特別なことをするために



愛工大名電を卒業し、オリックスに入団。3年目に日本記録を塗り替える210安打を記録し、その年から前人未踏の7年連続の首位打者となり、ついにメジャーへ。メジャーでもデビューの年から、9年連続で200本安打を記録。積み重ねたヒットは日米通算4367安打。イチロー選手の引退が発表されました。輝かしい数々の記録もさることながら、印象的で含蓄のあるコメントも魅力的でした。そんなイチロー語録から。

特別なことをするために、特別なことをするのではない。
特別なことをするために、普段どおりの当たり前のことをする。

天才とは言われますが、努力すること、基本に帰ることの天才であったイチローならではの言葉です。最近、原点に帰ると教えられていますが、それは後戻りすることではなく、特別なことのために必要なことなのです。

今週も大切なことを大切に。

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主のもとに帰ろう

礼拝メッセージ 「主のもとに帰ろう」
聖書 ヨハネによる福音書18章19-24節ほか

18:19 大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。
18:20 イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。
18:21 なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」
18:22 イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。
18:23 イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」
18:24 アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。

ホセア書
6:1 さあ、我々は主のもとに帰ろう。

今週は年会聖会の恵みをおわかちし、ヨハネ福音書からも短く学びました。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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植えられた場所



「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 」
神の選びはほんとうに不思議です。パウロは、その晩年「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」と書簡に記しています。
私たちは、この神の永遠の愛による選びがよくわかっていません。キリストが語られた「わたしがあなたがたを選んだ」という言葉を、詳訳聖書では「私があなたたちを選んだ<植えた>のである」と訳していました。Bloom where God has planted you.(神が植えられたところで咲きなさい)です。カトリックのシスター渡辺和子先生は、「咲く(実を結ぶ)ということは、仕方がないと諦めるのでなく、笑顔で生き、周囲の人々も幸せにすることなのです」と言っています。新しいシーズンが始まります。神の選びに感謝し、置かれた場所、植えられた場所で、豊かな実を結ばせていただければ感謝です。

この春、教会でもプライベートでも、小さな変化が生じていますが、植えられた場所で、神の選びに応えさせていただきたいです。

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あなたはわたしを愛するか

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
ヨハネによる福音書21章ほか。

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。・・・
21:19 このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

ヨハネの手紙一
4:16 神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

京都でもたれた聖会のメッセージをDVDで学ばせていただきました。
原点、初めの愛、主のもとに帰ることができますように。

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選ばれてここに立つ

メッセージ 「選ばれてここに立つ」dvd
聖書 ヨハネによる福音書15章11-17節

15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

詳訳聖書
15:16 あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだ<任命した、植えた>のである。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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英雄であったから



ヨハネが伝えるペトロの第1の否認の箇所に、バークレーは「英雄と臆病者」というタイトルを付けて、次のような解説をしています。

こうしてペトロは、大祭司の庭で主を否んだ。ペトロほど説教者や注解者たちによって、不当に取り扱われてきた弟子はいない。この物語で強調されることは、いつでもペトロのしくじり、ペトロの恥である。だが私たちが忘れてはならないことがいくつかある。他の弟子たちは、ヨハネを除いて、イエスを見捨てて逃げて行った。ペトロのしたことを考えて見よ。ゲッセマネの園で、敵を向こうに回し剣を抜いたのは彼だけであった。彼は勇敢な弟子であった。他の者がみな逃げ去ってもイエスの近くにいたその勇気。
ペトロについてもっと注目されて良いのは、彼のしくじりが、この上ない勇気を持った男にしてはじめて起こり得たしくじりであった、という点である。たしかに、ペトロは失敗した。だか彼は、他の弟子たちならあえて直面しようとさえしなかった状況の中で、失敗したのである。彼が失敗したのは、彼が臆病者だったからではなく、彼が英雄であったからである。
…おそらく、否認の物語は程なく知れわったことであろう。伝説に寄れば、ペトロが通ると人々が鶏の鳴き声を真似たというのは、おそらくほんとうであろう。ペトロは自分を償うこと、すなわち失敗から出発して真の偉大さに到達するための(英雄になるための)勇気とねばりを持っていた。
問題の核心は、二階部屋で忠誠を誓ったのが真実のペトロだったということである。ゲッセマネの園の月明かりの中で、ひとり剣を抜いたのが真実のペトロだったということである。自分の主を残して去ることができず、遠くからでもイエスに従ったのが真実のペトロだったということである。緊張に押しひしがれ、主を否認したのは、真実のペトロではなかった。そして、それがまさにイエスの理解するところであった。
イエスについて目を見はらざるを得ないことは、失敗だらけの私たちの奥底に、真実の私を見てくださることである。イエスが私たちを愛してくださるのは、私たちの現状のゆえではなく、可能性として私たちが持っているもののためである。イエスのゆるしと愛はどこまでも大きい。

