に、それだけの罪深い過去があったと言うことでしょうか。彼女は、自分の力ではコントロールできないほど、過ちをくり返してしまう、弱くてもろい存在であったのです。などと人事のように言っていますが、マグダラのマリアとは誰のことでしょうか。
カトリック教会では、イエスが語られた人間の心から出てくる罪のリストを整理して「七つの大罪」ということを教えます。暴食、色欲、強欲、憤怒、怠惰、傲慢、嫉妬。これを見て、自分には当てはまらないから大丈夫と言える人はいないと思います。さらにカトリック教会は、「現代の七つの大罪」ということを2008年に発表しています。遺伝子改造、人体実験、環境汚染、社会的不公正、貧困、過度な裕福さ、麻薬中毒。ここまで来ると、個人の罪というよりも、社会全体の罪です。この罪の文化の中に縛られ、その中に生きる私たちは、もはやこの問題から逃れることができないということなのでしょうか。
ほんとうは神の像に造られ、美しいエデンの園で幸せに生きていた人間が、今や見る影も無い、罪に汚染された、醜い心を隠し持って、いいえ、もう隠しきれない世界で生きているのです。この園の墓の前で泣き続けている現代のマグダラのマリアとは私のこと、私たちのことなのです。もし、それを認めることができないというなら、それこそ七つの大罪のひとつ、傲慢なのではないでしょうか。

今週も大切なことを大切に。

comments(0)  |  -

edit  top

振り向くと、イエス

2月のオープン礼拝
メッセージ 「振り向くと、イエス」
聖書 ヨハネによる福音書20章11-16節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(185)

20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

イザヤ書
30:21 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け」と。

今週も礼拝の恵みに感謝。

comments(0)  |  -

edit  top

(C) 2020 ブログ JUGEM Some Rights Reserved.
Join me on Facebook Follow me on Twitter Subscribe to RSS Email me