破られなかった衣



十字架の上の罪状書きを紹介したヨハネは、次に十字架の足もとで起こった2つのことを記録しています。第1に、ローマ兵に見るイエスに対する無関心、イエスの衣服の分担とその意味。第2に、婦人たちに見るイエスに対する愛、イエスの母マリアと弟子ヨハネへの愛の言葉、十字架上で語られた7つの言葉の第3語です。
さて、十字架による死刑執行は通常4人の兵士によって行われたようです。十字架の足もとで、イエスの衣服を分配した4人が、その日の担当でした。彼らはイエスを十字架につけてから、まずイエスが身に着けていた上着、下着、頭を覆う布、そしてサンダルを、くじをひいて分けました。彼らの姿は、あまりにも現実的で、十字架の神秘とはあまりにも対照的です。
ところで、イエスが身に着けていた「縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった下着」とはどんなものだったのでしょう。ここで使われているギリシア語のキトンという言葉は、衣あるいは外套とも訳せる言葉です。興味深いことに、出エジプト記28章32節によれば、大祭司の着る服は、縫い目のない織物でなければならないと教えられています。
では、縫い目のない一枚織りの衣、破られなかった衣とは何を意味しているのでしょう。他の福音書を見ると、イエスの死によって、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことが書かれていますが、ヨハネにはそれが出て来ません。かえって、ヨハネは破れなかったものがあったことを私たちに伝えているのです。神殿の幕が破れたことは、地上の祭司の務めが終わったことを意味しますが、破られなかったイエスの衣は、真の大祭司、神の子であるイエスの祭司職はいつまでも終わらないことを、私たちに教えているのです。ヘブライ人への手紙にはこう記されています。「彼はまた、ご自分を通して神に来る人々を徹底的に〈完全に、申しぶんなく、決定的に、とこしえに変わることなくいつも〉救うことがおできになるのです。なぜなら、彼は常に生きておられ、彼らのために神に嘆願されるからです。」アーメン。

今日から秋の京都聖会。
日曜日、名古屋教会での礼拝は通常どおりです。

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全き献身

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
コリントの信徒への手紙二5章から。

5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。
5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

今日は9月19日、『リベカ抄』からお勧めがあり、明日からの聖会のために祈りが積まれました。

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あらゆる名にまさる名



イエスをユダヤ人に引き渡したローマ総督ピラトは自らが書いた罪状書きを、イエスの十字架に掛けさせました。罪状書きには通常、囚人の名前とその罪状が書かれますが、ピラトは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と、その名と彼が名乗った身分をそのままそこに書きました。それは「皇帝のほかに王はありません」と言って、イエスを拒否し、死に追いやったユダヤ人に対する皮肉でもありましたが、神がそう書かせたと言ってもいいでしょう。その日、過越祭を祝うために世界中から集まっていた人々がそれを読んだからです。
十字架のもとに最後まで立っていた弟子のヨハネは、この罪状書きが、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたと伝えています。ヘブライ語は右から左に読みますが、この頭文字を並べると一つの言葉が浮き上がってきます。神の聖四文字です。これは単なる言葉遊びと言われるかもしれませんが、それにしても不思議です。ユダヤ人はこの聖四文字を、「神の名をみだりに唱えてはならない」との教えから、発音するのを止め、アドナイと読むようになり、正しくどう発音するのかは今もわかりません。しかし、いずれにしてもこれは神の絶対的な御名なのです。
これを見たユダヤ人が憤慨し「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書いてくださいと言った真意もそこにあったのです。しかし、ピラトは彼らの訴えを取り扱うことなく、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えました。それはこの罪状書きを、いいえ、この看板(タイトル)を書いたのが、ほんとうは父なる神であったからではないでしょうか。十字架の前に、ただひれ伏すのみです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

今週も大切なことを大切に。

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聖衣

礼拝メッセージ 「聖衣」
聖書 ヨハネによる福音書19章23-24節
ヨハネによる福音書(175)

19:23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。
19:24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

今日の礼拝では、敬老祝福の祈りがささげられ、共に敬老の日をお祝いしました。
今週も礼拝の恵みに感謝。
今日はこれからヨハネ会の親睦会です。

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御名の感動

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
出エジプト記3章から。

3:10 「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。・・・」
3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

今週9月10日で、創立者の大槻武二牧師が召されて15年が経ちました。そこで召天10周年の記念に出版された「雲の柱、火の柱」の序文を紹介し、巻末に収められている「続・選民の花束」から「御名の感動」を紹介し、私たちの使命を確認しました。

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ほら、聞こえてくるのは



昨日は、福井教会でもたれたチャペルコンサートで聖歌隊が歌わせていただきました。聖歌隊は、この世で歌われている歌ではなく、神を讃える歌を歌います。それが讚美です。しかし、私はこう思います。讚美は、人が神にささげているように見えて、実は、それを歌わせてくださるのは神様なのだから、ほんとうは神様が歌っているのではないだろうか。そんな思いに答えが与えられたのは、ゼファニア書の3章18節をリビングバイブルで読んでいた時でした。こう書かれています。「ほら、聞こえてくるのは、喜びにあふれた聖歌隊の歌声であろうか。いや、あれは神様が、あなたがたのことで、喜びいっぱいに歌っておられる声だ。」聖歌隊が歌っているようで、ほんとうは「神様が・・・歌っておられる」というのです。そこでチャペルコンサートのタイトルを「神様からのラブソング」と付けるようになりました。昨日のコンサートもそうでしたが、メンバーが次々に自分の体験した神の愛の物語を語りながら曲の紹介をします。聖歌隊は歌いながら、神様の歌声を聴きました。聴衆は聖歌隊の歌声をとおして、神様の歌声を聴きました。神様の愛につつまれ、聖歌隊の目に涙が光りました。聴衆席のあちらにもこちらにも泣いている方がいました。神様が歌っていたからです。