ルカのカメラは、ペトロが三度主を否んだ後の一瞬を捉えて、こう伝えています。「主は振り向いてペトロを見つめられた」と。イエスの眼差しは、あの日と少しも変わっていませんでした。ヨハネ1章42節、「イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(ペトロ)と呼ぶことにする。』」
イエスは今日もほんとうのあなたを、あなたのうちにいる英雄を見ておられます。

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キリストに倣う

今週も祈祷会を大切に。
御言葉をシェアします。コリントの信徒への手紙11章から。

11:1 わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。

わが神よ、わがすべてよ。

今週も京都での聖会のために祈りを積みました。

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愛が冷めると



ゲッセマネでの逮捕の後、イエスはアンナスのもとに連行されました。大祭司の官邸の一室と考えるのが自然のように思います。ヨハネはアンナスによる予備審問と並行して、よく知られたペトロの否認を2箇所に分けて記録しました。前半は、第1の否認だけが記されています。ペトロともう一人の弟子とは、師を捨てて逃げ出した自分たちの行為を恥じ、引き返して、イエスに従いました。このもう一人の弟子とは、伝統的にヨハネ自身と考えられています。彼は大祭司の知り合いだったので、屋敷の中庭に入って行くことができたということが記されていますが、詳しいことはわかりません。彼が、門の外に立っていたペトロを、屋敷の中に招き入れましたが、その親切が仇となり、事件が起こります。薄明かりに、ペトロの顔を見た門番の女中が「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と声をかけてきたのです。ペトロは咄嗟に、「違う」と答えて顔を背けます。春に巡ってくる過越祭、まだまだ夜が更ける時間は花冷えがしていたようで、僕や下役たちが炭火をおこし、火に当たっていました。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたりました。それは、いかにも自分はこちら側の人間であると言わんばかりの行動でした。
ルカのカメラに切り替えます。ルカは、その辺りの様子をこう描きました。「ペトロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。」ヨハネは立っていたと書き、マタイやルカは座っていたと書いています。詩編の1編1節にこう記されています。「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。」
『十字架の黙想』にこう記されています。「信仰が冷めると心に満足が無く、主から遠ざかると、必ず世俗の中に代わりのものを求めるようになる。愛が冷めると、体まで寒さを感じ、彼は座り込んで火にあたたまっている。主を離れてどこに満足があるだろうか。主のために苦しむことなしに、どこに真の喜びがあるだろうか。わたしたちの霊魂を暖めるものは、愛に燃える主以外にはない。キリストだけで充分である」と。
わが主イエスよ、ひたすら祈り求む愛をば、増させたまえ、主を愛する愛をば!愛をば!

