どこから来たのか



4月の終わり頃から、イエスとピラトとの対話を通して、イエスのご受難の意味について学んでいます。個人的な対話とかみ合わないやり取りは、ヨハネ福音書の特徴でしたが、ピラトが語った「この人を見よ」との声に促され、「この人こそ、人となりたる生ける神なれ」との告白に導かれることこそが、神の御心であり、ヨハネ福音書の目的でした。
さて、これだけイエスを懲らしめたら、ユダヤ人たちの妬みから来る怒りも収まるにちがいないと考えたピラトでしたが、血まみれのイエスを見ると、祭司長たちや下役たちは「十字架につけろ。十字架につけろ」と狂ったように叫び出しました。手がつけられなくなったピラトは困り果て、「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない」と言い放つと、祭司長たちは言います。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」と。
彼らは当初、イエスが自らをユダヤ人の王と言っているとの理由から、ローマ皇帝への反逆罪を訴因として裁判を起こしていましたが、ここで告発内容を変えます。彼らはローマ法に照らしてイエスの有罪を主張してきましたが、ここに至って訴因を、ローマ皇帝に対する反逆罪から、神に対する冒とく罪にすり替えたのです。
神への冒とく罪は、ユダヤ人にとっては大罪であったとしても、多神教でギリシアの神々を奉っているローマ人にとっては無意味なことでした。しかし、イエスの存在に触れれば触れるほど、犯しがたい何かを感じていたピラトにとって、イエスが自らを神の子と主張しているという言葉は、イエスに対する恐れを与えました。人間の姿を装い地上に現れるという神々の物語が彼の脳裏をよぎったのでしょうか。「あの正しい方にこれ以上関係しないでください」という妻からの伝言を受けていたにも関わらず、イエスに酷い仕打ちと辱めを与えてしまった自分に、何か不吉なことが起こるのではないかと思ったのでしょうか。ピラトは、イエスを再び総督官邸に連れ込んで尋ねました。「お前はどこから来たのか」と。

今週も大切なことを大切に。

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汝は、故郷は何処か

礼拝メッセージ 「汝は、故郷は何処か」
聖書 ヨハネによる福音書19章5-11節
ヨハネによる福音書シリーズ(169)

19:5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19:6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19:7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」
19:8 ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、
19:9 再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。
19:10 そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」
19:11 イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

ケセン語聖書(山浦玄嗣訳)
19:8 この言葉を聞いて、ピラトは思わずゾッと寒気がして、はなはだ気味が悪くなった。
19:9 それで、代官陣屋に入って、またもイェシューさまに尋ねた。「汝は、故郷は何処か?」

今週も礼拝の恵みに感謝。

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神の小羊



「エッケ・ホモ(この人を見よ)」。この人とはだれでしょう。ヨハネはその答えを、すでに福音書の冒頭に記していました。それは洗礼者ヨハネがイエスを指さして語ったあの言葉です。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ピラトの法廷に立ち、「この人を見よ」と言われているこの方こそ、世の罪を取り除く神の小羊だったのです。
「世の罪を取り除く神の小羊」とはどのようなメッセージだったでしょうか。「世の罪を除く神の小羊」とは、人の身代わりとして祭壇に捧げられるいけにえのことですが、聖書を読めば、旧約時代、他の動物もいけにえとして使われていたことがわかりますが、小羊に限定された犠牲が2つありました。ヨハネはそのことを承知の上で、イエスのことを「神の小羊」と証ししたのです。
1つ目は、出エジプト記12章に記されている「過越の小羊」です。エジプトを脱出する前夜、イスラエルの家では、傷のない小羊が屠られ、小羊の血がそれぞれの家の鴨居と柱に塗られました。エジプト中の初子を撃つために送られた主の使いが、その血を目印にその家を過ぎ越すためでした。小羊は、イスラエルがエジプトの奴隷の生活から解放されるための身代わりとなったのです。
そして、もう1つはイザヤ53章です。受難のメシアの姿が鮮やかに示された預言の中で、苦難の僕が屠り場に引かれて行く小羊の姿に例えられています。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしたちの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」
使徒言行録の8章に伝道者フィリポがエチオピアの高官を信仰に導く物語が記されていますが、フィリポはこの箇所(イザヤ書53章)から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせました。エチオピアの高官は言いました。「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と。
「この人を見よ。」「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