今週も大切なことを大切に。

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大きな愛

礼拝メッセージ 「大きな愛」宮本裕美先生
聖書 ルカによる福音書10章25−37節

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
10:26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、
10:27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」
10:29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

今日の礼拝では、7月に来日したアンコール合唱団のコンサート映像をダイジェストでご覧いただき、
メンバーが届けてくれた感動のことばの数々をシェアしました。
牧師と聖歌隊は福井教会でもたれるチャペルコンサートに出かけていました。

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ナザレのイエス、ユダヤ人の王



イエスを十字架につけるために、ユダヤ人に引き渡したローマ総督ピラトは、自らが書いた罪状書きを、イエスの十字架の上に掛けさせました。そこには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。ユダヤ人の宗教指導者たちは、「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書き直してくださいと訴えましたが、ピラトはそれを取り扱いませんでした。
十字架のもとに最後まで立っていた弟子のヨハネは、その罪状書きが、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていたと証しています。罪状書きには通常、囚人の名前とその罪状が書かれますが、ピラトはイエスの名と彼が名乗った身分をそのままそこに書きました。それは「皇帝のほかに王はありません」と言って、イエスを死に追いやったユダヤ人に対する皮肉も含まれていたでしょうが、それを書かせたのは神ご自身であったとしか思えません。それは神の御心でした。その日、過越祭を祝うために世界中から集まっていた人々がそれを読んだからです。
世界には多くの言語がありますが、イエスの罪状書きに使われた三つの言語は、当時の世界を象徴していました。ヘブライ語は宗教を、ラテン語は法律と政治を、ギリシア語は芸術と思想を世界に教えた言葉です。つまり、それらすべてのものを治める王として、その名が十字架の上に掲げられたと言うことです。こうして、イエスの名はすべての時代の、すべての人々の前に示されたのです。
このように十字架は歴史の事実であり、キリスト教のシンボルです。それは誰でも知っています。しかし、十字架の前に立ち止まって、そこに掲げられている罪状書きの表ではなくて、その後ろにある事実を見ようとする人は多くありません。イエスの罪状書きの後ろ側には、本来そこにつけられるべきであった私の名前と罪状が書かれていたのです。しかし、その上に、イエスの名が掲げられたので、私の罪は赦され、私は救われました。今日も十字架の罪状書きが、私たちの前に掲げられています。あなたにもそれが読めるでしょうか。「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである。」

次の日曜日は、福井教会でもたれるチャペルコンサートに聖歌隊と一緒に出かけます。

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まさに主が共におられる人です

今週も祈祷会を大切に。御言葉をシェアします。
サムエル記上16章から。

16:14 主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。
16:15 サウルの家臣はサウルに勧めた。「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう。
16:16 王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう。」
16:17 サウルは家臣に命じた。「わたしのために竪琴の名手を見つけ出して、連れて来なさい。」
16:18 従者の一人が答えた。「わたしが会ったベツレヘムの人エッサイの息子は竪琴を巧みに奏でるうえに、勇敢な戦士で、戦術の心得もあり、しかも、言葉に分別があって外見も良く、まさに主が共におられる人です。」
16:19 サウルは、エッサイに使者を立てて言った。「あなたの息子で、羊の番をするダビデを、わたしのもとによこしなさい。」
16:20 エッサイは、パンを積んだろばとぶどう酒の入った革袋と子山羊一匹を用意し、息子ダビデに持たせてサウルに送った。
16:21 ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。王はダビデが大層気に入り、王の武器を持つ者に取り立てた。
16:22 サウルはエッサイに言い送った。「ダビデをわたしに仕えさせるように。彼は、わたしの心に適った。」
16:23 神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。

宣教ボランティアから帰って来た神学生が、学びの時間に教わった賛美の人ダビデのお勧めをシェアしてくれました。

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はてしない物語



ドイツの作家ミヒャエル・エンデが書いた、児童向けファンタジー小説『はてしない物語(ネバー・エンディング・ストーリー)』をご存じでしょうか。バスチャンという主人公の少年が、あることから一冊の本の世界に入り込んで行って、滅びかかっていたその世界を救うというワクワクするストーリーです。でも、考えてみれば、イエス・キリストの物語こそ、いつまでも終わらない、終わらせてはならないネバー・エンディング・ストーリー(はてしない物語)なのではないでしょうか。5年に渡って礼拝で学んできたヨハネによる福音書も、いよいよ十字架と復活の場面を残すのみとなりましたが、著者であるヨハネは福音書の最後にこう書いています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。・・・その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」これぞ神の愛のはてしない物語なのです。

次の日曜日、聖歌隊が福井教会でコンサートをさせていただきます。
福井方面のみなさん、ぜひお出かけください。

今週も大切なことを大切に。

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