3.11から8年、大切なことは、忘れないこと。
今週も大切なことを大切に。

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英雄か臆病者か

礼拝メッセージ 「英雄か臆病者か」
聖書 ヨハネによる福音書18章15-18節
ヨハネによる福音書シリーズ(154)

18:15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
18:16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
18:17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18:18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

詩篇(口語訳)
1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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陽子は静かに頭を垂れた



三浦綾子さんのデビュー作である『氷点』が世に出されて55年になりますが、最近でも角川文庫の必読名作第1位に選ばれており、その人気は衰えていません。北海道新聞社から出ている『「氷点」を旅する』という本に、次のようなことが書かれていました。
「小説のあらすじは一晩でできあがったが、一番先に私が書いたのは、遺言の章である。この遺言は最後になって出て来るわけだが、作者の私の頭にはこの章が最も鮮明に浮かんでいたのである。この遺言を書きながら、私はポロポロと涙をこぼしていた。『私がこの小説を書きたいのは、この遺言を書きたいためだ。』こう私はつぶやいたものである。」
そして、「たった一人でもいい、この小説を読んでもらえるなら、そして人間がだれも持っている罪の意味を理解してもらえるなら。という気持ちで私は『氷点』を書いた。いわばこの小説は私の信仰の証なのである」とも書かれていました。
綾子さんが伝えたかったこととは何だったのでしょうか。死を決意した陽子の遺言です。

「いま陽子は思います。一途に精いっぱい生きてきた陽子の心にも、氷点があったのだということ。私の心は凍えてしまいました。陽子の氷点は、『お前は罪人の子だ』というところにあったのです。……私は今まで、こんなにゆるしてほしいと思ったことはありません。けれども今ゆるしがほしいのです。おとうさまに、おかあさまに、世界のすべての人々に。私の血の中を流れる罪をハッキリゆるすと言ってくれる権威あるものがほしいのです。」

この陽子の叫びは、自分の真相を知り、自分の限界を知ったすべての人間の魂の叫びではないでしょうか。だれもが、自分の血の中を流れる罪を、生まれてから今日に至るまで、人に対して犯した罪や過ちの数々、自分の醜い心を、ハッキリ「ゆるす」と言ってくれる権威ある方を求めているのです。
「氷点」とは、セ氏零度、つまり、水が凍りになる温度です。毎日の生活の中で、急に心が凍てつき、自分でも信じられないくらい、冷たい言葉や態度、思いに凍りつくことがないでしょうか。それが私たちのうちにある氷点なのです。この氷点に凍えるあなたを、熱い愛をもって抱きかかえるために、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で命を与えてくださったのです。
『氷点』は『続・氷点』へと続きます。三浦綾子は、その最後の場面で、自分では抱えきれない罪の問題に苦しみ続ける陽子を、流氷の見える網走に連れて行きます。そこで陽子は、流氷が燃えるような光景を見るのです。そのゆらぐ焔を見つめるうちに、彼女の心に、一筋の光が差しこんできます。

「流氷が!流氷が燃える!人間の意表をつく自然の姿に、陽子は目を見はらずにはいられなかった。青ざめた氷原が、野火のように燃え立とうとは。・・・またしても、ぽとりと、血の滴るように流氷が滲んで行く。天からの血!そう思った瞬間、陽子は、キリストが十字架に流されたという血潮を、今目の前に見せられているような、深い感動を覚えた。・・・あざやかな焔の色を見つめながら、陽子は、いまこそ人間の罪を真に赦し得る神のあることを思った。神の子の聖なる生命でしか、罪はあがない得ないものであると、・・・いまは素直に信じられた。・・・焔の色が、次第にあせて行った。陽子は静かに頭を垂れた。どのように祈るべきか、言葉を知らなかった。陽子はただ、一切をゆるしてほしいと思いつづけていた。」

『氷点』は最後の最後に、燃える流氷とキリストの十字架を重ね合わせ、罪の赦しという問題の答えと人間が再生していく道を見事に示したのです。すべての人の心にある氷点、罪の問題の解決は、イエス・キリストの十字架にあります。私たちの罪の身代わりとなり、尊い血潮を流してくださったキリストの十字架にこそ、罪の赦しと救いがあるのです。

今月の『ぶどう樹』でも、『氷点』が取り上げられています。日本中で『ぶどう樹」が用いられますように。

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