中学高校は1学期が終わり、夏休みに突入です。

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神の身分でありながら

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
フィリピの信徒への手紙2章、コリントの信徒への手紙一1章から。

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

1:21 そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

今週は神学生による『言泉集』からの学びとお勧めでした。

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エッケ・ホモ



世界一有名になった「エッケ・ホモ(Ecce Homo)」の話です。
2012年のことです。スペインの北部ボルハにあるミセリコルディア教会の柱に描かれた100年ほど前のフレスコ画が近所の老婦人の手によって修復されました。その絵は「エッケ・ホモ」と題された茨の冠をかぶるイエスを描いたものでしたが、修復された絵は「世界最悪の修復」として、瞬く間に世界中に拡散されました。
確かに、ちょっと残念なことになりましたが、実はこの絵を見るために、世界中から観光客がボルハに集まるようになったそうです。スペインの片田舎にある教会に、「エッケ・ホモ」、キリストを見るために人々が押し寄せているという、世界一有名になった「エッケ・ホモ」の話。
聖書の中心はイエス・キリストです。聖書は、今日も「この人を見よ」と少しも迷うことなく、この一点を指し示しています。この人を見るとき、何が起こるのか。今週も、この方から目が離せません。

今週も大切なことを大切に。

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この人を見よ

礼拝メッセージ 「この人を見よ(後編)」
聖書 ヨハネによる福音書19章1-7節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(168)

19:1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19:2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19:3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19:4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19:5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。
19:6 祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」
19:7 ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」

1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

礼拝音楽を豊かに。今日の特別賛美はフルートとヴァイオリンの二重奏で「You raise me up」でした。
今週も礼拝の恵みに感謝。

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使い古された雑巾



ここに真新しい雑巾と、使い古された雑巾があります。どちらがきれいですか? もちろん、新しい方です。では、どちらが貴いですか?どちらに「ありがとう」と言いたいですか? きっと使い古した雑巾の方ではないでしょうか。なぜそう思うのでしょう。きれいでもない。だれも欲しがらない。いつ捨ててもいい。でも、何か貴く、ありがたい。それは、あなたの代わりに汚れ、あなたの手を守って傷ついたからです。
汚れには二種類あります。まず自ら汚れた汚れです。人を憎んだり、ねたんだり、いじめたり、いじめを見て見ぬ振りをしたり、人の悲しみに無関心だったり、年齢と共に心の中に積み重なった見えない汚れです。もう一方で、元々はきれいだったのに、他者の汚れを拭き取って身に着けた汚れがあります。本当は他人の汚れなのに、その汚れを拭き取ったために汚れ、本当はある人が受けるべき傷なのに、その人を守るために受ける傷があるのです。
聖書は、この雑巾のように、汚れを引き受ける人がこの世界にいると教えています。イザヤ書53章から、「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。」あるところに、主の前に育った聖なる人がいたようです。元々、この人には一点の汚れもありませんでしたが、続きにこう書かれています。「彼は軽蔑され、人に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。」この人は、いつの間にか汚れ、傷つき、人々から軽蔑されます。しかし、預言者は見抜きます。この人の汚れは、あの使い古した雑巾の汚れだと。「彼が刺し貫かれたのは私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。」
ここに聖書の語る真実な愛があります。愛と聞くと、誰かにプレゼントする、親切にする、抱きしめるなどを連想します。もちろんそれも愛でしょう。しかし究極の愛は、他者の汚れを取り去ること。雑巾のように拭き取る行為なのです。イエスはその究極の愛を伝えるために、死ぬ直前、弟子たちに体験授業を行いました。ヨハネによる福音書の13章、洗足のストーリーです。「(イエスは)食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」粗末なサンダルで1日中歩き回った弟子たちの足です。泥やほこりがこびりついていたでしょう。その汚い足を次々とイエスが洗います。弟子たちの足はみるみるきれいになりました。しかしそれと並行して、たらいの水は濁り、手ぬぐいは汚れていきます。弟子たちはきれいになるけど、イエスは汚れていきます。それは弟子たちにとって、忘れられない原体験となりました。この体験を土台に、翌日、弟子たちは十字架上で死なれたイエスの姿を目撃します。傷だらけ、血だらけのその姿を。しかし弟子たちは気づきます。「彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった」と。いいえ弟子たちだけではありません。十字架を見たローマの百人隊長も叫びました。「本当に、この人は神の子だった」と。
十字架は本来、醜く、恐ろしい、目を背けたくなるものです。しかし、それは私たちの最大の汚れ、どんなに石けんで洗っても取ることができなかった罪という汚れを拭い取ってくれたからだったのです。
もう一度、イエスに目を向けてみましょう。「イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ(この人を見よ)』と言った。」あなたは愛を見ますか。

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あなたのパンを水に浮かべて流すがよい

今週も祈祷会を大切に。今日の御言葉をシェアします。コヘレトの言葉11章から。

11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
11:4 風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。
11:6 朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれかそれとも両方なのか、分からないのだから。

リビングバイブル
11:6 手を休めずに種を蒔きなさい。どの種が芽を出すか、わからないからです。
ひょっとしたら、ぜんぶ芽を出すかもしれません。

『あかしびと』の5月号から、宣教センターとあかしびとのページを紹介し、投函伝道と文書伝道の尊さを学びました。
少しの実も結ばず、何をしているのだろうと思えるような働きの背後にも、主の御手があることを信じます。

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エッケ・ホモ



讃美歌「まぶねのなかに」は、日本の賛美歌の発展に貢献された由木康牧師(「きよしこの夜」や「血汐したたる」を訳された先生)が作詞されたメイドインジャパンの讃美歌で、ヨハネ福音書19章5節の御言葉をモチーフに、「この人を見よ」という歌詞がくり返し歌われます。この言葉は、ラテン語で「エッケ・ホモ」と言い、いばらの冠をかぶるイエスを描いた聖画の題名として用いられています。
イエスを取り調べたローマ総督ピラトは、イエスが無実であり、その訴えも政治的な案件ではないことから、イエスを釈放しようと努力しました。最初の試みは、過越祭に行われていた恩赦を利用することでしたが、イエスに敵対する宗教指導者たちによって扇動された民衆は、イエスではなくバラバを解放するようにピラトに要求しました。
第2の試みは、イエスを鞭打ちにし、民衆の怒りが収まるのを待つということでした。兵士たちは、イエスの頭にいばらで編んだ冠をかぶらせ、紫色の着物を着せました。イエスを裸にし、上着だけのショールを首のところから結んで、王服に見せかけたのです。マタイの福音書では、イエスに葦の棒を持たせたともあり、兵士たちが、鞭打たれ、血だらけになった憐れな裸の王をイエスに演じさせたことがわかります。
この後、ピラトは、早朝から総督官邸に集まっていたユダヤ人たちの前にイエスを立たせて言いました。「見よ、この男だ」と。この時、ピラトが言いたかったことはこうです。「彼はもはや、恐れるに足りない。憐れな裸の王様に過ぎない。解放してやろう。」ピラトの発言はおそらくその程度の内容でした。しかし、この言葉をここに記したヨハネにとっては、もっと深い含蓄を込めた言葉であったのです。ヨハネ福音書には、語った本人の自覚や意識とは裏腹に、語られたセリフが真理を示すというアイロニー(皮肉)という手法が多く用いられています。ヨハネは、ピラトが先に語った「真理とは何か」という言葉に続き、「見よ、この男を」との特に意味を持たない言葉を用いて、私たちをイエス・キリストに向かわせようとするのです。
ヨハネが福音書の冒頭に記した言葉が思い出されます。それは洗礼者ヨハネがイエスを指さして語った言葉です。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」ピラトの法廷に立ち、「この人を見よ」と言われているこの方こそ、世の罪を取り除く神の小羊だったのです。

今週も大切なことを大切に。

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この人を見よ

礼拝メッセージ 「この人を見よ(前編)」
聖書 ヨハネによる福音書19章1-5節ほか
ヨハネによる福音書シリーズ(167)

19:1 そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。
19:2 兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、
19:3 そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。
19:4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」
19:5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。

今週も礼拝の恵みに感謝。

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